一五
アルバイトを始めてから一週間が過ぎた。
洋食屋はランチの仕込みが終わり、ドアの札を一旦クローズドにする。
従業員みんなで
ある者は事務所でテレビを見たり、またある者は厨房で新しい料理を考えたり、その他それぞれだが、僕は昼寝をすることにしている。
コックコートや帽子をロッカーに預け、ティーシャツ姿になるとスマホを手に取り、勝手口から外に出た。
裏路地に店を構えているだけあって勝手口に人気はない。たまに出入りの業者がトラックで食材を運んでくるぐらいだ。
店の隣にある倉庫のシャッターがいつも開いているのはそのためである。
僕は壁沿いに積まれたビール瓶の空ケースを手に取り、倉庫の入り口に持っていって裏返し並べた。その上に潰した段ボール箱を敷いて腰掛ける。スマホを眺め、着信の有無を確認し、そのまま横になった。
左足を伸ばし段ボールに載せる。右足は曲げて地面に付ける。
限られた時間、何ができるわけでもない、寝るに限る。
左腕を額に乗せ、視界を暗くした。
こんな時、樹だったらどうするだろうか? ずっと話し続けるだろう。國分だったら? 多分、そうだな……、小型のノートを取り出して小説のアイデアでも書き出すのだろうか。
教室で話していると、たまにそうするのを見かける。
でも僕は、何もしない。何もないからだ。虎子のように目を瞑るしかない。彼女はもの思いに耽り、僕は昼寝、中身は全く違うのだが。
眠い……。僕は目を瞑った……。バスの座席から夕日を眺める虎子の姿を思い出す……。
僕たちはお互いにそのような性分だからか、会話は一言二言幾つか交わして途切れ途切れ、また交わして途切れる。夏の夕立のように短いものになる。
それでも僕は虎子の言葉一つひとつを鮮やかに覚えている。瓦を直したあの夕暮れに僕は実感した。
彼女との言葉は間違いなく僕の一部だった。彼女は僕の一部だった。
でも、國分の小説ではないが、僕たちは男と女だ。いずれは社会に出る。このまま、ただ一緒にいるわけにはいかない。
将来、僕たちはどうなってしまうのだろうか。
……不安だ、苦しい。彼女も苦しそうだった。僕は夜の道場でのやり取りを思い出し、もっと苦しくなった。彼女が苦しんでいる姿は見たくない。
距離を置くべきなのか。いや、それはそれで無意味だ。何の解決にもなっていない。
そもそも僕は彼女のことが好きなのか。これが好きということなのか。感動も何もないのに?
僕は苦しさの余り、目を開けた。屋根裏は板張りで、錆びた鉄筋が剥き出しになっていた。屋根裏の端に白い雲が見切れている。流れて、少しずつ姿を消した。
「ひっだくーん」
僕は頭を傾け、勝手口を見た。佐藤がこちらに歩いてくる。小柄な体に制服がよく似合っている。
彼女は僕のそばに立ち、笑顔で言った。
「あっそびましょー」
「僕は昼寝中だ」
「まあまあ、そう言わずに。レッツエンジョイ我らが青春」
「……この姿勢のままでいいって言うなら付き合わんでもない」
「寝たまま遊ぶって、飛田くんエロいなぁ」
「……」
毎日この調子だ。明るいにも程がある。僕は額に乗せた腕を入れ替え、顔を反対側に向けた。
「無視しないでよー」
佐藤は腰を曲げ、僕のお腹に両手を置いて揺らした。日曜日の朝、子供に起こされるパパのようだ。
僕は揺れながら言った。
「あのね、佐藤さん、昼休みは、休む、ために、あるんだ、よ」
彼女は揺らすのをやめた。
「また名字で呼ぶ。何度も言ってるでしょ、夕陽でいいって。みんなそう呼んでるし」
「佐藤さんは佐藤さんだ。年頃の男女が下の名前で呼び合うのはもっと親密な関係になってからだ」
「私たち親密でしょ? 家が近所だし」
佐藤とは馬が合う。もう何年も前から付き合っているように感じる。
今までの十六年間で、これほど馬が会うのは虎子に続いて二人目だ。見た目も性格も全然違うのに。
僕は自分というものがよく分からなくなった。
「……嫁入り前の娘がそんな事を言うもんじゃないよ。男は単純だからすぐに勘違いするからね」
「やだ……飛田くんってお父さんみたい。憶えてないけど」
僕は体を起こした。佐藤の顔をじっと見つめる。
「会いたいか?」
佐藤は顔を背けた。
「別にー」
曲げていた腰を伸ばす。背を向けた。
「私とお母さんを置いて出ていった人だもの」
「恨んでる?」
「……どうなんだろ、わかんない。あの人がいなかったら私は生まれてなかっただろうし、だからこの世にいてもいいかな、とは思う」
言葉とは裏腹に不愉快そうだ。
「佐藤さんは大人だな」
それに比べて僕は……。
環境に不満を述べてばかり、学校をやめて逃げ出そうともしていた。情けない、何もかも環境のせいにして、本当に情けない奴だ。
僕は笑みを浮かべた。
心底、己の不甲斐なさを悟ったとき、人は笑うしかない。
……よし、吹っ切れた。僕はもう逃げない。この現実と向き合う。
そう覚悟を決めたら不思議と気持ちが楽になり、また自然と笑みが零れる。
「へー、ふーん」
佐藤がにやりと笑った。
「飛田くんって、そんな風に笑うんだ」
僕はなぜか、自分の心の内を見透かされたようで、顔が熱くなるのを感じた。
「べ、別に笑ってもいいだろ……」
「あ、ごめんごめん」
佐藤は笑った。そして空を見上げ、続ける。
「いつも青白く目は虚ろ話し掛ければ無愛想」
「ほう」
言われたことは置いといて言葉の繋ぎ方に無理がない。
「でも今は晴れ渡ったこの大空のよう、きっと夜には真っ白な雪が降るに違いない。ああ、かき氷食べたい! 宇治金時練乳ぶっ掛け白玉付き!」
佐藤はミュージカルのように言い切ると、僕の背中、段ボールの空いた場所に座り、脚を伸ばした。
「帰りに食べよ?」
「やれやれ、帰るときは夕方だぞ」
手に持ったスマホが震えた。確認すると電話だった。知らない番号からだ。
経験則から、ほぼ間違い電話、あとはセールス。どこからか個人情報が漏れているのか、無作為にかけているのか、どちらにしてもあまり出たくない。
切れた。
佐藤が突然、自分のスマホを取り出した。
「はい、飛田くん」
「……は?」
「良かったね。私とラインできるんだから」
「これはこれは、随分と高飛車じゃないか」
「はよ」
佐藤がワインレッドのスマホを振り急かす。
僕は自分のスマホを操作し、二次元コードを表示して読み取ってもらった。
「よーし、ゲット! 早速、夜に送るね。あ、通話のほうがいいかも」
佐藤はにこにこ顔だ。
「かけてくるのはいいが、何するつもりだ」
「だって夜、暇なんだもん。皆、勉強、勉強って忙しそうだしぃ」
拗ねたように言う。
ラインを交換したのは失敗だったかもしれない。僕は早寝早起きだ。
「さて、お仕事の準備でもしますか」
佐藤はスキップを踏みながら厨房に入っていった。
僕も着替えなくてはいけない。腰を上げた。
そう言えば、僕はスマホを見た。先ほどの電話はもしかして……、折り返した。
「もし、もし?」
「……飛田君?」
「やはり國分さんか。もしやと思ってかけ直したんだが、どうやら正解だったようだね」
「ええ」
「夏休みに入ったら、すぐにあるかなと思ってたんだが」
「あの、じつは携帯電話を持ってなくて、買うまでに少し時間がかかってしまって、それから使い方を覚えるまでにまた少し……」
國分はこの手の文明の利器が苦手そうだ。何となく、そんな気がする。
「今夜、会える?」
「ああ、そうだな……」
アルバイトが終わるのは十七時過ぎで、佐藤との約束があるから、家に帰ってシャワーを浴びて……。
僕は言った。
「十九時、半ごろになるかな」
「うん、わかった。じゃあ、待ってるね」
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