一四
僕の家から少し離れた場所に繁華街があり、その路地裏に一軒の洋食屋があった。
長年その場所で営業を続けている老舗で、現在は三代目の料理長が仕切っている。
代替りしても変わらない味が評判で、とくにビーフシチューが美味らしい。
僕は食してないから知らない。
ガラス透かしの入った木製のドアを開けた。鐘がからんと鳴った。まだ昼前だったので店内の客はそう多くなかった。
「いらっしゃいませー」
「今年もよろしくお願いします」
「よろしくね、飛田くん。さあ、厨房に行って挨拶してきなさい」
「はい」
昨年の夏休み、僕はここでアルバイトをした。
あまり愛想がいいとは言えない僕に接客業は無理だし、体力もないので強度の肉体労働も無理、だから無愛想なコンビニ店員でもやろうかと考えていた矢先、求人雑誌で見つけたのがこの洋食屋だった。
仕事内容は厨房での皿洗い、野菜を切る仕込み、食材の搬入など体を使う労働だったが、時給が申し分ない。
何より
何事も考え方次第だ。
僕は今年も頭を下げ、雇ってもらった。
「料理長、今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
料理長からコックコートと前掛け、帽子を渡された。
「そうだ、飛田くん。君と同じ学校の子がバイトで入ったよ」
「そうなんですか?」
珍しい。この辺りは月代高校からかなり離れた場所にある。どちらかというと他校に近い。昨年もアルバイトで雇われた女の子は他校の生徒だった。
僕は興味を覚え聞いてみた。
「厨房ですか?」
「いや、ホールだよ。今日から入ってもらってる」
「そうですか……」
ホールということは女の子か。僕は厨房だから顔を合わせることも少ないだろう。僕は気に留めず、働き始めた。
時間は朝八時から夕方十七時まで、この日は正午過ぎから厨房に入った。
黙々と皿を洗う。
店は昨年と同じく盛況で、味は落ちていないようだった。次から次へと運ばれる皿でわかる。ほぼ食べ残しがない。
ランチの時間帯が過ぎ、コーヒーカップや小皿などが増える。
それが一段落するとディナーに向けての仕込みが始まった。人参、じゃがいも、玉葱を切った。
初日ということもあり時間はあっという間に過ぎる。人間、習慣化されていない状態に置かれると時間の感覚がおかしくなる。気づいたらもう十七時を回っていた。
僕は料理長や厨房スタッフに挨拶し、更衣室に向かった。久しぶりに体を動かしたせいか疲労感が半端ない。眠たかった。
更衣室に入り、自分のロッカーを開けた。ボタンを外し、コックコートを脱いでハンガーに掛ける。
脱いでそのままロッカールームに置かれた洗濯箱に放り投げてもいいのだが、何となくコックコートの汚れぶりを眺めたかった。
汚れが多いほどよく働いた気がする。
見たところ今日はまだまだのようだ。明日はもっと頑張ろう。
入り口のほうから金属の
更衣室はエル字型で、僕のロッカーは奥のほうにあったので誰が入ってきたかは見えない。
気にはなったものの僕は構わず、汗で濡れたティーシャツを脱いで上半身裸になり、持参したタオルで体を拭いた。
その間、物音一つしなかった。あまりにも静か過ぎる。
僕は部屋の角からドアのほうを覗いた。ウェイトレス姿の女の子がドアにもたれ掛かっていた。
黒髪のショートヘアで、白のブラウスに黒のスカート、フリル付きの白いエプロンが腰に巻かれている。
メイド風だが、露出の多い今風ではない。清潔感のある制服だった。
彼女はドアから離れ歩き出した。
ふらふらとロッカーの名札を一つひとつ見ている。
……ここは男子更衣室、女子は真向かいの部屋だ。
僕は上半身裸だったため、首だけ角から出して言った。
「もしもーし、ここは男子専用ですよー」
彼女は立ち止まり、深いため息をついた。僕の声が小さかったのか、聞こえていないようだった。
僕はもう一度声を掛けようとして、気づいた。
「佐藤さん?」
「はいっ!」
女の子がぴんと背筋を伸ばした。
「やっぱり佐藤さんか」
「……あれ?」
佐藤は笑顔になった。
「いつも正門のところですれ違ってるよね」
「あ、ああ。何だ気づいてたのか。じゃなくて佐藤さん、ここ男子用」
佐藤はきょろきょろと辺りを見回した。
「あっ」
と言って走り出す。ドアを開けて出て行った。
「ごめんなさい!」
ドアのクローザーが働き、ゆっくりと閉まる。軋む音は鳴らなかった。
「あはは……」
照れ隠しなのか、佐藤は自転車を押しながら笑っている。
「あ、私は
「僕は飛田征爾、佐藤さんと同じ二年、クラスは一組だ」
「私は三組。そうなんだー、同じ学年だったんだね。私たちの学校って生徒数多いもんね」
思ったとおり、明るい子だ。走っているときは凛々しい顔をしているが、今は力が抜け緩い感じ、そこら辺にいる普通の女の子と何ら変わらない。
丈の短いスキニージーンズにサンダル、襟が網の目になっている半袖カットソー、髪はブラシで梳いているのか、癖毛の向きに意図的なものを感じる。
「にしても、佐藤さんってドジっ子なんだな」
「ど、どじっこ!」
「いや、そうだろ、いくら初日でテンパっていたとはいえ、男子の更衣室に入ってくるんだから」
「あはは……、はぁ」
佐藤はため息をついた。
「で、何でバイトなんてやってるんだ。陸上は? もうすぐインターハイだろ?」
「あれ、何で私が陸上部だって知ってるの?」
「いや、さっき正門ですれ違うって……」
「あ、そっか」
……大丈夫か? 僕は何だか心配になってきた。
「あー、うん。地区予選までなら何とかなったんだけど、インターハイともなるとお金がいるからね。空いた時間に少しでも稼いでおかないと」
佐藤は苦笑いを浮かべた。
「親は援助してくれないのか?」
「してくれるけど……。これ以上、苦労をかけたくないんだ」
「……親孝行だな」
「うん、そうでしょ」
「そこは普通、謙遜するところじゃないかな」
「えー、だって本当のことだもん。お母さん、私が小さい頃に離婚して、それ以来ずっと二人で生活してきたし、持ちつ持たれつだし」
「そうか……」
見た目から、その人の生い立ちは
しかしながら言葉というものは道具でしかない。道具でしかない以上、自分の考えや思いがどうであろうと使うことができる。
詐欺師がそうだ。でも僕は詐欺師じゃない。
「……僕の家も経済的にきついが、親父とお袋は
「駆け落ち?」
「ああ、親や親戚の反対を押し切って東京からこの街に逃げてきたらしい」
佐藤は自転車を止めた。
「かっこいい……」
笑顔がふわっと花開く。ゴールを突っ切ったあとに見せるあの笑顔だ。
僕は桜を思い出した。風に吹かれ舞う花びら……。
美桜に言われて開いた手のひらに自然と落ちてくる……。
「……」
「飛田くんのお母さんとお父さんって愛し合ってるんだね!」
「あ、ああ……」
「そっか、飛田くん幸せ者だなー」
佐藤は歩き出した。
僕は置いて行かれた。
……馬鹿だ。僕は馬鹿だ。
なぜこんな大切なことを忘れていたのだろう。
「……そうかもしれない」
「ねーねー飛田くんの家ってどこ?」
「こっちだ」
「あ、奇遇」
僕たちは並んで歩いた。虎子の家へと通じる橋の手前で曲がり、坂を上った。
「私、あそこに住んでるんだ」
「ほう、奇遇だな」
佐藤が指し示したのは街灯に照らされた白い建物、団地だった。敷地に入る。
「あそこが私の家」
「僕の家はここだ」
僕と佐藤は隣同士だった。棟が違うだけだった。
「……佐藤さん、通学は自転車かな?」
「うん、そうだよ」
「なるほどね」
僕はバス、佐藤は自転車、道理で登下校時に会わないわけだ。
聞けば、スポーツ推薦で別の高校に行くはずだったが、母親の仕事の都合でこの街に越してくることになり、月代を受験したと言う。
「じゃあ、明日も頑張って働こう!」
佐藤は拳を頬のところでぐっと握り、ポーズを取ると、ぱっと開いて小さく振った。
「ばいばい」
自転車を押して走っていった。
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