一三

 僕は國分と一緒に帰り、いつもの坂道で別れた後、虎子の家に立ち寄った。門の前で屋根の瓦を見上げる。

 川下から虎子が歩いて来た。八千代の散歩から帰ってきたようだ。白い半袖のポロシャツにブルージーンズ、スニーカー、手には紙袋とスコップを持っている。

 虎子が僕の隣に立ち屋根を見上げた。僕は再び瓦を見上げ、指差す。


「あそこの瓦、直さなければいけませんね」

「……いい、私がやる」


 八千代が僕の足元で腹ばいになった。舌を出して、息をしている。


「駄目です。これは末席の僕の役目です」

「うちの道場にそんな役目はない」


 虎子は八千代を立たせると、門の中に入っていった。

 僕は言った。


「虎ちゃん」


 虎子が立ち止まる。振り返ろうとする。


「待って」


 僕が言うと虎子の動きが止まった。僕は深呼吸して続けた。


「あれからずっと考えていたんだが、僕はどうすればいいのか……。今も考えはまとまっていないけれど、何というか……言葉が何も浮かばないんだ」


 虎子は背中で聞いている。


「でも、待ってて。これから僕はどうするべきなのか、虎ちゃんとどうなりたいのか、必ず答えを、言葉を見つけるから、待ってて」


 全然、論理的ではない。何だか格好悪い。頭を掻きむしる。恥ずかしい。


「…………わかった」


 虎子が背中を向けたまま言った。八千代がお座りして虎子の顔を見上げている。


「……うん。言いたいことはそれだけ、じゃあ、また」


 僕は立ち去った。が、すぐに戻り言った。


「あ、忘れてた」

「な、何だ!?」


 虎子が振り返る。顔が真っ赤だ。


「あー、その……じつは頼まれまして」


 僕はいつもの丁寧な口調で文芸部のことを話した。


「文芸部? 聞いたことないな」

「正式には部ではないんですが、あくまでも自称でして」

「自称」

「そう、自称です。それで、その自称文芸部の中に時代小説を書いている子がいまして、その子が武士の立ち居振る舞いを知りたいそうなんです」

「……わかった。父に話してみよう」

「ありがとうございます。じゃ、じゃあ……」


 僕は手を上げ、ぎこちなく歩き出した。


「待て」


 振り返ると、虎子が八千代と一緒に門から出てきて瓦を見上げた。僕のほうに目を向け言う。


「瓦の直し、頼めるか?」

「……もちろんです。これは僕の、末席としてではない、飛田征爾としての役目ですから」


 虎子が目を細める。


「ありがとう」


 僕は門をくぐり中に入った。


「征爾?」

「今すぐにやりましょう」

「……そうだな。脚立を取りに行こう」


 八千代を犬小屋に入れて、物置から脚立を取り出した。虎子が脚立を押さえ安定させる。それを僕は一段一段上る。

 屋根に上がり姿勢を安定させると、浮いていた瓦を戻し、振り返った。川を見下ろす。

 日がだいぶ落ちて薄暗かった。西日がゆっくりと影に押され、水草が流されないよう、水中で揺れている。

 もう少ししたら、この川で蛍が飛び交うようになる。

 暑さ落ち着き、暗闇から聞こえる川の音、無数の蛍の光、不思議なものだ。


 蛍はただ本能で動き回っているだけなのに、見た者に感動を与える。

 僕には光が飛び回っているようにしか見えないのだが、他の人はそうではないらしい。

 光を見て感動する、とても飛躍している。

 僕は國分の小説を思い出す。

 彼女はただ好きで書いているだけなのに、僕は考えさせられた。

 これもまた飛躍だ。

 この飛躍は一体、何なんだろうか。人と人の繋がり、本当に不思議なものだ。


 チッチッチと対岸の森から蝉の鳴き声が聞こえた。

 対岸には道路があり、道路に面して鳥居がある。鳥居の向こうには参道が続いていて、その参道の先には深い森に囲まれた拝殿があり、佐々家の氏神が祀られている。

 僕は虎子に目を向けた。彼女が心配そうに見上げている。


「先輩、いい眺めですよ」


 僕は脚立を握り、片手を下ろした。虎子が数段上り、僕の手を掴む、一歩一歩上ってくる、僕はぐっと引き上げた。

 屋根に座り、肩を並べる。

 黙る。


「……おい、何か話したらどうだ?」


 虎子に促され、僕は記憶を頼りにぽつりぽつりと話し出した。

 昔話、剣術や神社の祭り、美桜や居水のこと、どれもこれも二人の思い出だった。


 考えてみれば、虎子と話す言葉には全て背景があり、歴史がある。

 言葉と言葉の間に挟まれる息遣い、自然と重なる呼吸、神社の万葉が黄昏の風に吹かれ揺れる。

 日が沈み、夜になっても、なぜだろう、とても落ち着いている。楽しかった、でもすごく楽しいわけではない。ただ静かで穏やかな世界が僕を、いや、僕たちを包んでいる。

 初夏の夜、僕たちは居水が声を掛けてくるまで言葉を交わした。

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