一二

「征ちゃん、俺はもう耐えられないよ。こんなにもラブコールを送っているのに、なんで気づいてくれないんだろう。こんなんじゃ俺の青春が終わってしまう。もう諦めるしかないのかな……」


「いや、まだだ。まだその結論は早いぞ、樹。学校という閉鎖社会では強制的に個々の時間が共有されるので恋愛関係に発展しやすいものだ。それに比べ、社会に出たら出会い自体が少なくなるし、出会ったとしても恋愛関係に発展する確率は下がると思う。そう考えたら、今のこの状況は恵まれている、そうは思わないか?」


「それは、そうだけど……」

「佐々道場の先達も『人生、何事も自分次第だ』と言っていたから、頑張れ」

「うん……」

「……あの、何の話をしているのか理解に苦しむんだけれど、もしかして私に関係ある? だとしたら、ちょっと大げさじゃない? 私はただ飛田君に小説を読んでもらって、アドバイスをして欲しいだけなんだけれど」


 樹は深いため息をつくと、剣道着を手に取り、名残惜しそうに何度も振り返りながら教室を出ていった。

 放課後だった。

 樹が出ていった後、僕は國分から書きかけの小説を見せられ、助言を求められた。

 新人賞に応募したいそうだ。下校中の、あの僕とのやり取りからずっと考えていたらしい。

 受賞すれば賞金がもらえ、単行本として出版されると言う。


「波さんたちは応募しないのか?」

「……純文学の賞よ」

「……うむ」


 僕は夕焼けに染まる教室で國分の小説を読んだ。四〇〇字詰め原稿用紙八〇枚ほど、黒いつづひもじられている。

 読んでいる間、國分は落ち着かない様子で窓辺に寄ったり、椅子に座ったり、教壇に立ったり、忙しそうだった。


 僕はあえて触れず、一枚一枚読んでは國分の机に裏返して置いた。風に飛ばされないよう、自分のスマホを文鎮代わりに載せる。

 小説の内容は次のようなものだった。

 幼馴染の少年と少女が成長するにつれ声変わりや初潮を迎える。肉体的な変化が二人を男と女に分けようとする。そのことに少年と少女は戸惑い、母と子が分離するような苦しみを覚える。


 友人関係の変化、すれ違う日々、やがて少年の父親が転勤することになり、二人は離れ離れになってしまう。

 ここからは手紙のやり取りだけで進行する。どこか『愛と死』を彷彿とさせる構成だ。

 二人は文章を書き出すことにより、客観的に自分を見つめ直し、自分は男だ、女だと自覚するようになる。


 最後にはお互いをいたわり、認め合い、親友になろうとする。

 僕は自分と虎子を重ね合わせた。親友か……。僕は虎子とどのような関係になりたいのだろうか……。


「ど、どうかな?」


 國分が廊下から顔だけ出している。


「そうだな……」


 この作品の特徴は何と言っても文体だ。短歌の影響を受けているのか、語感を大切にしていて、いろはにほへと、とても響きがいい。

 それに、これはあまり小説とは関係ないのだが、文字が全て万年筆で書かれていて、やや崩した行書、達筆だった。


「もしかして國分さんは書道をやっていたり、する?」

「うん。幼稚園の頃からずっと習ってる」


 國分は純粋培養、生粋の大和撫子らしい。僕は原稿の端を整え、綴り紐を通し、結んだ。


「……いいね。読んでいると前向きな気持ちになるよ。それにとても読みやすい」


 僕は、恐る恐る近寄る國分に原稿を返した。


「本当に?」

「本当に」

「ありがとう!」


 國分は嬉しそうに受け取ると自分の机に座り、体を僕のほうに向けた。原稿を膝の上に置き、ぐっと身を乗り出す。


「ね、ね、どこが良かった?」

「……考えさせられた。社会問題や人の業を書いているわけでもないのに、なぜだろう……。多分、誰にでも覚えのある普遍的なテーマ、思春期を迎えた男女の繊細な関係性を取り扱っているからだと思う。そこが良かった」


 つまり、僕に問題提起したのが良かったと言いたいのだが、それは個人的な問題なので言う必要はない。


「あの、感想が難しすぎてよくわからないんだけど」

「そうだな、なんと言えばいいか……」


 このような作品は今まで幾つか当たってきた。間違いなく力のある作品だ。


「……うん、國分さんの小説は誰かに語りたくなるほど素敵ってことだ」


 僕は笑った。背後から風が吹き抜け、國分の髪を揺らす。


「もう梅雨明けしたのに、風が冷たいな」


 僕は背後にある開け放された窓に目を向けた。

 冷えを感じるのは衣替えしたばかりで、半袖だからかもしれない。体がまだ慣れていないのだろう。


「窓、閉めようか?」


 僕の言葉に國分は何も言わない。彼女は僕の顔を見つめたままぼうっとしている。


「……國分さん?」

「は、はい!」


 声が裏返った。國分は急に立ち上がり、歩き出す、足が引っ掛かり机が音を立てた。

 何だ? どうした? ……まあ、いいか。いつもの情緒不安定だろう。


「ただ、残念なところもある」


 聞こえていないのか、國分は原稿を手にしたまま窓のほうに歩いていった。

 僕は構わず続けた。


「今はネットでネタバレやレビューなどを読んで買う人も多いから、ストーリーの面白さ、キャラクターの魅力も大事だと思う。山場や落ち、萌えや燃えなどの要素も必要だ。残念ながら國分さんの小説にはそれらがない。やや盛り上がりに欠ける」


 國分は肩を上下に動かし、なぜか深呼吸しているようだ。そして僕に背中を向けたまま言った。


「確かに、確かにそうだけど、それって本当に必要?」

「必要だ。でなければ印象に残らない。印象に残らなければ誰にも語られない。語られなければカテゴリーの中に埋もれてしまう。僕が今まで読んできた小説もそうだった。作品の中でいつも思い出すのは人物であったり、物語の展開であったり、教訓であったり、言い回しであったり、そういったものがあるからこそ、今すぐにでもそれらの作品について語ることができる」

「……言われてみれば、そうかもしれないけれど……」

「だから、そこを意識して、劇的な結末を準備するか、魅力的な人物を創造するか、文体で読者の意識を絡め捕るか……」

「うー、難しい」


 國分は唸りながら原稿をじっと見つめている。

 僕も立ち上がり、窓に寄った。國分から窓一枚置いた距離に立ち、窓のレールに手を置いて外を眺める。

 夕焼けに照らされたグラウンドはあかね色で、陸上部が直線部分を代わる代わる走破していた。


 佐藤がスタートポジションについた。小柄な体型やスパッツから伸びる細い脚、力みのない立ち姿を見れば、遠く、顔が見えなくても彼女だとすぐにわかる。


「ねえ、飛田君」


 國分は窓に背を向けると、壁に少し寄りかかった。


「何だい、國分さん?」


 佐藤がクラウチングスタートの準備に入った。


「今まで読んだ小説の中で一番印象に残った作品は何?」

「一番か、それは難しいな。いずれの作品も商業出版されているだけはあるからね。良くも悪くも印象に残っている」

「じゃあ、一番最初に読んだ小説は?」


 佐藤が駆け出した。前傾姿勢、加速する。ゴールのラインを突っ切った。


「『老人と海』だ」


 老人は生きるために漁に出た。戦い、何も得られなかった。ただそれだけの話でしかない。

 それを読者が勝手に、これは凄い、深いと、考察という名のわがままを押し付けただけなのかもしれない。


 そもそも作家が内面と向き合い、主体性を発揮して書いた作品に考察もくそもない。

 人の心は多彩だから、それらを明らかにすることは不可能で、僕にできるのは解釈だけだ。


「そう、それで感想は?」

「僕はサンチャゴのように強くはない」

「飛田君?」


 僕は『老人と海』を読むまで何も考えていなかった。無自覚、浅慮せんりょのまま、ただ生きてきた。

 学校に行けば教育を受けられるのが当たり前、病院に行けば治療を受けられるのが当たり前、親はあんなにも苦労しているのに、僕は何もしないでのうのうと生きている。

 この現実を、いやこの物語をどう解釈すればいい? 


「飛田君、大丈夫? 顔色悪いよ?」

「……なんでもない」


 僕は國分を見た。夕日で上半身が赤く染まっている。夏服で、白いセーラー服に赤いスカーフ、黒のスカート、黒いソックス、窓のレールに片手を置き、もう一方の手には原稿を持って僕を心配そうに見つめている。


「……もうすぐ夏休みだな」

「……そうだね。何か予定でもあるの?」

「バイト」

「そう、残念、夏休みも付き合って欲しかったのに」

「バイトは昼間だけだから、夜に会えなくもないが、どうする? 僕が國分さんの家に行こうか?」

「いいの?」

「いいさ、どうせ暇だし」


 僕は自分の机からノートを取り出し、スマホの電話番号を書いて破り取る。


「はい、これ」


 國分は紙を受け取り、じっと見つめた。


「僕の電話番号、たまに面倒くさがって出ないときもあるけれど、気が向いたらいつでも遊ばせ、お嬢様」

「う、うん」


 國分は頷いた。

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