一〇

 二十一時が過ぎた。

 宴もたけなわ、居水が立ち上がり、道場の再開を宣言して三年祭が終わる。

 先達たちがわいわい言いながらぞろぞろと、道場から出ていった。


 運転手が迎えに来る者、夫婦でタクシーに乗り込む者、歩いて帰る者、僕は残り、婦人会の方々と一緒に後片付けをした。

 背後で虎子が小鉢を片付けている。膝を突き、僕に背を向けている。


 國分と初めて帰ったあの日以来、僕たちは何度か顔を合わせたものの、どうもしっくりこない。ぎくしゃくしていた。

 こんな日に不謹慎だとは思ったが、虎子の背中を見ているうちに弁明せずにはいられなかった。


「先輩、彼女はただのクラスメイトです」


 虎子の背中が止まった。


「…………そうか」

「そうです」


 虎子は小鉢やグラスをお盆に載せると、立ち上がり、道場から出ていった。

 片付けが一通り終わり、僕は一人残って道場の雑巾がけをした。


 この道場では一日の始まりと終わりに雑巾をかけるのが習わしだった。

 いつもは虎子がやっているのだが、本来なら末席である僕の仕事だ。今ここにいる以上やらねばならない。

 学ランを脱いで壁の木刀掛けに引っ掛ける。靴下を脱いだ。床に雑巾を当て何度も往復する。

 雑巾を滑らせながら、ふと自分の部屋の汚れ具合が気になる。

 今度、掃除しよう。

 とくに書棚を綺麗にして、改めて文庫本を読み返そう。新たな発見をして國分との話の種になるかもしれない。


 雑巾がけを終え、道場の灯りを消した。高窓から月の光が射し込み、床を照らす。雨はいつの間にか止んでいた。

 僕は月明かりの中、道場を見て回る。母屋にはよく上がっているが、道場は本当に久しぶりだった。

 壁の木刀を見る。

 長いものから短いものまで、薙刀を模したものもある。


 小太刀を手に取り、道場の中央に歩いていった。神棚に礼、片手で構え、振った。何度もやらされた素振りだ。体が覚えているのだろう、考える前に小太刀が先行する。自然に笑みが零れる。

 入り口から漏れる光に人影が映った。虎子だった。虎子は壁から太刀を取ると言った。


「久しぶりに一手願おうか」

「お手柔らかに」


 僕と虎子は正眼に構え、向かい合った。僕が仕太刀したち、虎子が打太刀うちたち、言葉にするまでもない、演じるは小太刀の型だ。

 決められたいくつかの動きをした後、虎子が足を入れ換え僕を斬る。それに合わせて僕は足を入れ換え斬り返す。

 虎子の太刀が外れ、僕の小太刀が彼女の手首に触れた。

 型という決められた動きの中で正中線を制した者が斬り、制された者が斬られる。因果応報、宇宙の真理とも言える世界を体現する。


「腕は落ちていないようだな」


 虎子はヘアゴムを取り、首を振った。髪がふわっと広がる。手櫛で左肩に流し、木刀を右肩に担いだ。

 その仕草は美桜そのままで、虎子はきっと無意識にやっているのだろう。

 僕はとても懐かしい気持ちになった。


「流石、とおで中伝を取っただけはある」


 虎子が初伝を取ったのは十二の頃だったから、我ながら、かなり早かったと思う。

 そう言えば……。

 僕は思い出し、笑った。


「どうした?」

「いえ、僕が中伝を拝したとき、三日ほど口を聞いてくれなかった女の子がいたな、と思い出しまして」

「あ、あれは――」


 虎子は色々と言葉を絞り出そうとしたが、どうやら諦めたようだ。息を吐き出す。


「あったな、そんなことも」


 虎子は、はにかんだ。


「でも、今は奥伝までいったぞ。君よりも位は上だ」

「それはそれはお見逸れしました」


 僕は木刀を腰に回し、頭を下げた。

 虎子がふふっと笑った。


へりくだるな。もし君が続けていれば今頃はきっと……」


 虎子は黙ってしまった。僕の顔をじっと見つめ、そして高窓を見上げた。

 月が窓枠に掛かっている。ほぼ満月に近い。

 虎子の顔が月明かりに染められ青かった。


「あの頃もよくこうやって、二人で月を見上げたな」

「そうですね」


 虎子が俯いた。


「『そうだね、虎ちゃん』って言ってくれないんだな」

「……先輩ですから」

「…………何で私は君と同じではないんだろうか」


 虎子は自分の胸を触った。指に押され形が変わる。


「中学、いや高校に入ってから急激に体つきが女になった。力も思うように入らない」

「……」

「もし私が尾上みたいに男だったら、せめて、君と一緒にいたあの娘のように同じ年齢だったら、もっと、ずっとずっとそばにいられたのにな……」


 僕は言葉が出なかった。目を逸らし、どこかで聞いたふうなことを言った。


「これが、現実です。どうにもならない現実です」

「…………そうだな」


 虎子は哀しげに微笑むと木刀を元の場所に置いた。


「雨戸は私がやっておく」


 道場から出ていった。虎子の気配が消え、僕は呟いた。


「虎ちゃん、虎ちゃん……」


 呟くたびに言葉が対象からすり抜ける。空に消えて何も残らない。

 僕はまた何も言えなかった。

 美桜が死んだあの雪降る夜と同じだ。道場の壁に座り込んで泣きじゃくる虎子を前にして、僕はハンカチを差し出すしかできなかった。隣に座り、何も言えず、ただ虎子が泣き止むのを待っているだけだった。


 僕は愕然として壁に寄り掛かった。

 道場を見渡す。さっき雑巾がけをしたのでほこりも舞わない。何もない空間から目を逸らし、手に持った小太刀を見つめ、床の間を見つめた。

 天照大御神の掛け軸、その両脇には香取と鹿島が掛けてある。それらの頭上には神棚がまつられていた。


 頭が高い、僕は腰を落とした。膝を抱え丸くなり、そのまま横に倒れた。

 虎子に何と言えばよかったのか。

 男はこうあるべき、女はこうあるべき、先輩には敬語で、後輩は謙譲の心を持て、そんな社会の常識や慣習を前にして僕は何と言えばよかったのか。

 僕は小説を読んでも感動しない人間だったから、常識や慣習といった基準が必要だった。そういったものがないと言葉一つ発することもできない。だから何と言えば――。


 全身から力が抜ける。小太刀が手から零れ落ち、床を鳴らした。

 乾いた音が空間に響き渡る。

 静かだ。道場はとても静かだ。車の音さえ聞こえない。しじまが僕を追い立てる。


 お前は今まで感動を知るために本を読み漁り、知識で自分をそれらしく、年相応の人間にかたどってきた。

 他人がそうであるからと、本当は感動もしていないのに感動した振りまでしている。

 そして時には自分の空しさを誤魔化すために他者と軋轢あつれきを作り、自分を何者かに定義しようとした。定義さえすれば、いつか自分なりの言葉が口から出てくる、そう考えてきた。


 で、結局このざまか。

 ここぞというときに何も言葉が出てこない。出てきても、すり抜ける。

 どうしようもない奴だ、お前は。空っぽなんだよ、お前は……。


 僕は声に出さず自分に話しかけていた。

 自分とは何者なのか。

 毎朝、鏡で見る自分、これまで常識や慣習をもとに様々な言葉を発してきた自分、何もない空っぽの自分、もう、うんざりだ。いずれの自分とも話したくなかった。


 目を瞑り、鼻を床に押し当て、先ほどの虎子との演武を思い出す。

 剣術の伝統は弟子が師を超えるからこそ守られる。それができなければ腐るのみ、僕はこのまま腐るのか、何も言えず――。


「虎子」


 初めて呼び捨てにした。この言葉はすり抜けなかった。虎子という確かな形をもって僕の胸に響いて留まる。その感じはとても鮮やかで、華やかだ。

 この違いは何だ? 同じ人物に言った言葉なのに。

 生まれて初めて口にしたからか。

 いや違う。

 自分が口にしたかったからだ。


 考えてみれば、僕は今まで既にあるものに対して言葉を使うだけだった。

 始めに物や事があり、次に言葉がある。その流れの中に感性はなく、情熱もない。

 本から得た言葉、どこかで聞いたふうな言葉を応用して言いたいことを伝えるだけ、それはただの惰性であり、道具としての言葉があるだけだ。

 だから言葉がすり抜ける。口にした途端、その音は役目を終え、空に消える。何も残らない。


 だけどさっきの言葉は違う。空に消えることなく僕の胸に残っている。『僕が』言いたかったからだ。虎子に言いたかったからだ。

 僕は言葉を通して、初めて何者でもない自分というものを実感した。


『――もっと、ずっとずっとそばにいられたのにな……』


 虎子の哀しげに微笑む姿を思い出す。

 僕は考えなくてはいけない。

 僕には心がないから、言葉しかないから、僕の心となる言葉を、虎子に捧げる言葉を探さなくてはいけない。

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