僕が虎子の家を出て、両親と暮らし始めた頃の話だ。

 中学に上がる前、虎子に連れられて自分の学生服姿を美桜に見せに行ったことがあった。

 美桜が門の前で僕たちを出迎える。無言で僕の周りをぐるぐる歩き、四方八方から僕の学生服姿を眺めた。


「ふふん、馬子にも衣装だね。少しサイズが大きいようだが、君は伸び盛りだ、すぐにぴったりくるだろうよ」


 美桜は僕の正面に戻ってくると腕組みをした。僕を見下ろし、若干切れ気味に言った。


「いいかい、征爾? これからは君のことを一人の男として扱うからな。呼び方も征爾ではなく『征爾さん』と呼ぶ。私のこともおばちゃんじゃなく『美桜さん』と呼ぶように。それから、これは君のお母さん、皐月さつきと相談したことなんだが、君はしばらくの間、うちに来ないほうがいいだろう。剣術の稽古も休め。今はあんな棒切れ振り回すよりも、もっと皐月と征一郎さんのそばにいて、家族とは何なのか考えるようにするんだ。考えても答えは出ないだろうが、この場合、考えること自体が『ムスヒ』に繋がるからね、いいね?」


 僕が素直に頷くと、美桜がぷいっと顔をそらした。手を振り、早く行くよう促す。

 そばにいた虎子が僕と美桜の間に割って入った。


「お母さん、あんなに征爾のこと気にかけていたのに、もういいの?」

「――虎子! い、いいんだよ、もう! ほら征爾も早く行きな!」


 僕は少し寂しさを覚えつつも頭を下げ、背を向けた。


「……待ちな」


 美桜が引き止め、僕に歩み寄る。僕の襟に手を伸ばし、開いていた学ランの詰め襟を留めた。


「しばらくはお互いのために会わないほうがいいけれど、これが永遠の別れというわけでもない。次に会うとき、君がどんな男になっているのか楽しみにしているよ」


 間近で見て初めて気づく、美桜の瞳が潤んでいる。


「花も実もある武士であれ、征爾さん――」


 ――雨が強くなった。

 開いた傘に強く叩きつけ、激しい音を立てる。

 今日は朝からずっと雨が降っていた。

 僕は傘の花に身を隠し、一度も雨に打たれずしのぶことしかできなかった。美桜が死んでしまったあの日も、それからの日々も涙一つ流せずにいる。

 小説の登場人物たちでさえ悲しみで涙するというのに……。


 信号が青に変わった。

 僕は横断歩道を渡り、橋を渡る。途中、濡れた柳が橋の欄干に絡みついていたのでほどいてあげた。

 車が僕の背後を走り抜けていった。横断歩道の信号は赤になっていた。

 遠くで赤いブレーキランプが点いて、水溜りを弾く音が聞こえた。


 僕は開いていた学ランの詰め襟を留める。季節は梅雨真っ盛り、少々蒸し暑い。学ランの中はティーシャツ一枚で正解だった。

 橋を渡り切り、川沿いの道を上がる。しばらく歩くと肩の高さぐらいの白い漆喰しっくいの塀が現れ、塀の向こう側には花のない牡丹が生い茂り、雨に打たれていた。


 横目で牡丹の生育状態を確認しながらそのまま歩き、観音開きの門で立ち止まった。

 開け放され、石畳の小道が奥へと続いている。

 門の屋根裏には裸電球があり、蛾が飛んでいた。灯りが柱の看板を照らし出し、墨汁で『佐々剣術道場』と書いてある。


 僕は門をくぐった。が、すぐに違和感を覚え、引き返す。

 門の柱に滝が落ちていた。柱の根本に穴が開いて水溜りになっている。いつもは晴れた日にしか来ないので気づかなかった。


 門から少し離れ、屋根を見上げた。濡れた石瓦が対岸の街灯に照らされ、光っている。よく見ると、この前の春一番のせいだろうか、石瓦がずれ、雨樋あまどいへの流れを邪魔しているようだ。

 晴れたら屋根に登って直そう。


 僕は門をくぐり、石畳を進んだ。

 正面玄関の脇に置いてある犬小屋に向かう。中を覗き込むと八千代が横になっていた。


「こんばんは」


 八千代が目をぱちりと開け、僕に一瞥いちべつをくれた、すぐに閉じる。どうやら、お疲れのようだ。

 石畳を戻り、横道に逸れる。砂利に置かれた飛び石を伝い、母屋の隣にある道場に向かった。

 一六帖ばかりの広さだが、それがいいと言う。実戦ではどんな場所でも剣を振らねばならない。

 前当主である美桜の言葉だ。


 玄関にたどり着いた。

 雨戸が外され、中には屏風びょうぶが立ててある。その前には沢山の革靴が置いてあり、傘置きにはいくつもの傘が刺してあった。

 僕は自分の傘を道場の壁に立て掛けると声を張った。


「飛田征爾です! 失礼します!」


 靴を脱いで上がる。屏風を越えて黒ずんだ板張りの間に足を踏み入れた。

 中には黒い背広を着た男たちが並んで座っていて、尻に座布団を敷き、あぐらをかいて二列、男たちが向かい合うような形だ。

 一五人。

 いや奥の上座に座る、紋付き袴の男を含めると一六人か。

 昨年に比べ人数は多い。


「おお、征爾」

「征爾君」


 男たちが僕の顔を見て一斉に声を上げた。僕は正面の神棚に礼をして、その場に正座した。頭を下げる。


「お久しぶりです、先輩方」

「本当、久しぶりだね」

「また背が伸びたんじゃないか?」


 男たちが矢継ぎ早に声を掛けてくる。


「征爾よ、去年会った時よりも、また一段と男っぷりを上げたな。ま、俺の若い頃に比べたら到底及ばんがな」

「いやいや、俺はお前の若い頃を知ってるが、どう見ても征爾君のほうがイケメンだ。だって、あの頃のお前、見てくれがジャガイモだったじゃねえか」

「何だと? よし、いいだろう。俺がただのジャガイモじゃねえところ見せてやるよ。おい誰か、ちょっと木刀を取ってくれ。今から征爾と勝負して、どちらがイケメンか決めるぜ」

「じゃあ俺は征爾君の助太刀をするとしよう」

「ん、じゃ、俺も征爾に加勢するぞ」

「俺も!」

「俺もだ!」

「待て待て、待て、お前ら……俺を一人にしないで」


 皆がどっと笑い声を上げる。昨年も一昨年も見た光景だ。

 彼らは佐々道場の門人もんじんだった。

 こうしてふざけ合ってる姿を見るとただのおじさん達なのだが、いずれも名立たる人物である。


 一番右奥に座るは先々代の当主からの門人で、日本を代表する企業『剛心重工業株式会社』の重役、その向かい側に座るは月代署の副署長、他の門人たちも何かしらの肩書きを持っていて、その末端に繋がっているのが僕である。

 僕は美桜の最後の弟子であり、最年少の門人だった。


 僕が虎子の家に預けられてから美桜が全く弟子を取らなかったので最後なのは当然として、最年少の門人なのには理由がある。

 美桜が死んだあと、居水いすいの意向で門人を取らないと決めたからだ。

 居水とは、美桜の夫であり、虎子の父親である。そして佐々剣術道場の現当主でもある。

 彼は己の技量が美桜に到底及んでいないことを知っていた。


 剣術というものは体伝と口伝で伝承され、半端な剣士は、さらに半端な剣士を育ててしまう。弟子が師を超えてこそ伝統は守られる。

 もしそれを怠れば、先達が磨き、代々受け継いできた剣風が腐ってしまうだろう。


 だからこそ居水は新たな門人を取るよりも己の鍛錬を優先させた。それを門人たちも見守った。彼らは稽古に出ようが出まいが月謝を払い、この道場を支え続けた。

 ここにいる者たちは、そういう者たちである。


 だが、それも今夜までだ。

 美桜が死んで三年、ようやく居水の技量が成熟したのだろう。

 先日、虎子が僕に道場を再開すると言ったのがその証だ。

 この三年祭を機に道場が再開する。

 今夜はそういう日だった。


「立派になって、見違えたよ征爾君」


 僕が先達の掛け合いを眺めていると、入り口そばに座る七三分けの男が声を掛けてきた。


「……もしかして笠原さんですか?」

「そうだよ。覚えていてくれたんだね。嬉しいよ」


 笠原は兄弟子の一人で、当時まだ大学生だった。仕事の関係で昨年も一昨年も不参加だったから、こうして会うのは三年ぶりとなる。


「今ではしがない地方公務員の一人さ。さ、そんなところに座ってないで、こちらに来なさい」


 笠原は自分の隣に置かれた座布団を指し示した。

 僕の席だ。立ち上がり、ふと思い出す。先達の顔ぶれを見て確認した。


「あの、香月こうげつさんは?」

「来てないみたいだね。ほら、あの方は昔から多忙だから」

「そうですか」


 香月とは僕にジェントルマンとは何たるかを教えてくれた人だ。

 僕は彼の話が好きだった。彼の実体験から繰り出される言葉には活字や映像などでは感じられない不思議な魅力があった。

 久しぶりに会って、男の生き様や美学を色々聴かせてほしかったのだが。


「まずは居水先生に挨拶してきます」


 僕は上座の男の前に正座すると頭を下げた。


「居水先生、飛田征爾ここに参上しました」

「よく来てくれた、征爾君」


 丸眼鏡の向こうに目尻のしわが寄った。黒い上衣に白抜きの家紋、柄は牡丹、体は痩せていて、とても弱そうではあるが、その実力は本物で、おそらくここにいる誰よりも剣術に長けている。


 特に居合いは、相手に戦意を失わせる美桜の鬼気迫る剣風と違って機械的であり精緻の極みであった。

 門下生たちは「鬼の美桜、仏の居水」と呼んでいた。


「庭の牡丹も崩れた、そろそろ手入れをしなくてはいけない。また手伝ってくれるかい?」

「はい。もちろんです」


 僕は時々、虎子にそれとなく呼び出され、母屋の修理やら庭木の剪定やら何やら手伝っている。とくに庭の牡丹は美桜が丹精込めて育てていたこともあり、虎子や居水に頼まれなくても、まめに手入れをしていた。

 僕はもう一度頭を下げた。


「本当は両親と共に来たかったのですが、今年は二人共どうしても外せぬ用事があり、僕だけの参上となりました。ご無礼お許しください」

「おや、聞いていないのかい? 君のお母さんは先日、ご主人と一緒にいらっしゃったんだが」

「そうなんですか?」


 ……知らなかった。ここ最近、親父もお袋も忙しくて、あまり話せてないから……。


「お嬢、征爾が来たよ」


 兄弟子の一人が声を上げた。

 振り返ると道場のもう一つの入り口、母屋とつながる渡り廊下から虎子が入ってきた。

 長い黒髪をヘアゴムで結い上げ、ポニーテールにしている。冬のセーラー服に緑のエプロン、黒のストッキング、両手には膳を持っていた。


 虎子は僕に目を向けると頷いた。僕も頷いて返す。虎子の後ろから和装洋装ばらばらの、喪服を着た女性たちが入ってきた。

 兄弟子たちの奥方と、ご近所の婦人会からの手伝いだった。

 虎子が僕のわきを通り過ぎ、居水の前に膳を置いた。


「よく来たな」


 虎子が言った。僕と目を合わそうとしない。何だかよそよそしい。


「……美桜さんの三年祭ですから」

「……今宵はゆるりとくつろいでいってくれ」


 僕は末席、笠原の隣に置かれた膳を見た。


「いえ、僕にはあそこに座る資格がありません。僕はこの道場のために何もできなかった。だから彼らと同列の扱いを受けるにわけにはいかないのです」


 虎子がふっと笑った。やっと目を合わせる。


「征爾、君は去年も同じことを言っていたぞ」

「……何度でも言います、事実ですから」

「全く、君という奴は。……だったら私からも何度だって言おう。君がどう思おうと、この道場に上がれば皆同じだ。私や父からしてみれば君も彼らと同じ、門下生の一人に変わりないのだ」


 僕は居水を見た。居水は頷いた。僕は嬉しかった、でも……。


「……それでもです」

「相変わらず強情な男だ」


 虎子も嬉しそうだ。


「ではどうするのだ? もう帰るのか?」

「いいえ、帰りません。昨年と同じです。今夜は人手がいるでしょうから手伝いにきました」

「そうか、じゃあ炊事場からビールを運んできてくれ」

「はい」


 僕は居水に頭を下げ、炊事場に向かった。

 エプロンを借りて腰紐を締めると、冷蔵庫の中にぎゅうぎゅうに積んであるビール瓶を引っ張り出し、運んだ。栓抜きで開け、酌をして回る。

 炊事場と道場を何度も往復した。

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