八
「國分さんの家ってどっち?」
「こっち」
國分が正門から出てバス停のある方向を指差す。
「僕はバスなんだが、國分さんの家ってどの辺にあるんだ、遠い?」
「ううん、そんなに遠くないよ。春日なんだけど」
春日、ここから一キロメートルほど離れた田園の広がる場所だ。確か、あそこにもバス停があったはず、そこから乗れば済む話か。
「たまには歩くか」
「いいの?」
「ああ、バス代の節約にもなるし」
「そう、よかった」
僕たちは学校周辺の商店街を通り抜け、大麦畑に出た。全て二条大麦で、すでに穂の色が変わっている。間もなく刈り取られ、アルコールの原料となるのだろう。
僕たちのそばをバスが通り過ぎていった。排気ガスを吐き出し、穂を揺らす。
ここに来るまでの途中、僕はバス停で他の生徒と並ぶ虎子とすれ違った。もう純白のマフラーはしていない。
僕が手を振ると虎子も軽く、そっと手を上げて返す。動きに戸惑いが見て取れた。國分がそばにいるので何か勘違いしているようだ。後で弁明しておこう。
……筋道を通すためだ。誤解は何を生み出すか分からないからコントロールしなくてはいけない。
「誰?」
「誰だろう?」
僕の言葉に國分は笑った。
「知らない人に手を振ったの?」
「先輩だ。剣道部の前主将」
「そうなんだ」
誰、か。誰なんだろう。
虎子との付き合いは樹のそれよりも長い。僕と虎子はもう家族と言ってもいい間柄だ。
でも正確に言えば家族ではない。血のつながりもない、他人だ。
……他人だが、とても世話になっている。
僕の家は貧しかった。今でこそ人並みの生活を送れているが、幼少の頃は極貧の生活を送っていた。
両親が駆け落ちして結ばれたからか、帰るべき実家というものがない、親族などからの経済的援助も受けられない、住居を借りる保証人もままならない。
そういう事情を知ってか、虎子の両親や祖父母が様々な便宜を図ってくれた。
とくに虎子の母親である美桜は僕のお袋と大学の同窓で、同じ教授に師事した親友ということもあり、とてもよくしてくれた。
親父とお袋が土日も休みなく働いている間、幼かった僕を預かり、面倒を見てくれた。
当時、僕はほぼそこに住んでいたと言ってもいい。
虎子の家は剣術道場で、僕は内弟子同然に生活した。
朝起きて道場の雑巾がけ、美桜と食材の買い出しに出かけ、兄弟子の道着を洗濯する、飼い犬の八千代(柴犬のメス)の散歩など何でも自分から率先してやった。
子供なりの仁義だった。
つまり虎子とはその頃からの付き合いになる。
物心付いたときには既にそばにいて、何というか、虎子とは始めから馬が合った。よく遊んだ。遊びといっても剣術の稽古だが。
だけど中学に入り、成長するにつれて、性差が、たった一つの年齢差が、距離を作り出していった。
会えば何ら変わらず話す。でも何かが違う。
剣術の型から外れてしまったような不安定さ、寂しさ、悲しみ、苦しみ……、わからないが、僕と虎子の間には言葉で言い表せない何かがあった。
「――それでね、私、小説家になりたいんだ」
「……小説家?」
國分が頷いた。僕はとくに考えることなく答えた。
「なればいいじゃないか」
「なれると思う?」
「そうだな。新人賞に応募すればいいんじゃないか」
國分がむっとした表情をした。
「そういう方法論ではなくて」
「方法なくして成功もないと思うが」
國分はさらにむむむっとした。そして、ぱっと解けた。
「そうね、確かに方法は必要よね」
なぜか落ち込んでいる。感情の起伏が激しい。いつもしっかりと受け答えする國分が初めて見せる姿だった。
僕は少し考え、言った。
「成れるか成れないかは分からないが、努力しなければ神様が拾ってくれるまで待たねばならない。國分さんはそれまで待つのか?」
國分は首を振った。
「じゃあ努力するしかないね」
僕が言うと國分は頷いた。
「そうよね。頑張らなくちゃ。皆も頑張ってることだし」
「皆?」
「私ね、文芸部に所属してるの」
「文芸部? あったか、そんな部?」
「あ、あります。四人しかいないけど」
「それは部と言わないのでは、同好会か?」
「そう、そうなの。それでね。飛田君にも参加してほしいな、って」
「……は?」
話を聞くに、國分は文芸部を学校公認の部にしたいらしい。
各学年から一人以上参加させ、
公認されれば顧問がついて予算が下り、部室を構えることができるらしい。
「あと一人、どうしても足りないの」
「何故に僕なんだ?」
「それは……私のような素人が本当にプロを目指すならパートナーが必要だと思うから。書き手ではなくて純粋な読者、それも飛田君のような文学について自分の意見を持っていて、それを
そうか、それで僕の感想を聞きたかったわけか、僕がどういう人間かを知るために。
「人づてに飛田君の噂を聞いて思ったの、私のパートナーはこの人しかいないって。席が隣同士になったのも運命だと感じた」
國分は足を止める。
「私は小説家になりたい。お願い力を貸して」
唇を噛み、大きな瞳で見つめてくる。その真剣な眼差しに生命力か、創造力か、わからないがとても力強いものを感じる。
なるほど、樹が好きになるのもわかる気がする。昔から樹は面食いだったが性格を重視する傾向もあった。
「……小説にも色々あるが、國分さんはどんな小説を書きたいんだ?」
「それが、よくわからなくて。志賀直哉のような文体を目指しているのだけれど、彼のような死生観を持っているわけでもないし、まだよく定まってないの」
國分が歩き出した。僕は追った。
「そいつは渋いな。他の部員はどんなのを書いてるんだ」
「さっちゃんは、あ、私たちと同じクラスの江夏幸子さんのことだけど」
「江夏? ああ、いつも國分さんと一緒にいる子か」
眼鏡に三つ編みおさげ、文学を好む容姿らしいと言えばらしいが、江夏も純文学か。
「さっちゃんはハードボイルドを書いてるんだけど、フィリップ・マーロウみたいな探偵物を」
「ほ、ほう」
「あと、三年と一年に一人ずついて、薫先輩は同性愛をテーマにした百合小説を、一年の真希さんは女飛脚を主人公にした時代小説を書いてる」
「……で、その中に僕も加われと?」
「お願い」
「……部費は払えないし」
「別にいらないよ。お金を使うようなことはやってないから」
「毎日は無理かもしれん」
「う、うん。しょうがない。皆それぞれに人生があるもの」
「……少し考えさせてくれ」
「本当! 良かった!」
何というポジティブマインド。
國分はほっとしたような顔をすると言った。
「私ね、日本語の美しさが好きで、短歌とか、その響きが好きで、それを小説にも求めているところがあるの」
國分は楽しそうに語る。
僕は今更ながら、國分が俗に言う文学少女なんだと気が付いた。美桜の口癖を思い出す。『花も実もある
美桜も日本文学、それも古典に
「古今和歌集のような古い歌もいいけれど、現代歌人のも好き。あるがままの光景を歌っていて、読んだ者に何かしらの情緒を引き出すところは昔からずっと変わっていない」
考えてみれば、國分は志賀直哉、武者小路実篤などの日本人作家を好み、僕はエマーソンやウィリアム・ジェームズなどの外国人作家を好む、読んでいる作品も國分のほうは小説だし、僕のほうは思想哲学が多い。
ヘミングウェイなどの小説も読まないわけではないが、何が自分の琴線に触れるのか探るために読み漁った中学生時代以降ほとんど読んでいない。
小説一辺倒の國分と僕の間には明らかに感性の違いがあった。
僕は國分がなぜ小説家になりたいのか興味を覚え聞いてみた。
國分が不思議そうな顔をする。
「小説が好きだからに決まってるじゃない」
僕は立ち止まった。胸の奥で何かが急速に冷めるのを感じる。
「それは――」
僕は『好き』とはどのような事柄なのか聞こうとしてやめた。
「何?」
「いや、何でもない」
「あ、私の家こっちだから」
國分が脇道を指差した。上り坂で、カーブを描いているので道の先が見えない。道路沿いには石垣があって、その上にはいくつかの家が立ち並んでいる。
「送っていこうか?」
「……家に来たいの?」
「…………じゃあな、また明日会おう」
僕は手を振ると歩き出した。確か、この先にバス停があったはず。
「飛田君!」
國分が大きな声を出した。振り返ると國分が学生鞄を後ろ手に持ち言った。
「ありがとう!」
僕は礼を言われる覚えがなかったので首を傾げる。
そんな僕に國分が微笑み返す。風が吹き、彼女の黒髪が唇にかかった。それを俯きながら指で払いのけると二歩、三歩と下がり、学生鞄を振り回して小走りに坂道を上がっていった。
――やはりロマンチストだな、小説を読む人間は、いや書く人間か。
僕は再びバス停に向かって歩き出した。
胸の高鳴りを感じながら。
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