七
言葉には重みがある。
親から子へ、子から孫へ、先人から後人へと受け継がれてきた伝統の重みだ。
その重みが言葉に意味を与える。
太陽と言えばそれは太陽を表し、月と言えば月、北極星は北極星を表す。
しかしながら、どんなに伝統の重みで意味を与えようと言葉はあくまでも言葉でしかなかった。
言葉は太陽そのものではないし、月そのものでもない、北極星も
言葉はただ単に示しているだけに過ぎず、認識と対象の間を繋ぐ道具でしかなかった。
にも関わらず、僕たちはその道具を使って一方的に感情をぶつけ、考えを述べ、夢を語っている。
物言わぬ心、あるかわからない空虚な存在の代弁をさせる。
このとき、言葉は一体何と何を繋いでいるのだろうか。
机に頬づえつく僕の耳に、はためく音が聞こえた。
教室の窓ガラスに国旗が見切れている。
僕の心は、あの旗と同じなのかもしれない。
風が吹かなければ旗は開かず、存在しないも同じ、だからあえて風を吹かすために言葉を吹かす。
ないものをあるかのように見せるために。
國分が声を掛けてきた。
「飛田君、志賀直哉の作品は読んだことある?」
「……ある」
「彼の文体、どう思う?」
「読みやすい」
「やっぱりそうよね。私もそう思う。あの文体には憧れるものがあるわ」
僕は頬づえを解消した。
「憧れる?」
「あ、ううん、何でもない」
あの昼休み以来、僕と國分はよく話すようになった。内容は、ほぼ小説の話だが、どうやら彼女の好みは明治から昭和にかけて活躍した作家らしい。渋い。誰の影響だろうか。
「まーた、やってんの?」
樹が教室の後ろから声を掛けてきた。なんとも言えない複雑な顔をしている。
「全くよく飽きないね。もう結婚したほうがいいと思うよ」
僕と國分は顔を見合った。
「それはまだ早いわね。お互いに言葉を交わし始めてまだ一ヶ月と少しだし。でも、もう少ししたらもっと深い話をして、それから結婚についても話し合いましょう、ね?」
「ね? と言われても困るんだが。僕なんかよりも國分さんにはもっと
樹は何も言わなかった。ただ黙って何度か頷いた。
「尾上君、私に相応しい人って誰?」
國分は真顔で聞いた。
本気か國分、あれだけアピールしているのに……。
やはり言葉か、言葉にしなければ心は存在しないのか。
「……樹は國分さんのことが好きなんだよ」
「そうなの、尾上君?」
「う、うん」
「私のどこが好きなの?」
「そ、それは……」
樹がもじもじしているので僕が代弁する。
「顔だろ」
「え、顔? 私の?」
「そう、例えばそのつぶらな瞳、
僕は樹に聞いた。
「征ちゃん」
樹が慌てた様子で顎を何度もしゃくる。目を向けると國分の顔が赤くなっていた。僕と目が合うと彼女は恥ずかしそうに目をそらす。
僕は声を絞り出した。
「……と樹が言っておりました」
國分が顔を上げ、やや上目遣いで樹を見つめた。
今度は樹の顔が赤くなった。背を向け、間髪を容れずに言った。
「征ちゃんのばか!」
樹は一度も振り返ることなく自分の机に戻っていった。帯で縛りあげた剣道着を掴み、教室から出て行った。
……とんだとばっちりだ。
僕は教壇の上、壁に掛けてある丸時計を見上げた。部活の始まる時間だった。
「國分さん、僕は帰る。また明日会おう」
椅子から腰を上げると、國分が言った。
「飛田君」
「ん?」
「一緒に帰りましょう」
「……それはいかんだろ」
「何で?」
「いや、さっき……」
「私のことが好きだから?」
「……主語が抜けているから不安になるが、多分、僕の言いたいことと合っている、つまりそう言うことだ」
國分が首を傾げた。
「私と飛田君が一緒に帰ることと尾上君の好意と、一体何の関係があるの? 私はただ飛田君と一緒に帰りたいだけ、駄目?」
駄目ではない。でも樹の気持ちを考えると……ま、いいか。
二人が交際しているならともかく、まだその手前だし、僕と帰るだけなら何の問題もないだろう。
でも、樹も大変だ。このような女子を攻略しようとは……よし、この際だ、國分について色々聴いてみよう。
僕は國分に対し、少しだけ興味が湧いてきた。
「わかった。いいよ、帰ろう」
「うん。あ!」
國分が立ち上がった。
「図書室に本を返してくるから玄関で待ってて」
そう言われ、僕は玄関で待っていたのだが、中庭の向こう、グラウンドから聞こえる活気ある声たちに誘われ、玄関を離れる。
中庭を通り抜け、階段を下りると頬にそよ風が当たり、前髪が揺れた。
もう五月も半ば、ここら一帯は風向きが変われば気温も変わる。
今年はゴールデンウィークを過ぎたあたりから風向きが南寄りになった。それに伴い気温が上昇、長かった冬が終わり、やっと春が来た。
でも、すぐに梅雨がきてしまう。季節は巡る、僕を置いて。
僕は段差に腰掛け、両腕を真上に伸ばした。背筋を伸ばす。外気が服の中に吸い込まれ、肌に触れて気持ちいい。
学生鞄を胸に抱え、両脚を伸ばし、グラウンドを眺める。
今日もグラウンドは活気で溢れていた。
陸上部の佐藤が他の部員と一緒にスキップを踏んでいた。
この場所から佐藤まで遠く離れてはいるが、集団の中で一人だけ異質な動きをしているので、すぐに彼女だとわかる。
他の部員は上へ上へと力が抜けているのに、佐藤だけは前へ前へと推進力が働き進んでいた。
きっとあれは足の裏で蹴っているのではない、足の裏を地面に置いているだけなのだろう。
僕も剣術の型を演じる時、あのような足の置き方をするから何となくわかる。
僕は虎子との演武を思い出す。
型という決められた動きの中で剣と剣が触れ合う。
一見すると約束事、決められた動きのように見えるが、演じている本人たちは真剣で、ほんの少し
そのような
だから僕たちは居着かないよう、感覚を研ぎ澄まし、感情や思考など一切を手放す。意識を清らかにして何処にも置かず自然と一つになって、中にも外にも僕たちは存在しない。
そのような状態で演じれば、僕と虎子、二人の間に隙間はなくなり、自我が消える。
お互いに溶けて混ざり合い、水となって川に流れ、滝のように落ちる感覚を覚える。
そこに強い弱いは存在しない。生死を分かつ因果応報だけがある。
「飛田君、ごめん! 待った?」
振り返ると國分が階段の上に立っていた。学生鞄を両手に持ち、風で
僕は腰を上げ、尻に付いた砂を払った。
「いいや、待ってないよ。さ、帰ろう國分さん」
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