翌日の昼休み、僕は國分に本を返した。

 昼ではなく朝に返せればよかったのだが、休み時間の度に彼女が三つ編みおさげの友達と話していたので返しそびれてしまい、この時間になってしまった。

 國分が本を受け取り、表と裏を眺める。角を指先で触り、中身をぱらぱらとめくった。

 僕は心配になって聞いた。


「もしかして、汚した?」

「違う。そういう意味じゃないの」


 國分は本を机に置いた。借りる前と変わらず、表紙が少しだけ浮いている。


「ちゃんと読まれた感があるのに何も変わっていない。ねえ、感想を聞かせてくれる?」


 やはり感想か。読み終えてからあれやこれやと考えてはいたんだが、当たり障りのないことを言っても失礼になるし、結局、何も準備してこなかった。

 どうしたものかと考えていると樹が声を掛けてきた。


「征ちゃん、腹減ったー、めしー、学食行こうぜー」


 國分が本を机の中に入れ、立ち上がった。


「じゃあ、感想はあとで聞かせて」


 彼女は席を離れた。その後ろ姿を樹が見つめている。彼は僕に言った。


「俺、もしかして邪魔した?」

「いや、そんなことないよ」

「そっか……」


 樹が大きく息を吸い、叫んだ。


「國分さん!」


 教室にいたクラスメイトたちが視線を向けてくる。僕は椅子から腰を上げ、離れた場所から二人を見守った。

 さて、どうなることやら。

 國分が少しの間を置いて振り返る。彼女の表情はいつも通りで、とくに変化は見られない。


「何、尾上君?」

「俺と一緒に、その……昼飯を食べてください」

「……何で?」

「いや、その……」


 樹が口ごもる。そのまま黙ってしまい、國分のほうも言葉を発しない。

 場が固まり一向に進行しないので僕を含め、クラスメイトたちがそわそわし始めた。

 國分が僕に視線を向けた。


「飛田君」

「……ふぁ?」


 急に振られたので僕は思わず変な声を出してしまった。


「三人で行きましょう」

「う、うん、そだね。征ちゃんも一緒に昼飯食べに行こうよ」


 國分と樹の要望により、僕も学食に同行することとなった。

 僕はいつものように入り口の自動券売機で食券を買った。最速最安の掛け蕎麦一八〇円の食券、それをカウンターの向こうにいるおばちゃんに渡した。

 ものの数秒で熱々の蕎麦が出てくる。

 おばちゃんが笑顔で言った。


「飛田くん、これおばちゃんからのサービスね」

「いつも、すいません」

「いいってことよ」


 僕が頼んだ掛け蕎麦に本来付いていないはずの生卵が添えられている。そこに無料の天カスと青ねぎをぶっ込むと彩りがよくなった。


「本当、麺類大好きだな征ちゃんは」

「別にいいだろ」


 僕の昼食はいつもこの掛け蕎麦、もしくは同価格の掛けうどんである。家計のためだ。贅沢は言わない。これでも十分に腹はふくれる。

 ……とは言うものの、周りの人から見たらまた違ったふうに見えるのだろう。

 僕が毎日毎日あまりにも同じものばかり食べているので学食のおばちゃんたちが心配するようになった。今では色々とおまけしてくれる。本当にありがたい。


 樹がカレーとラーメンを受け取った。國分はクラブハウスサンドを受け取る。トレイに載せ、僕たちは空いた席を探して学食内を歩いた。生徒数の多い学校だけあって、とても混雑している。


 丁度、窓側の席が空いた。

 窓は一面ガラス張りで、外の景色を眺めながら食事ができる。

 國分は窓側の席にトレイを置くとスカートを押さえながら着席した。

 樹が顔を左右に振る。國分の隣に座るべきか、國分の正面に座るべきか迷っているようだ。

 僕の心証だと、若干、國分の隣に座りたい気持ちのほうが強いような気がする。

 僕は國分の真正面に座り、言った。


「樹はそっちに座ればいいと思うよ」

「征ちゃん!」


 樹は嬉しそうだ。


「國分さん、隣いい?」


 國分は頷いた。

 樹が座る。顔が赤い。耳まで真っ赤だ。

 昔からそうだった。すぐに顔に出る。見ていると、こちらまで恥ずかしくなってくる。

 僕は目を逸らし窓を見た。二階から見下ろす砂地のグラウンドに雲の影が流れ、南のほうへと向かっている。風は北寄りのようだ。


「いただきまーす」


 樹が手を合わせたあと、箸を持った。うろうろさせる。

 カレー用のスプーンはトレイに置きっぱなしなのだから、どう考えてもラーメンのほうから食べるべきだと思うのだが。

 僕も箸に指をつけた。


「飛田君、食べる前に感想を聞かせて」


 國分の言葉に樹の迷い箸が止まる。


「それはかまわんが、何だ? 何でそんなに僕の感想を聞きたいんだ?」

「興味よ。単純に飛田君に興味があるから。あなたならこの作品何て語るのかしら、って」

「征ちゃんに?」


 樹が明らかに動揺している。

 僕は蕎麦を見下ろし、立ち昇る湯気を眺めた。

 何を言ってるんだ? 僕に興味? 

 意味がわからない。

 僕は戸惑いながらも感想を話し始めた。感想というよりも解釈と言ったほうがいいかもしれない。


 主人公とヒロインには同情するが物語としてはそれだけ、あとは構成や死で愛を証明できるかなど、自分としては率直な意見ではあったが、聞く人が聞けば辛辣しんらつに聞こえることを淡々と述べた。

 自分が今まで感動したことがないのは伏せた。わざわざ言う必要はない。

 最後まで静かに聴いていた國分が頷いた。

 

「面白い。私は飛田君の視点、面白いと思う」


 面白いなんて初めて言われた。

 こう、いつも御託ごたくを並べていると嫌な顔をされるか、疲れた顔をされるか、多いのだが。

 それに、小説なんぞ読む人間はもっとロマンチストで、自分の好きなものを悪く言われると自分が悪く言われたわけでもないのに怒り狂うものとばかり思っていたのだが。

 國分が続けて言った。


「やっぱり飛田君は私が想像した通りの人だった」

「想像した通り? 僕が?」

「そう、想像通りの人」


 どんな想像をしたのか興味があるが、聴いたら聴いたで反応に困る内容かもしれない。聴くのは留保しよう。


「想像、と言うことは、國分さんは以前から征ちゃんのことを知ってたの?」

「うん、知ってた。飛田君は私のことを知らないと思うけれど、私は飛田君のことをよく知っている。例えば、これは人づてに聞いたのだけれど、飛田君は一年生の時、体育の世良先生にお説教したそうね」

「……あれは向こうが悪い。ジャージの入ったバッグを持ち帰らなかったとはいえ、盗んでよい道理はない。あのとき教師は犯人を探すべきだったんだ。それを僕のほうに責任があるように言われたら正さねばなるまい」


 家計が苦しいのに、代えのバッグの費用も馬鹿にならない。教師への不信感、盗んだ者への憤り、それらと共に親に対する申し訳なさもあって、ついまくし立ててしまった。


「そう、それ。その歯にきぬ着せぬ物言い、私はそれが聞きたかった」

「……なんで?」


 僕の問いに國分は口を開きかけたが、樹のほうにちらり目をやると黙ってしまった。樹が僕に目を向け首を傾げる。

 僕は箸を持った。


「……別に言いたくないならこの話はここまでにしよう。さ、食べようか」


 早く食べないと色んな意味でまずい。


「待って」

「……もう食べてからにしないか」


 樹を見ると、彼はすでに箸でラーメンの麺をつまみ、持ち上げていた。


「樹、僕のことは置いていけ」


 樹は麺をスープに戻した。


「いや、待つよ。皆で食べたほうが楽しいからね」

「すまんな」


 僕は箸を置いた。


「それで何だい、國分お嬢さん」

「ごめんなさい。飛田君に私の感想も聞いて欲しかったから」

「んー、じゃあ聞こうか。ここはお互い様に、公平に」

「飛田君と違って私は悲しかった。あんなに会いたがっていたのに会えないなんて。私だったら立ち直れない。あるべき未来が、もう叶えられぬ想いが……」


 國分は言葉をつまらせ、瞳を潤ませる。それを見た樹が慌てた。

 僕は学ランのポケットから貸し出し専用の青いハンカチを取り出し、國分に差し出した。

 このハンカチは毎日洗い、アイロンをかけた清潔なもので、不断ふだん使いのものとは別のものだ。


 僕は幼きころからハンカチを二枚持つようにしている。

 道場の先達に海外を飛び回るビジネスマンがいて、彼からジェントルマンの振る舞いをしつけられていたからだ。

 成熟した男になりたいなら女性に優しくしなさい、もし女性が涙を見せたのならすぐにハンカチを差し出しなさい、前もってハンカチを準備しておくんだよと言われ、それを今の今まで実行している。

 僕は道場の先達に対しては素直だ。


「あ、ありがとう」


 國分はハンカチを受け取ると、涙を拭いた。その仕草を見て、僕は昔の虎子を思い出す。

 雪の降る夜、道場で、あの時もこうやってハンカチを差し出したか……。

 僕は胸が苦しくなり、我に返った。


「……さっきの感想について、つまり國分さんは本の中の出来事に同情を寄せたから、いや違う。同情だけでそこまでの反応はしないか。だとしたら自分の身に置き換えることによって虚構と現実の境界を取り払い、登場人物たちの状況や心情をまるで我が身の如く感じてしまったから、そこまでの反応に至った、と言うわけか」

「……何だか、事実は事実なんだけど、そう細かく言葉にされると私が分別のつけられない、単純な人間みたいに聞こえて、ちょっと複雑な気持ちがするわね」

「そんなことないよ。國分さんは思いやりのある、優しい人だと思う」

「……ありがとう、尾上君」


 國分が微笑むと樹はぎこちなく笑い、俯いた。テーブルの上に置かれた自分の両手を見つめている。

 その表情には先ほどの、國分の隣に座った際の動揺が見られず、とても落ち着いているように見えた。


「飛田君、あの、これ」


 國分がハンカチを見せた。僕が受け取ろうと手を差し出すと、國分はすっとハンカチを自分の胸元へ引き寄せ、両手で持った。


「洗って返すから」

「別にいいのに」


 國分は首を振った。俯き、じっと僕のハンカチを見つめる。

 僕たちのテーブルは静かになった。周囲は賑やかだったが、とても静かだ。

 ――空腹で僕の腹が鳴った。

 僕は箸を持ち、蕎麦と向かい合う。適量をつまみ上げ、啜った。案の定、麺は伸びていたが、食べられないほどではなかった。

 学食のおばちゃんに感謝しつつ麺を咀嚼そしゃくした。

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