虎子と別れた後、僕はなだらかな坂を歩き、団地の敷地に入った。

 自宅のある棟に入り、階段を駆け上がる。通路を抜け、ポケットから鍵を取り出し、ドアを開けて中に入った。

 自分の部屋に直行し、机の上に学生鞄を置いた。

 机上の充電器に、高校入学のときに親から買ってもらった型落ちのスマホを繋いだ。電子音が鳴り、画面が明るくなる。

 洗面所に向かった。

 手洗いとうがいを済ませ、居間の椅子に座る。手を拭いたタオルをテーブルに放り投げる。

 ぼんやりする。

 

 昔、何かの本で、一日に数分でもいいから何も考えない時間を作ること、と読んで、試しにやってみたらこれが中々よろしい。

 今では日課になっていた。

 気持ちを落ち着かせ、ぼうっと机に置かれたタオルを眺める。隣に置かれた新聞に目を移す。冷蔵庫の音に耳をすまし、窓の外を吹き抜けた風に目をやる。

 カーテンが閉まったままで外は見えない。

 静かに呼吸する。


 ……リラックスできたところで椅子から腰を上げ、カーテンを開けた。

 ヤカンに水を少しだけ入れて、お湯を沸かす。朝から急須きゅうすに入ったままの、ふやけた茶葉で一杯飲んだ。

 湯呑みをテーブルに置き、自室に戻る。


 鞄から『愛と死』を取り出した。

 裸の文庫本、表紙を指の腹で触る。

 細かい擦り傷はあるが凹みはない。角もしっかりとしている。

 小口も日に焼け変色はしていたが手垢もなく全体的に見れば綺麗な本だった。

 大切に読まれているのがよくわかる。


 僕はカーテンを開けて部屋の中に光を呼び込んだ。

 学ランを脱ぎ、ハンガーに掛け、机の引き出しから指サックを取り出す。両手の親指と人差し指に装着する。

 借りた本に対する礼儀である。


 椅子を引き、腰を落とす。本を開いて読み始める。内容は以前と変わりなく、軽快にページをめくる。

 肩が凝り、目が疲れたなと思ったら部屋の中が薄暗くなっていた。

 机の電灯を点ける。部屋に舞う埃が照らし出される。

 玄関ドアの開く音がした。廊下を歩くスリッパの音がして部屋の前を通り過ぎていった。

 お袋が帰ってきたようだ。


 僕は構わず読み進め、終えた。指サックを外し、机に置いた。

 やはり同じだった。

 感動はない。感想もない。それでもあえて絞り出し語るなら、主人公とその恋人には同情を寄せるべきだろう。

 そうなるように作者があえて死を持ってきたような気もしないではないが……。


 僕は作者に聞いてみたい。

 もし仮に恋人が生きて添い遂げていたら、この物語はどうなっていただろうか? 二人の愛はどうなっていた? 

 当然、生きて一緒にいるのだから喧嘩をしただろう、主人公が他の女性を好きになったかもしれない。

 その時、この愛はどうなってしまうのだろうか。

 二人は別れてしまうのだろうか。

 いや、もしかしたら作品にあるように手紙のやり取りで困難を乗り越えたかもしれない。

 

 そこまで考え、僕は我に返る。両腕を机に敷いて頬を乗せる。

 窓から見える空は暗い紫色で、遠くには真っ黒な山脈に白い月がかかっている。

 どうやら僕は頭が狂ってしまったらしい。

 虚構の世界に対し何を真剣に考えているのだ。

 人生のあらゆる感動、世界の美しさは思考でばらばらに分解され、それがただの言葉でしかないと悟ったとき、全ては思い込みだと知る。

 少なくとも僕はそう考えている。


 僕は頭を起こし、ふやけた指先をこすり合わせた。

 部屋が寒い。心が冷える。

 僕はもう人間ではないのかもしれない。ただの言葉、過去に生きた人間、すでに死んでしまった人間なのだ。


 居間から食器を洗う音が聞こえる。

 僕は自室を出て居間に向かった。

 スーツを着たお袋が丁度、洗い物を終えたところだった。先程、テーブルの上に置いた湯呑みが消えている。


「……おかえり、お茶入れようか?」

「ええ、お願い」


 お袋がテーブルの椅子に腰掛けた。電灯の下、とても疲れた顔をしている。

 そっと手を伸ばし、僕がテーブルに放り投げたタオルを手に取り、畳み始めた。

 僕はヤカンを持ち上げる。

 残り湯の量は十分、コンロに乗せ火を点ける。

 急須の茶葉を流し台のコーナーに捨て、円筒型のお茶入れを手に取り、ふたをぽんと取り外して傾ける。乾燥した茶葉を急須の中に入れた。


「親父は?」

「遅くなるみたい」


 ヤカンが鳴る、火を止めた。お湯を急須に注いで中身を湯呑みに入れる。


「そんなにきついなら高校やめようか。僕が働けば少しは楽になるし」

「またそんなことを。今時、高校ぐらい出ないと……」

「……冗談だよ」


 僕は湯呑みをお袋の前に置いて自室に戻った。書棚が電灯に照らされている。

 いずれの本も二、三度読んだきりでそのまま並べてある。

 書棚から『愛と死』を取り出した。ひさしく掃除をしていないせいか埃を被っている。

 学ランからハンカチを取り出し、埃を優しく払う。

 綺麗になった本を眺める。

 中古だったが、前の持ち主もあまり読んでいなかったのだろう、新品同然で日焼けはしていないし手垢もついていない。


 机に二つの『愛と死』を並べた。

 一方は古く、読み込まれ、丁寧に取り扱っているのがわかる。

 もう一方は新しい、ただ新しい、そこには何もない。歴史がない。

 この二冊は同じものなのに全然違う。


 まるで樹と僕のようだ。


 樹は高校生らしく夢を追い、不器用ながらも恋愛に積極的で、僕が持っていないものをたくさん持っている。

 彼は将来、自らの青春時代を語るとき、自分の言葉で歴史を、何があったのか、どう思ったのかを明確に表現することができるだろう。


 比べて僕はどうだ? 

 同じ高校生なのに将来、何と言えばいい? 

 どんな言葉がある? 

 何もない。あるのは借り物の言葉だけだ。


 僕は書棚に目を向けた。乾いた笑いが込み上げる。

 誰にも読まれず書棚で埃を被っているだけの文庫本――僕と同じだ。

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