四
バスに乗り、動き出したと思ったら止まった。
ブザーが鳴り、ドアが開いて、女子高生が乗り込んでくる。
黒いセーラー服に白いスカーフ、口元を純白のマフラーで隠し、学校指定の銀色のサブバッグを肩から提げている。
彼女は運転手に軽く頭を下げ、乗せてもらった礼を述べると、切れ長の目を僕に向けた。
歩いてきて僕の前に座る。
下校時間、生徒は部活動に参加しているので、ほとんど乗っていない。一般客も少なく席は十分に空いている。
それでも彼女は僕の前に座った。
僕は腰を上げ、通路に出て彼女の隣に立った。
「珍しいですね。さぼりですか?」
「違う、さぼりじゃない。引退だ」
そう言って
サブバッグを膝に置き、手で空いた席を二度叩く。
僕は誘われるまま隣に座った。
「引退?」
「尾上への引き継ぎが完了次第、剣道部を正式に引退する。もう大会には出ないし、試合をすることもないだろう」
「樹に引き継ぎって……」
「なんだ、何も聞いていないのか? 次の主将は皆と相談の上、尾上になった」
「いや、何も聞いてないです。剣道の話はあまりしないんで」
「もし君が入部してくれていたら、君に跡を継がせたのだがな」
「僕には無理です。竹刀を握らなくなって、もう何年になるか」
虎子がマフラーを取り払った。唇が夕日に照らされ光る。
「謙遜だな」
高校の剣道部は男女混合だった。
虎子は開校以来二人目の女性主将で、一人目は彼女の母親という因果があった。
虎子が膝のサブバッグを軽く持ち上げ脚を組んだ。白い太ももが柔らかく形を変える。
僕は思わず目を逸らした。通路の向こう側、誰も座っていない席を眺める。
「……もう先輩も三年ですか。僕が二年なんで当然といえば当然なんですが」
「そう、私も三年生、受験生だ」
再び虎子に目を向けると、彼女は窓の夕日に目を向けていた。
長く癖のある黒髪が彼女の横顔を覆っている。
こうして間近に彼女の横顔を見ていると、彼女の母親を思い出す。
最近、ぐっと美桜に似てきたような気がする。
「征爾」
名前で呼ばれると特に。
「……はい」
「私たちは大人にならなければならない。もっと現実的に生きなくてはいけない」
「先輩は確か進学するんですよね?」
「そうだ。もうすぐ道場を再開するからな。私も跡目としての役割を果たさねばならない。そのためには、まず知識、何をするにしても知識が必要だ」
バスの進行方向が変わり、夕日の光が少しだけ弱くなった。
「佐々」
突然、バスの後方から茶髪の男が声を掛けてきた。頬まで伸びた長髪でパーマがかかっている。
香水がきつい。
「付き合ってる奴はいないって言ったよな?」
なるほど。
どこかで見た顔だと思ったら、確かこの男、女癖の悪いことで有名な三年生だ。
美術部に所属していて、それなりに絵の才能があるらしいのだが、性格に難があり、女性との交際で二股三股と手広く遊んでいるらしい。
それも付き合っている女性たちを競わせる趣味があるらしく、最悪つかみ合いの喧嘩をさせたこともあった。
じつは以前、僕は学食でそれらしい光景を目撃している。未だに、あの時に注文した掛け蕎麦の味は忘れられない。
食べても食べても全く味がしなかった。
「何でこんな下級生なんかと……」
男の言葉に虎子は澄ました顔で無視している。
僕と虎子は物心ついたときからずっと一緒にいるので、その表情から彼女が何を感じているのか大体わかる。
どうやら、虎子にその気はないようだ。
……その気? どんな気だ?
今まで虎子にそんな男っ気なんてあっただろうか。
男が僕を見て舌打ちした。
「佐々、知ってるのか? こいつは教師連中に噛み付いてばかりいるルサンチマンだぞ。くだらない奴だ」
僕も有名になったものだ。
陰で色々言われているのは知っているが、僕は気にしない。
できるだけ顔に出さないよう、前席の背もたれをじっと見つめる。
虎子が僕の顔を覗き込む。
僕がどんな顔をしていたのか自分ではわからないが、虎子がふふっと笑った。
「それがいいんじゃないか。教師に面と向かって自己主張するなんて私には真似できない。その反骨精神は尊敬に値する」
「はぁ?」
男が大げさに右の眉を上げる。
「おいおい本気で言って――」
道路のくぼみを通過したのか、バスが揺れた。僕はその機を逃さなかった。
「あなたがどなたか存じませんが」
僕は男の顔を見上げた。
「言いがかりはやめてもらえませんか。僕はルサンチマンでも何でもないです。確かにあなたの言うとおり、教師に文句を言いました。でも、それは彼らの言葉、行動が道理に合っていないからであって、それらを指摘したまでです。もちろん、そのことで彼らに
僕はそのまま淡々と、やや棒読みで続けた。
「けれど、それとあなたと何の関係がありますか? 一切何の関係もありませんよね? 例え、僕が先輩の彼氏であろうと、あなたの言うルサンチマンであろうと全く関係ありません。だって先輩はあなたのことを何とも思っていないのですから」
男が口をぽかりと開けている。
よし、あの時の蕎麦の恨み、今こそ晴らすべし。
僕がさらに追い討ちをかけようとしたら、虎子が袖をつまんで引っ張った。少し怒った顔で言う。
「おい、征爾、言い過ぎだ。例え本当のことだとしても、そういう身も
呆然としていた男がはっとして、顔をしかめる。赤い顔で僕を
「生意気な奴だ、俺はお前の先輩だぞ。口の聞き方を教えてやろうか?」
僕は臆さなかった。
「先輩だろうが何だろうが、ふられて憐れなあなたの為に話し相手になってあげてるんです。逆に感謝してください」
男の怒りは最高潮に達したようだ。目が
いつでも、今からでも
僕は両腕を上げ、目を瞑った。
とりあえず、これで十分だろう。衝撃に備える。
ふいに、思わぬ方向から僕の顔に冷たいものが触れ、ぐいっと引っ張られた。
目を開けると、僕は虎子の胸に抱かれていた。彼女は片手で男の拳を捌いていた。
一喝する。
「征爾に触るな!」
男の顔が青くなった。僕の顔も青い気がする。
この騒ぎを受け、他の乗客たちが注目し始めた。ある生徒はスマホを取り出し撮影を始める。
バスのアナウンスが流れた。
「お降りの際はボタンを押してください。席を立たれる際は停車してからお願いします」
人の目が気になったのか、男は青い顔をしたまま、すごすごと最後部の座席に戻っていった。
僕と虎子はお互いの顔を見て微かに笑う。
一緒にバスを降りる。
「送りましょうか?」
「必要ない」
虎子が背を向け歩き出した。
しばらくその後ろ姿を見ていると、虎子がちらり振り返る。
僕がまだ見ていたので慌てて顔を前に戻した。そのまま早歩きで横断歩道を渡り、橋を渡っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます