バスに乗り、動き出したと思ったら止まった。

 ブザーが鳴り、ドアが開いて、女子高生が乗り込んでくる。

 黒いセーラー服に白いスカーフ、口元を純白のマフラーで隠し、学校指定の銀色のサブバッグを肩から提げている。

 彼女は運転手に軽く頭を下げ、乗せてもらった礼を述べると、切れ長の目を僕に向けた。

 歩いてきて僕の前に座る。


 下校時間、生徒は部活動に参加しているので、ほとんど乗っていない。一般客も少なく席は十分に空いている。

 それでも彼女は僕の前に座った。

 僕は腰を上げ、通路に出て彼女の隣に立った。


「珍しいですね。さぼりですか?」

「違う、さぼりじゃない。引退だ」


 そう言って佐々さっさ虎子とらこは窓側の席に移動した。

 サブバッグを膝に置き、手で空いた席を二度叩く。

 僕は誘われるまま隣に座った。


「引退?」

「尾上への引き継ぎが完了次第、剣道部を正式に引退する。もう大会には出ないし、試合をすることもないだろう」

「樹に引き継ぎって……」

「なんだ、何も聞いていないのか? 次の主将は皆と相談の上、尾上になった」

「いや、何も聞いてないです。剣道の話はあまりしないんで」

「もし君が入部してくれていたら、君に跡を継がせたのだがな」

「僕には無理です。竹刀を握らなくなって、もう何年になるか」


 虎子がマフラーを取り払った。唇が夕日に照らされ光る。


「謙遜だな」


 高校の剣道部は男女混合だった。

 虎子は開校以来二人目の女性主将で、一人目は彼女の母親という因果があった。

 虎子が膝のサブバッグを軽く持ち上げ脚を組んだ。白い太ももが柔らかく形を変える。

 僕は思わず目を逸らした。通路の向こう側、誰も座っていない席を眺める。


「……もう先輩も三年ですか。僕が二年なんで当然といえば当然なんですが」

「そう、私も三年生、受験生だ」


 再び虎子に目を向けると、彼女は窓の夕日に目を向けていた。

 長く癖のある黒髪が彼女の横顔を覆っている。

 こうして間近に彼女の横顔を見ていると、彼女の母親を思い出す。

 最近、ぐっと美桜に似てきたような気がする。


「征爾」


 名前で呼ばれると特に。


「……はい」

「私たちは大人にならなければならない。もっと現実的に生きなくてはいけない」

「先輩は確か進学するんですよね?」

「そうだ。もうすぐ道場を再開するからな。私も跡目としての役割を果たさねばならない。そのためには、まず知識、何をするにしても知識が必要だ」


 バスの進行方向が変わり、夕日の光が少しだけ弱くなった。


「佐々」


 突然、バスの後方から茶髪の男が声を掛けてきた。頬まで伸びた長髪でパーマがかかっている。

 香水がきつい。


「付き合ってる奴はいないって言ったよな?」


 なるほど。

 どこかで見た顔だと思ったら、確かこの男、女癖の悪いことで有名な三年生だ。

 美術部に所属していて、それなりに絵の才能があるらしいのだが、性格に難があり、女性との交際で二股三股と手広く遊んでいるらしい。

 それも付き合っている女性たちを競わせる趣味があるらしく、最悪つかみ合いの喧嘩をさせたこともあった。

 じつは以前、僕は学食でそれらしい光景を目撃している。未だに、あの時に注文した掛け蕎麦の味は忘れられない。

 食べても食べても全く味がしなかった。


「何でこんな下級生なんかと……」


 男の言葉に虎子は澄ました顔で無視している。

 僕と虎子は物心ついたときからずっと一緒にいるので、その表情から彼女が何を感じているのか大体わかる。

 どうやら、虎子にその気はないようだ。

 ……その気? どんな気だ? 

 今まで虎子にそんな男っ気なんてあっただろうか。

 男が僕を見て舌打ちした。


「佐々、知ってるのか? こいつは教師連中に噛み付いてばかりいるルサンチマンだぞ。くだらない奴だ」


 僕も有名になったものだ。

 陰で色々言われているのは知っているが、僕は気にしない。

 できるだけ顔に出さないよう、前席の背もたれをじっと見つめる。

 虎子が僕の顔を覗き込む。

 僕がどんな顔をしていたのか自分ではわからないが、虎子がふふっと笑った。


「それがいいんじゃないか。教師に面と向かって自己主張するなんて私には真似できない。その反骨精神は尊敬に値する」

「はぁ?」


 男が大げさに右の眉を上げる。


「おいおい本気で言って――」


 道路のくぼみを通過したのか、バスが揺れた。僕はその機を逃さなかった。


「あなたがどなたか存じませんが」


 僕は男の顔を見上げた。


「言いがかりはやめてもらえませんか。僕はルサンチマンでも何でもないです。確かにあなたの言うとおり、教師に文句を言いました。でも、それは彼らの言葉、行動が道理に合っていないからであって、それらを指摘したまでです。もちろん、そのことで彼らにうとまれていることも重々わかっています」


 僕はそのまま淡々と、やや棒読みで続けた。


「けれど、それとあなたと何の関係がありますか? 一切何の関係もありませんよね? 例え、僕が先輩の彼氏であろうと、あなたの言うルサンチマンであろうと全く関係ありません。だって先輩はあなたのことを何とも思っていないのですから」


 男が口をぽかりと開けている。

 よし、あの時の蕎麦の恨み、今こそ晴らすべし。

 僕がさらに追い討ちをかけようとしたら、虎子が袖をつまんで引っ張った。少し怒った顔で言う。


「おい、征爾、言い過ぎだ。例え本当のことだとしても、そういう身もふたもない言い方をしたら言われたほうはかわいそうだ」


 呆然としていた男がはっとして、顔をしかめる。赤い顔で僕をにらみつけ凄んだ。


「生意気な奴だ、俺はお前の先輩だぞ。口の聞き方を教えてやろうか?」


 僕は臆さなかった。


「先輩だろうが何だろうが、ふられて憐れなあなたの為に話し相手になってあげてるんです。逆に感謝してください」


 男の怒りは最高潮に達したようだ。目がわっている。さっと拳を引いた。予備動作が丸見えで、じつに素人っぽい。

 いつでも、今からでもせんを取れるが、僕は暴力が嫌いだ。だから大人しく殴られてやる。


 僕は両腕を上げ、目を瞑った。

 とりあえず、これで十分だろう。衝撃に備える。

 ふいに、思わぬ方向から僕の顔に冷たいものが触れ、ぐいっと引っ張られた。

 目を開けると、僕は虎子の胸に抱かれていた。彼女は片手で男の拳を捌いていた。

 一喝する。


「征爾に触るな!」


 男の顔が青くなった。僕の顔も青い気がする。

 この騒ぎを受け、他の乗客たちが注目し始めた。ある生徒はスマホを取り出し撮影を始める。

 バスのアナウンスが流れた。


「お降りの際はボタンを押してください。席を立たれる際は停車してからお願いします」


 人の目が気になったのか、男は青い顔をしたまま、すごすごと最後部の座席に戻っていった。

 僕と虎子はお互いの顔を見て微かに笑う。

 一緒にバスを降りる。


「送りましょうか?」

「必要ない」


 虎子が背を向け歩き出した。

 しばらくその後ろ姿を見ていると、虎子がちらり振り返る。

 僕がまだ見ていたので慌てて顔を前に戻した。そのまま早歩きで横断歩道を渡り、橋を渡っていった。

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