三
僕は帰宅部だったので皆が部活動に向かう中、一人静かに玄関に向かった。
表に出て学生鞄を片手に伸びをする。全身の筋肉が
涙目で西の空を見ると日が傾いていて、オレンジ色の光が僕の白い息を照らし出す。
「毎日毎日、何が楽しくてこんな場所に来なきゃならんのだ」
空を見上げ、冷えた空気を吸い込んだ。
もう四月、他の地域では春の兆しがあるかもしれないが、ここら一帯は周囲を山に囲まれており、北から
それが太平洋の温暖な空気を押しやり、冬が居座り続ける。
僕はわざと息を大きく吐き出した。息がすぐに白くなる。
この様子だと春が来るのは、まだまだ先になりそうだ。
僕は片手をズボンのポケットに突っ込み、正門に向かって歩き出した。
正門へ向かう通りに桜が並んでいる。
通称『さくら通り』という何の捻りもない名前なのだが、桜は桜、暖かくなると一斉に芽吹き、花を咲かす。
風が吹いて、花びらが舞い、美しい通りとなる。
バットの金属音が聞こえた。
グラウンドで野球部が練習をしている。遠くからは吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。
この月代高校では、ほとんどの生徒が何かしらの部活動に参加していた。
あの樹も剣道部に参加している。
口では禁欲生活だの何だの言っていたが、高校生になっても剣の道から降りることはなかった。
将来、警察官になるからと続けていた。
警察の特練員になりたいらしい。
理由は単純で、公務員として安定した収入を得ながら剣道ができるからだ。
樹からその話を聞かされたあと、僕は警察組織についてあまり詳しくなかったので、剣術道場、虎子の実家だが、そこの
彼が言うに特練員は肉体的にかなりきついらしい。もし自分が若かったとしてもやりたくないそうだ。どうせやるなら剣術をやる、剣術最高とまで言っていた。
頑張れ、樹。
それにしても進路か。……進路ね。
僕は何も考えていなかった。
考えなければいけないのは、わかってはいるのだが……。
残念ながら僕には何もなかった。樹のように人生を捧げるようなものが何一つなかった。
当然だ。
心から感動することがないのだから、何かを目指すような切っ掛けもなく、夢見ることもない。
先ほど浮かんだ桜の美しさも、ただの形容詞でしかなかった。
言葉がすり抜ける――僕は足を止め、國分から借りた『愛と死』を思い出した。
恋する気持ち、愛する気持ちとは、どのような状態なのか。
わからない。
小説の世界で起こる喜怒哀楽は所詮、他人事で、僕の心には何も響かなかった。
哀しかったと言われても僕は哀しくない。どこか遠くの世界で起こっている戦争と同じで現実感がなかった。
せめて『老人と海』のように描写が外へ外へと向けられていて、どう思ったかではなく、どう行動したのか、それはどのような光景だったのかを書いてくれていたのなら僕にも少しは理解できたのだが……。
桜の木を見上げる。
昔、あった、花びらが自分の手のひらをすり抜けていく光景を思い出す。
あれはまだ僕が幼かったころだ。
虎子の母親である
僕は遊び心から、手を伸ばして散る桜の花びらを
そこは川沿いということもあり、また、川の近くには小高い森もあったので風の吹き方は強く、まばらだった。
そのような状況下で桜の花びらを掴むのは、幼き僕にとってとても難しいことだった。
そんな僕の様子を見ていた美桜が笑った。
「征爾、それじゃうまく掴めないよ」
美桜がジーンズの尻ポケットに片手を突っ込み、もう一方の手を真っ直ぐに、前方に伸ばした。手のひらを上に向け、そのままじっと静かに佇んでいると、桜の花びらが落ちてきて手のひらに収まった。
「見てご覧」
美桜がゆっくりとしゃがみ、僕に桜の花びらを見せてくれた。
「この花びらはね、私の手のひらに落ちたくて落ちてきたんだよ」
僕がそんなわけないって否定すると、美桜はふっと息を吹きかけ、桜の花びらを飛ばした。
「わかってないね征爾は。よく考えてご覧。この無数の花びらが風に舞ってどのように動くかなんて考えてもわからないだろ? そんな花びらの
僕は美桜の言っていること、言いたいことがわからなかった。
だから自分のわかる範囲で反論する。
考えろと言いながら考えてもわからないって言うのは矛盾だ、と突っ込んだ。
すると美桜がふふんと笑う。
「『むじゅん』なんて、随分難しい言葉を使うじゃないか? うちの門下生たちから習ったのかい? でも違うね。矛盾なんかしてないよ。私たちはわからないってことをわかるために考えるんだよ」
僕は今度の今度、本当に意味がわからず、頭を掻いた。
美桜はにこっと笑う。
「いいかい征爾。私たちが頭の中で考えようが考えまいがそんなもん大した問題じゃないんだよ。だってそうだろ? どんなに考えても、私たちが私たちであることに変わりはないんだからさ。ほら――」
美桜が桜の枝を指差す。
「あの桜だってそうさ。毎年、春になれば咲いて散って、とっても素直だけど、別に誰かの考えで咲いているわけじゃないし、散るわけでもないんだ。もちろん綺麗な花が見たくて、虫がつかないよう人が世話をすることもあるけれど、それとこれは全く関係なくて、ただ単にあの花は桜だから咲いて散っているだけなんだ」
美桜が僕の両手を掴む。引っ張り上げ、手のひらでお椀を持つように形作る。
「私たちも同じだね。考えようが考えまいが私たちは私たちだ。だから考えるよりもまず、ただ素直になればいい。あの花びらに触れたいと手をそっと開けばいい。その結果がどうであれ、その行為は『ムスヒ』となって私たちの人生を豊かに、とても華やかなものにしてくれる」
僕は半信半疑で桜の枝を見上げた。すると不思議なことに花びらが落ちてきて僕の手のひらに収まる。
考えるまでもなく、当たり前のように……。
「……桜の花びらと違って、言葉はそう簡単にはいかないよ、美桜さん」
桜は自然の物で、言葉は人間社会の約束事、全く違うものなんだから。
そんな意味のない反論を心の中で呟き、ぼうっと桜の枝を見上げていると、正門から陸上部の集団が入ってきた。男女混成で五〇人ほど、皆、陸上部専用のジャージを着ている。
白い上着に黒いパンツ、左胸には二本の
彼らとはこの時間、たまにすれ違う。流石に雨の日や豪雪の日には会わないが。
集団が規則正しく息を吐きながら僕のそばを通り過ぎていった。
皆、陸上に適した体をしていて、痩せて軽やか、その中で一番背の低い女の子が樹お勧めの佐藤だった。下の名前は憶えていない。
黒髪のショートカット、毛先は無造作に跳ね唇に掛かるぐらいの長さ、目はぱっちりとしていて、いつも笑顔で楽しそう。
明るい雰囲気を漂わせた女の子だった。
彼女は現在、県大会女子一〇〇メートル走のレコードホルダーで、一年生のときにはインターハイにも出場している。
当時、スポーツに興味のない僕の耳にさえ、その活躍の噂が入ったのだから相当なものだったのだろう。
それに、それだけではないだろうが、彼女の周りにはいつも女友達がいて笑いが絶えない。
彼女は陸上部のアイドル、僕とは違う世界に生きる人間だった。
「まるで小説の世界だな」
佐藤の背中が他の部員に隠れ、見えなくなった。集団はグラウンドに入っていった。
僕は正門に向かって歩き出したが、ふと樹が『弾けんばかりの笑顔』と言っていたことを思い出し、戻ってグラウンドを確かめた。
佐藤がアキレス腱を伸ばしながら他の女子部員たちと楽しそうに話している。
笑った。白い歯を見せる。遠目でもわかる、気持ちの良い笑顔だ。
僕はあのように笑えるだろうか。
僕は一気に挙動不審になり、視線をそらして何か別のもの、遠くにある青い山脈を眺めた。
そのまま一度も目を向けずに襟元から手を突っ込み、首の後ろを撫でながらその場を去った。
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