僕は校舎東側にある特別教室棟の二階、生物実験教室にいた。

 この教室は席が固定されておらず、好きな場所に座ってよかったので、皆、仲の良い者同士で集まり座っている。

 隣の彼女も、國分のことだが、彼女も僕の隣ではなく少し離れた席に座り、三つ編みおさげの友達と一緒にノートを取っている。


 代わり、僕の隣には樹が座っていて、頬杖を突いた姿勢で黒板をじっと眺めていた。

 まぶたが半分落ち、とても色気のある表情をしているが、先ほどから瞬きをしていない。

 彼は目を開けたまま眠っていた。


 静かな教室にチョークの音が響いた。

 白衣を着た男性教師が教壇に立ち、黒板に遺伝の法則について色々書いている。

 内容は教科書そのままで、ただ書き写しているだけだった。

 僕が思うに、彼は多分、何も教える気がないのだろう。

 残念だ。

 一年のときは別の教師が担当していたので少しは増しな授業だったんだが……。


 僕は黒板から机代わりの実験台に目を落とした。落書きがしてある。

 人気ロックバンドの歌詞、脇には猫のイラストが描かれ、吹き出しで「つまんにゃい」と添えてあった。

 確かにつまんにゃい。

 僕はここで何をしているのだろうか。


 皆が熱心に見つめる黒板に描かれるは、ただの教科書のコピー、白い粉が塗られ消されるだけ。

 僕の日常と同じだ。

 朝目覚め夜眠る。白い粉のように、ただそれだけ。

 変わらぬ毎日、僕は息苦しさを感じ、教室から逃げ出したくなった。


 逃げ出して、いっそそのまま学校をやめてしまおうか。

 いや、何の取り柄もない未成年が社会に出てどうするというのだ。

 これ以上、親父やお袋に苦労をかけるわけにはいかない。

 でも、このままでは――このままでは? このままだと、どうなる? また同じ日々が繰り返されるだけ、ではどうすれば? 

 ……などなど、僕は思考の砂漠をさ迷い、うとうとしかける。

 

 隣で樹の鼻が鳴った。

 教師が目を向けてくる。

 僕はハンカチを取り出し、鼻に当てた。それっぽく鳴らす。

 教師が眉をひそめた。


「征ちゃん、花粉症かい?」


 樹が自然に動き出す。言葉ははっきりとしているが瞬きの数がおかしい。ぱちぱちと何度も繰り返している。

 僕はハンカチで鼻を押さえながら言った。


「うーむ、季節的に風邪かもしれぬ」

「飛田、それから……」


 教師が教卓に置かれた出席簿を見た。


「尾上、今は授業中だ。私語は慎め」


 僕と樹が声を揃え返事をすると、教師は黒板に向き直り、そしてまた書き出す、教科書のコピーを。


「征ちゃん」


 樹が顎をしゃくり、僕の視点を変えさせた。國分がこちらを見ている。


「本当、美人さんだよね」


 樹が手を振ると國分は顔を逸らし、再びノートを取り始めた。


「美人? ……そうか、樹がそう言うなら、きっとそうなんだろうな」


 僕にはわからない。


「佐藤さんは可愛いし、佐々先輩はエロいし、俺らの青春は明るいね」

「……なぜそこで先輩の名前が出てくるんだ?」

「さあ?」


 樹はにやりと笑った。

 ふっと視界が暗くなる。僕と樹が見上げると教師が眉間にしわを寄せ見下ろしていた。


「静かにしろ!」


 僕たちは静かになった。

 周りのクラスメイトにくすくす笑われる中、僕はすぐに暇を持て余す。

 皆がノートを取るように僕も取ればいいのだが、僕は昔からノートを取らない主義だ。

 どうせ取っても見返さないから、取るだけ無駄だ。


 僕は実験台に肘を突き、手で口元を隠した。教師に見えないよう欠伸をする。

 樹に目を向けると彼は長い脚を組み、片手をポケットに突っ込んだ前傾姿勢でノートを取っていた。

 珍しいこともある、樹も僕と同じでノートをあまり取らない。これも一年間一緒にいなかった変化かとよく見れば、彼は落書きをしていた。教壇に立つ教師の絵を描いている。


 デフォルメされ、頭部が大きく体が小さい。髪型は中分けからアフロに変わり、白衣も袖を引きちぎったノースリーブで肩から腕の筋肉がじつに生々しい。

 現実の教師とは全然違うのに、なぜかその落書きが今、目の前にいる教師だとわかる。

 流石だ。相変わらずの絵の上手さだ。

 じっと鑑賞していると、じわじわくる。


 全く、樹は本当に何でもできる男だ。感心する。

 この落書きだけじゃない。運動神経もよい。勉強も、全然しているようには見えないが、試験の度に公表される一〇位圏内にはいつも名前が載っている。

 気が弱く、異性関係が苦手なところ以外、完璧である。


 ちなみに僕の成績は平凡、大したことはない。絵も下手だ。

 以前、美術の授業中、静物画を描かされたことがあったが、彼岸花が花の枠に収まらず、マグマ噴き出す火山のようになったのはあまり思い出したくない事実だ。

 美術の女性教師は褒めてくれたが、多分、同情と励ましだろう。

 そんなこともあって、今では誰にでも向き不向きがあると割り切って考えるようにしている。

 無いもの強請ねだりは子供のすることだ。

 僕は気にしない。


 そういえば、彼女も成績上位者だったか。

 僕は國分を見た。彼女は黙々とノートを取っている。頬にかかった黒髪をかき上げ耳にかけた。

 先ほど樹が言った言葉を思い出す。

 美人さん、か。

 

 確かに他の女子よりは目がぱっちりしているし、顔立ちも整っている。頭部も体に対して小さいし、肌も白くて透明感があり、肩まで伸びた黒髪も艶がある、さらさらしている。

 それら一つひとつの要素を組み合わせると、やはり樹の言う通り、美人と形容するべきなのだろうか。

 

 ……ううむ。

 なぜだかわからないが、彼女の顔をずっと眺めていると微かな疲労感を覚える。

 やはり返そう、あの文庫本。

 一度読んだ『愛と死』を、また読んだとしても結果は同じだろう。

 僕は下校時間まで待ち、帰り際に言った。


「國分さん」

國分こくぶ小町こまち

「は?」

「まだ自己紹介してなかったから」


 挨拶や何気に話しているときには何とも思わなかったが、こうして面と向かって言葉を交わすと落ち着きのある良い声だとわかる。響きがいい。華奢きゃしゃな見た目とは全然違っている。

 僕はちょっとだけ面食らった。


「……悪い。どうもこういうことに気が利かなくて。僕の名前は飛田ひだ征爾せいじ、これから隣同士よろしく頼む」

「うん。よろしくね」


 國分が視線を下に向ける。僕が持っている『愛と死』に目を向けた。


「その本なんだけど、返すのはいつでもいいから、読んだら感想を聞かせて」


 彼女はさっきの、生物実験教室で樹に手を振られたときとは打って変わって表情が明るい。

 僕は断りづらくなり、思わず手に持っていた『愛と死』を見つめた。

 じつは僕の家にも同じ文庫本がある。だから読んで感想を聞かせるだけなら借りるまでもないのだが……。

 僕は『愛と死』で自分の顔を隠し、國分の視線を遮る。


「これ、お借りします。でも感想はあまり期待しないでくれ。皆が皆、同じ感想を持つとは限らないから」

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