万葉零るゝ

機杜賢治

 高二の春、進級に伴いクラス替えが行われ、僕の隣に面識のない女の子が座った。

 肩まで伸びた黒髪、白い肌、つぶらな瞳、口数が少なく、休み時間になると本ばかり読んでいる。

 今日も一時限目の授業が終わるとすぐに机の中から文庫本を取り出し読み始める。

 

 裸の文庫本、ブックカバーを付けず、最初から付いていた出版社のカバーまでも取り払い、葡萄ぶどうの描かれた表紙を片手にページをめくる。


「今日は何を読んでるんだ?」


 僕が聞くと彼女は一瞥いちべつをくれ、文庫本を閉じて表紙を見せてくれた。表紙に『愛と死』と記されている。

 彼女が言った。


「読んだことある?」


 僕が首を横に振ると彼女は少し残念そうな顔をする。


「そう……」文庫本に目を落とす。「あなたならこの作品、読んでるんじゃないかなって思ったんだけれど」

「僕が? なぜ?」

「なんとなく」


 彼女がなぜそのようなことを言ったのか僕にはわからなかったが、確かに彼女の言ったとおりだ。

 僕はこの作品、『愛と死』を読んだことがある。

 感想として嫌いではないが、そんな単純な問題でもないような気がする。

 

 もし本当に主人公がヒロインのことを愛していたのならば相手の生死は関係ないはずだ。

 作者は感情論により過ぎていて本質的な部分を見落としているのではないか。

 死は愛の証明となりうるのだろうか。

 そのようなどうでもいい思考が浮かんでは消え、浮かんでは消え、ぐるぐると答えの出ない砂漠を歩き続ける……。


 ……全く。

 僕は頭を振った。

 相変わらずだ。

 相変わらず僕には人の心というものがないらしい。


 富士山を見ても美しいとは思わない、泣ける映画を観ても泣かない、僕はそんな人間だから、この作品を読んでもとくに何の感情も覚えない。

 逆に作者の意図と自分の考えがどんどん乖離かいりして、作品の世界観、人物に感情移入できず、これはあくまでも作者という個人の思想でしかないと考えてしまう。

 つまり僕にとって、この作品は結局が言葉、その羅列でしかなかった。


 思い返せば僕が生まれて初めて読んだ小説『老人と海』もそうだった。

 中学で図書委員をしていたころ、受付カウンターで暇そうにしていたら、幼馴染の虎子に半ば強引に読まされた。

 自分も読んだから君も読めと、そういうことらしい。


 僕は夕焼けに染まる図書室で、別の本を読みふける虎子の隣に座り『老人と海』を読んだ。

 原文もきっとそうなのだろうか、翻訳文からもにじみ出る整った文体、大海原に浮かぶ小舟、漁をする老人に生き延びようとするカジキ、サメとの闘い、ただそれだけがあった。


 そこに作者はいない。その存在も感じさせない。介入や説明のない、邪魔するものの一切ない世界で僕は老人の生き様を見た。

 戦い、失う、それでも生きている。

 朝はまたやって来て、変わらぬ、変えようのない厳しい現実が続くのだ。

 そして僕は乖離する。


 これはあらすじ、ただのストーリー、指先から伝わる紙の質感、視覚から入り込む黒く印刷された漢字と平仮名、片仮名、それら現実に存在する感覚が僕を作品の世界から引きずり出す。

 この作品は現実ではない。

 これは言葉が並んでいるだけ――そう気づいた瞬間、僕は我に返り、息をした。


「大丈夫?」


 隣の彼女が心配そうに身を乗り出し、僕の顔を下から覗き込んでいる。距離が近い。フローラル系のいい匂いがする。

 僕は顎を上げ、目を逸らした。


「あ、ああ……ちょっと考え事してて……」

「そう……」


 彼女は姿勢を正し、手に持っていた文庫本を机の上に置いた。表紙が少しだけ浮かび、ゆるい曲線を描いている。


「私、ちょっと席を外すね。この本、読んでていいよ」


 彼女は椅子から腰を上げ、教室から出ていった。


「征ちゃん、征ちゃん!」


 教室の後ろからクラスメイトの尾上おのえいつきが興奮した様子で声を掛けてきた。


「樹、どうした? また誰かに惚れたか?」

「違う! 俺のことよりも征ちゃん! 何、親しげに國分こくぶさんと話してんの?」

「別に親しくないよ。ただ雑談していただけだ」

「そうなの? 本当に?」


 僕が頷くと樹はほっと息を吐き、笑った。さわやかな笑顔だった。

 黒髪のベリーショート、整った目鼻立ち、背が高く、脚が長い、体格もよい、僕を含め、そこら辺のとは明らかに違う顔貌かおかたちをしている。

 樹は日本人とイギリス人のクォーターだった。

 僕は腕組みをして樹を見上げる。


「安心したか?」

「うん」

「そいつはよかった。お前が惚れやすいのはいつものことだが、そう言えば、この前の子はもういいのか? 確か陸上部の女の子だったか。あんなに『可愛い、すごい可愛い』と叫んでたじゃないか」

「陸上部? ……ああ、佐藤さん! 佐藤さんも可愛いよね。あの弾けんばかりの笑顔がたまらんね」

「やれやれ」


 僕が呆れたように首を横に振ると、樹は優しげに微笑んだ。


「相変わらず御堅おかたいな征ちゃんは」

「堅くて結構」

「そんなこと言わずに、もっと肩の力を抜きなよ。ほら、俺たち中学のころ剣道ばかりやってて禁欲生活長かったじゃん。ろくに恋愛もしてないし。だから今こそ、女の子におぼれるときだと思うんだよね」

「溺れるって、お前……」


 僕と樹は付き合いが長く、同じ中学の出身、三年間、同じクラスだった。

 高校一年のときは別々のクラスになったが、高校二年でまた同じクラスとなった。

 僕は中学当時の樹を思い出す。

 当時の彼は今と変わらず惚れやすいところがあったものの、女子と話せば顔を赤くする恥ずかしがり屋で、それはそれは可愛いらしい美少年だった。

 それが今ではこの有り様だ。

 全く、この一年、僕の知らない間に何があったのやら……。

 僕はとりあえず、色恋沙汰、理不尽な男女の情念に巻き込まれたくなかったので話を変えることにした。


「剣道か」

「ん?」

「懐かしいな」

「うん、そうだね! ね、また一緒にやろうよ!」


 樹は竹刀を持つように両手を握った。そこにはないが、確かに竹刀の存在を感じさせる。流石、有段者は違う。


「……いや、やめておこう。どうも僕には体育会系の部活動は向いていないようだ。横暴な人間、暴力を振るうような人間は嫌いだ」

「それはそうだけど、挨拶ぐらいはするべきだったよ。あんなんでも先輩は先輩だし」

「僕は一つ二つ先に生まれたぐらいで遠慮はしない。尊敬するべき人間を年齢では選ばない」


 樹が笑う。そして嬉しそうに言った。


「本当、理屈っぽいな征ちゃんは、それじゃ女の子にもてんよ!」

「いい。始めから諦めてる」

「えー、マジか」

「僕は樹のようにつらがいいわけではないし、がたいもよくない。ついでに頭の中もそんなに優れているわけではない」

「そうなの? 俺はイケメンだと思うよ。俺が女だったら絶対惚れてるね」

「……だ、だからこそ、自分の考え方を手放すわけにはいかないんだ。これだけは譲れんな」

「……俺の話聞いてる?」

「聞いてる」


 樹は肩をすくめた。


「達観してるというか、ひねくれてるというか、一体どこに向かっているのやら」


 チャイムが鳴り、樹が自分の席に戻っていった。

 僕は隣の席を見た。机の上に『愛と死』が置かれている。

 ……樹の言った通りだ。

 僕は捻くれている。

 だから小説を読んでも感動しない。

 この『愛と死』もそうだ。かつて読んだ『老人と海』もそうだった。

 僕にとって感動を覚えない小説はただの情報、ただの道具でしかない。

 ……でも、本当にそうだろうか。

 あれから僕なりに様々な本を読んで見識を広めた。

 だから、もう一度小説を読めば何か感じるもの、思うところがあるかもしれない。


 そんなことを考えながら次の授業に向け準備をしていると彼女が戻ってきた。

 片手でスカートを押さえ椅子に座る。文庫本を手に取り、僕の机に置いた。白い指先が本から離れる。


「貸してあげる。読んで感想を聞かせて」


 横目で見つめる彼女の眼差しに何か期待のようなものを感じる。

 もしかしたら彼女は作品について語り合う仲間が欲しいのかもしれない。

 女性教師が教室に入ってきた。抑揚ある英語で挨拶する。

 隣の彼女が視線を前に向けたので僕は『愛と死』を手に取り、机の中に入れた。

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