#5 「多々良田渚央」
暇があればゲームをするか小説を読むか。中学にあがったころから、ぼくは自室でその二者択一を繰り返してきた。液晶を嫁とし物語を愛人とする身であるからして、ぼくが入学当初この文芸部に入ろうと考えたのは言うまでもない。
しかしぼくは入部しなかった。
なぜか。
それは先に話したとおり、我が伊ヶ出高の文芸部とは、十代の青春を陰の玉座に捧げた者たちの巣窟であるからに他ならない。
「オロロロロ……」
文芸部の扉を開けようとすると、彰人が〝吐瀉物をぶちまける飲み会帰りのサラリーマン〟の真似ごとをはじめたのでぼくは早くもこの場から逃げ出したくなった。扉から漏れる瘴気に眼を片目を瞑りつつも、ふたりしてもう片方の眼で文芸部の教室を覗き見る。。
「ぼくぁここに来るのは歓迎会のとき以来だよ」
「オレもだ。アレに行くまではいい部活だと思ッてたンだけどな。まさに知らぬが仏」
「何件掛け持ちしてんだ。いい部活でも顔を出さねば意味があるまい」
「阿呆を抜かせ。ここにいる連中を見ると、部活動というモンが青少年たちにとッてどれほど体に悪いモンかをよく理解できるわ」
入学当初、参加者にはもれなくうまい棒を一本配られると聞きつけてこいつと一緒に<文芸部>の新入生歓迎会に参加した。部活に入れてうまい棒も貰えるならばこれは僥倖としか云いようがないと当時は信じていた。
そう、あの日――ぼくらと同じ年に入学した一人の女子生徒により我々が胸に抱いていた<文芸部>の幻想は掻き消えたのである。
がらりと音を立ててドアが開く。「ヒィ」ぼくらを見下ろす、あるいは見下すその眼に悲鳴が漏れる。
「いらっしゃい」
人呼んで<伏魔殿の主>――魔窟の女郎蜘蛛こと多々良田渚央は云った。。
「幽霊新聞の噂は聞いてるわ。わたしたち文芸部を差し置いて文字で悪戯を計るなんていい度胸よね。……それに割とちゃんと書いてあるのが尚腹立たしいわ」
「……というと、やっぱり文芸部が書いたわけではないんだね」
「当たり前よ。あれをご覧なさい」
多々良田さんが指を差したほうで、彼女の奴隷――もとい文芸部員たちが血走った目で筆を走らせていた。わかりやすい修羅場である。
「今月末までに一人三百頁よ。他のことなんて考えさせない」
「さんびゃくっ!」
横にいた彰人がむせる。
この文芸部、先輩の話によると去年までは非常に和やかなムード漂う文学少年少女たちの憩いの場だったというが、この多々良田さんが入部してからというもの常に執筆に追われる亡者たちの住まう魔の殿堂と化してしまったらしい。
なぜ彼らが文学的平穏を失ったのか詳細は不明だが、ある一説によると、入部する際に多々良田さんが持参した短編小説を読み終えた結果、彼らは多々良田さんの足元に土下座して泣いて謝ったとも、皆揃って被虐愛好者のように彼女の靴を舐めだしたとも言われている。
そしてその日から<文芸部>は今のような有様となったという。
歓迎会のときにぼくが見たのは、彼女に精気を吸い取られ、生ける屍と化した学生たちの姿であった。人差し指の横腹を鉛筆で汚した手で、彼らはぼくにうまい棒を差し出したのである。そのときの光景。恐怖。思い返しただけでも恐ろしい。まるで女子高生版ジョン・ポールではないか。
「かねがね金がねえかね、か……」
「先日選抜せん罰先生」
「仰々しい漁業」
伏魔殿の亡者たちは皆、なにやら意味の置き去りにされた言葉をぶつぶつと呟いていた。傍から見れば韻を踏むのがヘタクソなラッパーに見えないこともない。YO!YO! けれどそれにしては精気がなさすぎる。歓迎会の日、ぼくは彼らの口から放たれるそれを人知れず「壊れた文学的うめき声」と名付けた。
歓迎会が多々良田さんの入部した翌日であったと聞いたとき、ぼくが内心ホッとしたのは云うまでもない。あと数日早く来ていればぼくも今ごろは亡者の一員と化していたのかもしれない。いやはや文学なんて志さなくて本当に良かった。小説など手を出すほうがどうかしていたのだ。学生の本業は怠惰である。文字の奴隷と化して多々良田さんに文学的調教を施されるくらいならば、家でスカイアイに終戦記念日をプレゼントするほうがよほど健康的で有意義だ。
ただし、複数の部活を掛け持ちしている彰人では話が違ってくる。この阿呆が阿呆たる所以はそこにある。
「幽霊新聞も良いけれど、幽霊部員も如何なものかしら。ねえ鷹木くん」
先ほどから身を震わせていた彰人の顔がいよいよ青ざめていた。彼が所属する倶楽部の中にはこの文芸部の名前もあるのだ。これだけの執筆活動者を束ねる多々良田さんが名前とうまい棒だけかっぱらってそそくさと退散したこのサボり魔を放っておくとは思えない。いくらファスナーに挟まった陰毛野郎とはいえ、あの惨事を見て文芸部に入部届を出した勇気は認めよう。けれど待っているのは破滅だ。お経を唱える準備をしておこう。
そもそも、なにゆえこの悪友は倶楽部の掛け持ちなんてしているのだろうか。おおかた「学生の中で一番多くの部活に所属した」という肩書き欲しさゆえか。そんなカンジのくだらない記録更新に精を出していたのだろう。
その結果がこれである。阿呆高校生のなれの果て。
「なァ……多々良田よ……」
「なに」
「オメー世界から文字がひとつずつ消えていく小説を読ンだことはあるかいね」
「あるわ。文字が消えると存在もなくなるのよね。『う』と『ま』が消えれば馬がいなくなるとか」
「これを受け取ッてくれ……」
怪訝な表情を浮かべる多々良田さんに彰人はメモを手放したらしい。そこには五十音順で文字が並んでいた。手書きであろう。たぶん今書いたもの。
「……『あ』と『か』と『き』と『た』と『と』と濁点がないわね」
「つまりオメーの手のなかからは鷹木彰人は消えたのだ!」
彰人が声を荒げた間、なにやら一番奥で一番ぶつぶつ言っていたぼくらの先輩らしき生徒が、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちたではないか。
「ひぃッ!」
咄嗟に悲鳴を上げる彰人。
ぼくらは多々良田さんがそちらを向いている間に半歩後ずさり、振り向く前に全力疾走してその場から逃げ出した。
「何が幽霊新聞だ。あの伏魔殿のほうがよっぽど怪奇だぜ」
ぼくは黙ってうなずいた。
「あンなモン見せられて入るヤツがいたら、そいつは自殺願望の持ち主かドのつくマゾヒストだ。オレはそうじゃねえ!」
「でも部員ならたまには顔を出してやれよな」
「あの地獄に落ちたら、蜘蛛の糸で抜け出すこともできねえよ」
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