第一章

第1話 「そうですか。なら――追いかけます」


 広大な土地を持つ大陸の中でも五指に入る大国、クルナ王国と呼ばれる国がある。興国の折には武力によって周辺諸国を飲み込んだ歴史はあるが、軍事国家として急激な繁栄を成したのは昔の話だ。現在では領土拡大の為の戦争は無く、安寧とした時代を送っている。

 そんなクルナ王国の首都中央に聳え立つ巨大な城で最高権力者たる王は自らの執務室に置かれた円卓の前で悩ましげに眉を顰めていた。

 金の髪をオールバックにし、口元には整えられた髭がある。その青い目は鋭くも知性の輝きが見られ、座っているだけでも王として威厳にも溢れている。

「異世界の記憶を持つ若者達。その全員がギフトを所持しているとは。面倒な話だな」

「神殿からの神託です。面倒などと、熱心な信者に聞かれればそれこそ面倒ですぞ」

 王の隣には宰相も座っている。老齢の男性で、髪は既に全て白髪となり、顔には生きた歳月を思わせる多くの皺がある。けれども背筋は真っ直ぐに伸びて年齢を感じさせないはっきりとした声を発する。

 二人の前には一通の手紙が置かれていた。調和と信託の神を崇める神殿からの使者が持って来た物だ。内容はクルナ王が言ったように、悪神によって死に他世界から生まれ変わった者達に関する事だ。

 これは神からの言葉である神託であり、出来うる事なら悪神に嵌められた彼らに救いに手を、と言うのが神殿からの願いだった。

 悪神と呼ばれる神は一柱しかおらず、その名はシト。気が遠くなるほど大昔の神話の時代だけで無く、歴史の中で何度もその名が出ては苦しめられる人々がいた。その度に神やその配下である神殿が動く。

 悪神に弄ばれた若者達に救いの手をと云う主張は宗教組織としてその慈悲深さは分かるし、正式に依頼されたのであれば国として見栄の張りどころであるし、そう最低限の援助程度負担にはならない。

 だが、王と宰相の顔は複雑だ。

「シトめ。歴史書でその所業を何度か目にしたが、まさか私の代でこのような事をしてくれるとは」

 王が悪態を吐く理由として、転生者全員がギフトを持っている事にある。ギフトとは神からの加護によって得られる力の総称だ。転生者側からするとチートと言えば分かりやすい。尤もそう簡単な力でもないが。

 加護を持つ者の力は凄まじく、戦闘に依る物であればそれを持つだけで英雄と呼ばれてもおかしくは無い。当然、それは使い手の善性と悪性によりけりではある。

「ギフト持ちであるのなら国が保護に動くのは問題無い。ただ、十五の若さで突然ギフトが与えられたとなると、扱いが難しいな」

「生まれ持った訳でも無ければ、働きを認められて与えられた訳ではありませんからな。どうしても制御が難しい」

 ギフトは万能ではなく、時には制御に困る事態が発生する。前者はそれが顕著ではあるが幼い故に力もまだ小さく、何よりも師を与え制御する術を学ばせれその問題は解消される。後者に至っては十分な実力がある故に神から認められる為、暴走する心配は無い。

 しかし今回は未熟ながらもある程度の知恵と力を持った若者達だ。知識に置いては前世の世界の分まであると考えると安心と思えるかもしれないが、彼らが死んだのはまだ精神的に未熟な時だ。

 暴走する可能性が高く、王と宰相はそれを気に掛けていた。

「国の領土内にいる彼らの居場所ならば既に神殿から教えて貰っております。十五の少年少女達と云う事ですから、彼らを魔術学院の方に奨学生として入学させてはどうでしょう?」

「それが妥当か。あそこは我が国が誇る魔法技術最先端の場所でもあるからな。ギフトが暴走した際、あそこ以上に対処出来る場所は無いだろう」

 宰相の意見に王は同意する。

 ギフトを、と言うよりそれを持つ転生者達を二人はやけに警戒しているように見える。ギフトの力を知っている為に国のトップとして最悪の事態を想定するのが彼らの仕事であった。

 だが、それとは別に転生者を警戒する理由が彼らにあった。

「陛下、よろしいでしょうかっ?」

 執務室のドアがノックされ、普段は冷静沈着な執事のやや慌てた声が聞こえてきた。

「…………入れ」

 嫌な予感がしつつも王は入室を許可する。気のせいか予感だけと云うのに既に疲れた顔をしていた。それは宰相も同じだった。

「失礼します。フィリップ殿下が――」

「ラザニクトの娘か?」

 言葉を遮る形で王が口にすると、執事は頷きを返した。それを見て王は深々と溜息を付いて、宰相は呆れたように首を振った。

「どこで、どうなってる?」

「池のある中庭で、ギフトによって作られた高い足場の上から突き落とされています。命綱として足首に長いゴムが結びつけてありますが、落とすとちょうど勢いを弱めながら顔だけが池の中に入るよう計算されているようで、正に水責めのような目に。私どもが殿下を救出しようとすると、サリア様が滑車で上から引き戻してしまい、再び殿下を蹴落としてしまいます」

 早口にけれどもはっきりと喋る執事の顔は若干青ざめていた。高所から蹴り落とした挙句に水責めと云う光景を思い出しているようだ。

「その拷問具の名はバンジージャンプと言う物らしいです」

「なんと……恐るべきは異世界よ……」

 それはそんな使い方をしている人間に問題があるのだが、それを指摘する人間がこの場にいるはずも無く、日本が誤解されていくのだった。


 ◆


「おかしい。俺はチートを手に入れた筈。それなのにこれはどういう事だ?」

 冬が終わり、段々と寒さが薄らぎ木々に蕾が現れ始めた頃、ハルトゥーン村近くの森の中に建つ小屋でレオは腕を組んで首を捻っていた。

 小屋は十を過ぎた頃のレオが秘密基地的なノリで森の木の上に作った掘建小屋だ。見た目は悪く、無駄も多い。けれども家としての機能だけを見れば十分な出来であった。

「強い奴に会えるようになったのに、来るのは腹を空かせた野生動物とか魔物じゃねえか」

 強者と引かれ合う。そんな能力を手に入れた筈のレオだが、本人の希望通りにはいかず、出て来るのは何度も倒した事のある野生動物や魔物達ばかりで歯応えが無い。

 わざわざ畑の耕しと種蒔きを速攻で終わらせて山籠りしたと云うのに、だ。

「た、単純なスペックと距離が問題、だと思う」

 床で胡座をかいて座っていたレオの隣からメフィーリアの声がした。同時に黒いローブを羽織ってフードを深く被る彼女の姿も現れる。

 いきなりの登場に慣れたきたレオは前のように剣に手をかける事はなく、視線だけをメフィーリアに向ける。

「単純な力や速さなら熊の方が強いのに」

「そりゃあ身体能力なら人間より動物の方が強いだろ」

「そ、そうじゃなくてね。何て言ったらいいんだろ……。技術面も考慮したギフトなのに、ど、どうしてこうなったんだろ?」

「まあ、説明しにくいならそれでいいけど。距離って言うにはアレか。やっぱ近くを通ってないと駄目とかか?」

「う、うん。流石に遠くから直接引き寄せるようなものじゃないから。ひ、ひひ引き寄せ合う程度の運命になってて……ご、ごめんね。せっかく考えたのに、この程度しか再現出来なくて」

 チートの内容を伝えたからと言って、願い通りのギフトが与えられる訳ではない。与える側の神の力や質は勿論だが、この世界の法則に則ったものでなくてはならない。

 法則を無視するとギフトは機能しなくなるどころか魂の歪みが発生して魔物化の道に進む事になる。

「再現も何も俺の要求も曖昧だったからメフィーリアが謝る事じゃないだろ。現にこれって、運を操作してる訳だから大変だったろ」

「あ……あああありがとう。そ、そう言ってくれると助、かる」

 胸をなで下ろすメフィーリア。

「ああ。まあ、それはそれとして何か考えないとな。やっぱ村から出るか。……見合いとか面倒だし」

 最後の言葉だけ小さく呟いた。

 冬の間に十五歳になったレオだが、この世界ではそろそろ結婚しても良い歳であった。結婚適齢期は土地や文化、身分によって違っては異なるが、村のような田舎では結婚が早い。

 レオの父親も十五の時に隣村から二つ下の妻を娶った。事案ものに思えるが、ここでは稀にある。肝心なのは男の方に家族を養える甲斐性がある事と女の方に子供を産める健康がある事なのだ。

 今、村にはレオと年齢が近い娘がいない。けれど他の村にはいるので見合いをさせられるとレオは考えていた。

 と言うか、近所の村々が集まった去年の収穫祭で村長の鞄持ちとして挨拶回りに行った時、歳の近い少女と何度か引き合わされた事を考えれば、既に布石は打たれている事になる。

 そして思い出されるのは同い年の赤い髪の少女だ。近くの大きな村の村長の娘だ。ウチと向こうの村長の意味ありげな頷きを見てしまった身として、人生の墓場的な意味で危機を感じてしまう。

 今更囲い込みに気付いても遅いが、腕を上げたい今、他にうつつを抜かすつもりは無い彼にとって家庭を持つのは遠慮したかった。

「そ、それなら大丈夫だと思うよ」

 そんなレオの考えも農民の一般常識も知らない女神は朗報を持ってきたと言わんばかりに、はにかんだ。

「く、国がね、貴方達を集めてるんだ。し、神殿から気にかけるよう依頼があったから、その、学校に入れてくれるんだって」

「国が神殿の依頼でねえ」

 ハルトゥーン村はクルナ王国の端の方にある村で正しく田舎だが、王都や他国についての情報が来ない訳では無い。

 月に一度やって来る行商人がやや古い新聞を纏めてタダでくれるのだ。村の数少ない外に関する情報源であるそれだけでも簡単な事は分かる。

 神殿と言えばこの世界で信仰されている神々の全てを奉っている世界最大の宗教団体の通称だ。

 神殿と言える施設はそれぞれが信奉する神を祭る場所であるが、特定の神の名を頭に付けない場合はそれぞれの信者達が集まり、各神を信仰する司教達の議会制で運営が決められている聖地を意味する。

 神殿とクルナ王国の関係は近すぎもせず遠すぎ無いと言ったものだ。昔は新聞に書かれていた話だけを読んで、ああそうなのかと云う感想しか抱かなかったレオだが、前世の記憶が戻ってから国と神殿の間は一定の距離が保たれていると理解していた。

 だからこそ、クルナ王国が神殿の依頼で動くと云う事は国にとっても何かしらの利があるのだ。

「まあ、関係無いわな」

 レオは農民である。畑や村の安全に関わらなければ国が何しようと関係が無い。前世の時もそれは同じだった。

「しかし、学校かあ。何でまた?」

「ギ、ギフトの練習の為じゃないかな? 攻撃的な能力なら、ちゃ、ちゃんと勉強しないと危ないから」

 確かに前世ではチートと言われるような力なのだ。国としてはギフト所持者を管理下に置きたいのが本音だろうとレオは想像した。したが、同時に自分には関係無いなと思った。ギフトの能力が能力なのでそう思っても仕方がないだろう。

「学校、ね…………」

「な、懐かしい?」

 もう一度学校と云う単語を呟いたレオにメフィーリアは申し訳なさそうに聞くのだった。

「気にしすぎ」

 女神の心情を察しながらも一言でそれを片付けたレオは今度は憂鬱そうに呟く。

「勉強、苦手なんだよなあ」

 本気で苦手なのか、レオは苦悶するように腕を組んだまま体を捻って唸る。そんな彼の姿を見て、メフィーリアは微苦笑を浮かべるのだった。

「お……」

 体を捻っていたレオの視界に小屋の窓から見える外の景色の中に、森を挟んだ向こう側から白い煙が一つ上がっていたのを見つける。

 森にいるレオを呼ぶ村からの狼煙である。

 魔物の襲撃などの場合は狼煙は赤で、白は単純に呼びつけているのだ。

「噂をすれば何とやら、か」

 呼ぶ理由を予測しながらレオは剣とリュックを掴んで窓から身を乗り出し、飛び降りると森の中を駆けていく。

「自分の家なのにドアから出ないの?」

 残された女神は一言呟くと戸締りをしてからその場から消えるのだった。


 ◆


「そういう訳で行ってくるわ」

「軽っ!」

 片手を上げて、ちょっとコンビニ行ってくるような感じのレオに彼の父は声を上げた。

 メフィーリアが言ったようにクルナ王国は前世の記憶が蘇ったギフト保持者達を集め出していた。彼らの居場所は神殿からの神託によって判明しているので使者が来るのは早く、レオも森から村に帰ったら護衛を連れた使者が待っていた。

 ギフトを受け取ったばかりのレオを王都にある教育機関に迎え入れたいと云う話に、レオはその場で返事をした。一晩経った今、使者達と共に村から出発しようとしていたのだ。

「畑手伝えなくて悪い。代わりに耕しておいたから」

 レオはそれこそ軽い態度の父親を無視して母親に向いた。

「いいのよ。下の子達にもそろそろ畑の仕事を学んで欲しかったところだから良い機会よ」

 即決な上に翌日には出発しようとするレオだが、家族は驚きはしたものの誰も反対はしなかった。命令では無いが王都から使者が来てはたかが村の一家庭が逆らう事は出来無いのもあるが、レオの両親はいつか飛び出すと思っていたらしく、レオの決めた事には何も言わなかった。

「忘れずに手紙ちゃんと書けよ。兄貴、そういうの全然なんだから」

「お土産も送ってね。王都で流行の服とか。あっ、彼女が出来たらちゃんと紹介してね」

 上の弟と妹がどちらが長子か分からない事を言う。兄がズボラな分、しっかりしているようだ。

「いってらっしゃーい」

「がんばってねー」

 逆に下の弟と妹は純粋だ。ただし、レオが暫くの間戻って来ない事を意に介していない。意味が分かっていないのではなく、別にレオがいなくても平気なだけであった。

「まあ、お前が農家に向いてないのは分かってたからな。学費もタダだって言うし、手に職付けて来い」

「ああ。つっても、兵士か傭兵、冒険者しか無さそうだけどな。職に就けたら仕送りする」

「お前から金貰うと何か気持ち悪いから要らん」

 側から見れば和やかながら何とも奇妙でドライとも言える家族間のやり取りに少し離れた場所でレオを待っている使者達が苦笑いを浮かべている。

「なら、お袋に送る。へそくりにでもしてくれ」

「楽しみに待ってるからね、レオ」

「かあさん!?」

「じゃ」

 妻の方を見て叫ぶ父親を放置し、レオは後ろを振り返って使者達のいる場所へと荷物を担いで歩き始める。中は着替え数枚と日用品、剣の手入れの為の道具。それと餞別として母から貰った僅かな金銭に長年使い続けて来た剣を腰から下げている。

 途中、家の窓から祖母が見ているのに気付いた。祖母に向け小さく笑みを浮かべながら会釈し、レオは家々から出て来た隣人達、そして村の出口で何だか残念そうな表情で既に待ち構えていた村長に見送られながらレオは村から旅立って行った。


 村はクルナ王国の端に位置している。平地で特に障害となる物は無いが、大国の一つに数えられるクルナの王都に行くとなれば馬でも一週間は掛かる。

「不自由をさせて申し訳ない。領主の館に着けば馬車を用意出来ますのでご辛抱下さい」

 村を出発して暫くすると馬に乗った使者がレオに謝罪して来た。

「いえ、そちらの事も考えず出発しようとしたのはこっちですから。それに、俺はただの農家の子なので言葉遣いもそう丁寧でなくても」

 レオも使者の男と同じで馬に乗っていたが、護衛の者が手綱を歩きながら引っ張っていた。レオに乗馬の経験はなく、せいぜいがロバに乗った事がある程度だから引っ張って貰っているのだ。

「私は使者ですので、堅苦しいと思われてもこの言葉遣いはご容赦下さい」

 二十代前半と思われる使者は年下のレオに対して丁寧な態度を崩さない。

 それがこの人の仕事なら仕方ないかと思いつつ、レオはこれ以上言わない事にした。

「我らの事はよろしいのです。この分なら学院の新学期に間に合うので仕事としては寧ろ助かります。しかし、本当に良かったのですか? ご家族の方ともっと話す時間ぐらいは余裕はあるのですが」

「家ではあんな感じですよ。それに、あんまりズルズルと居たら名残惜しくなるので行くと決めたらすぐに行動した方が良いです」

「なるほど、余計な気遣いでしたね。その歳にしては落ち着いておられる。やはり、前世の経験を含んでいると精神的に成熟しているのですね」

「いや、子供の時に死んだので別に成熟してる訳じゃ無いですよ。マセてるだけです」

 死んだ時の年齢が十七。こちらでは成人扱いではあるが、向こうではまだ未成年。しかし、生き方を考えていると云う点ではこっちの世界の方が大人なのは間違いない。

「これは失礼しました。不躾な事を言ってしまいました」

 死んだ時と聞いて、失言だったと使者が頭を下げた。

「頭を上げて下さい。記憶を持っていると言っても所詮前世の事ですから。正直、前世の事を思い出しても実感が湧かないので」

 レオは前世の記憶を思い出した。けれども性格故か思い出しただけで特に感慨は無い。殺してくれた神には怒りを持っているが、今すぐどうにかしようとも思っていない。せいぜい、素振りの的として奴の顔を思い浮かべるだけである。

「そう言われるのならば‥‥……。失礼ついでによろしいですか? 個人的な興味なのですが、異なる世界とはどのような場所なのでしょうか?」

「前世も物を知らない生活をしていたので期待に添えられるか分かりませんけど、それで良いのなら」

「構いません。どうかお聞かせ下さい」

 馬上で使者と会話しながら退屈を紛らわせ、レオは王都を目指して進んでいくのだった。


 ◆


 ハルトゥーン村より中央に近い、あくまで端から見れば王都に近い場所に大きな村がある。規模で言えば街と同等で、田舎にしては発展した場所だ。領主の代官も何度も往復したり、近隣の村長が会合などで集まる場所でもあって発展して来たのだ。

 そんな村のとある館とも言える大きな家で母娘がある会話していた。

 化粧台の前に座って鏡を正面にしているのは波打つようにウェーブのかかった真っ赤な髪を持つ少女だ。鳶色の大きな瞳は可愛らしいと言えるが、同時に意思の強さを表す様にやや釣りあがっている。そんな少女の後ろでは同じ色の髪を持つ母親が櫛で娘の髪を梳いていた。

「母さん、ちょっと丁寧過ぎなんじゃ……」

 念入りに髪の手入れをされている少女はやや困った様に後ろの母に言う。彼女はこの村の名士の娘で名前はラジェルと言う。

「何を言ってるの。日々の手入れが美しさの秘訣なんですよ。貴女ももうすぐ嫁に行くのですから、ちゃんとしないと」

「ま、まだ嫁に行くなんて決まってないでしょう! 向こうの意思だって聞いてもないし……」

 段々と尻込みして来るラジェルの声に母親は櫛を持つ手を止めると、娘の肩に手を置く。

「大丈夫ですよ。お父様がちゃんと向こうの村長と話を進めています。それに、貴女は綺麗なんですから自信を持ちなさい。どんな男でも貴女に迫られたらまともにいられないわ」

「…………彼でも?」

 鏡に写る母が顔を背けたのを見てラジェルは溜息をついた。

 その時、ドアからノックの音が聞こえ、気まずくなった母親が先程の話から逃げるようにドアを開ける。

 姿を見せたのはラジェルの兄だ。

「ラジェル、父さんが呼んでる」

 何故か申し訳なさそうな表情をする兄にラジェルは首を傾げながら母と共に父のいる居間へと向かうのだった。


「えええぇぇぇぇっ!?」

 家中に響く叫び声を上げてラジェルはその場で石のように硬直する。呼ばれて向かってみれば、なんと婚約を目論んでいた相手の事は諦めろと云う話だったからだ。

「ラジェル! あなた、何とかならないんですか?」

 母が後ろに倒れそうになったラジェルの背中を支えつつ、自分の夫に聞く。

「さっきも説明したが、国が直接連れて行ったんだぞ。たかが村の村長にどうにでも出来る訳がないだろう。ラジェル、残念だがレオ君の事は諦めろ」

「で、でも、それは学院で学ぶだけで別に嫁入りの話が消えた訳では無いのでしょう。それならまだチャンスは――」

「無いな。彼はギフト持ちだ。しかもギフト関係なく強い。学院に通っている間に誰も放っておくなどしないだろう」

「そんな…………」

 両親と兄の三人に憐れみの向けられたラジェルはショックのあまり先程から微動だにしていない。これなら気絶した方がマシである。

「こんな事になるなら、早々に婚約だけでもさせておけば。村長だけでなく、本人に最初から言っておけば」

「言うな。そういう話が持ち上がっていれば絶対に割り込んでくる奴がいる。他の村長達を押し退けるのにも時間がかかってしまったからな」

 息子の言葉に答えながら父親は溜息を吐く。

 ラジェルは村出身とは思えない程に美しく育った。親の贔屓目を抜きにしても、下位貴族の娘などよりも美しいと言えた。

 そんな娘の初恋。男親として複雑ながら叶えてやりたいと言う親心があった。それに、相手は農家の男だがその働きっぷりと有能さを彼は評価していた。

 ハルトゥーン村のレオ。本人は知らない事だが、レオは近隣では有名な若者だった。農家の息子が剣を振るのに夢中と聞けば英雄譚に憧れる現実の見えていない血気盛んな若者だとありがちな話だが、レオの場合は実績があった。

 森の中で野生動物や魔物を一人で狩っているのだ。その上で家の畑の手伝いもしている。しかも、村を狙う盗賊を撃退した経験まである。

 労働力、戦闘力という面でレオは村人として破格なのだ。領主との仲が思わしく無い近隣の村々にしては秘密兵器のような扱いを受けていた。

 予定は無いが領主へ反乱する場合に先頭に立ってもらい、そうで無くても開拓隊を率いて貰いたかったと村々は考えていた。

「すまんな、ラジェル。今回ばかりは――」

 もう一度謝る父親の声に反応してか、ラジェルが斜めになった体を起こす。瞳には光が消えており、それを正面から見る事になった父親と兄は思わず後ずさった。

「別にレオが女を作って出て行った訳じゃないのよね。どこか別の所から婚約の話が持ち上がった訳でもなく」

「そ、そうだな。正式に婚約していないのはこっちもそうだが、そういう話で王都に行ったんじゃない」

 娘の問いにビビりながあ答えつつ、冷静な部分がそれは楽観的だと思った。

 王都は都会だ。自慢の娘と同等かそれ以上の美しい娘はいるだろうし、能力は知らないがギフトを持つレオを放置する有力者がいない筈は無い。

「そうですか。なら――追いかけます」

「…………はい?」

 思わず間抜けな声を上げるラジェルの父親は、娘の瞳に先程とは真逆の、髪と同じ色の炎が燃え滾っているのを見るのだった。

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