第14話 「……葬式代、友人の誼みでこっちで出す」


 アリスに吹っ飛ばされた――と言うよりは二人の動きが奇跡的に噛み合った結果――レオは空を飛ぶと云う翼の無い人間にとって夢のような体験をする羽目になった。

「あの馬鹿力がッ。どんな腕力してんだよ!」

 だが、地球同様の重力がある限り夢のような体験は永遠では無い。

 ある程度の高さまで来ると僅かな浮遊感に一瞬包まれ、今度は下方向へと放物線を描きながら落下して行く。宙では上手く姿勢の制御が出来ないまでも、何とか振り返って落下地点を確認するレオ。

 予測されうる落下地点には学院に似つかわしく無い豪華な建物があり、その建物の屋根には天窓があった。

 見覚えの無い建物だったが、一般の男子寮に住むレオが知らないのも無理は無かった。存在は知っていても目にする機会が無いのだ。

 もしその建物が何なのか知っていれば、レオは全力で落下軌道を何としてでも変えていただろう。

 だが、知っていたところで遅い。レオは腕を交差させて顔を庇いながら、加工され外からは中が曇って見える天窓を突き破った。

 その直後、中から外へと流れる湯気と熱気。そして腕の隙間から見える室内の内装にレオは心の中で悲鳴を上げた。

 人間、死の間際には今までの人生の記憶が走馬灯のように一瞬で駆け巡ると言われているが、レオの脳内は似たような状況になっていた。

 建物に突っ込もうと地面に落下しようと、無傷では済まないが受け身を取って命は守れると云う自信がレオにはあった。あったが、社会的死刑に関してはどうしようも無かった。

 湯気と内装からしてそこは風呂場だ。しかも広く豪華だ。魔術学院にこんな施設がある場所は限られており、考えるまでもなく貴族寮だ。そしてここが一番肝心なのだが、残念ながら女子寮だとこちらを見上げる少女の存在で一目瞭然であった。

 湯で濡れたストロベリーブロンドの長い髪が白磁のような女性的な肉体の肌に張り付いており、シャワーから出るお湯を弾いて水が起伏を伝って流れ落ちている。そしてサファイアの瞳が驚愕に染まりながらレオを見上げていた。

 ――死んだ!

 社会的に、だ。いや、物理的にも死ぬ可能性が高い。

 前世の記憶の影響か、レオは女性に対する猥褻行為又はそう誤解された結果肩身が狭くなり社会的に底辺へと落ちるのを知識として理解していた。

 ここは地球と違う異世界だが、ある意味もっとやばい。貴族寮にいると云う事はつまり貴族の娘。メイドがこんな時間にこんな広い風呂を使用している筈もないのだからまず間違いない。

 魔術学院に在籍する貴族令嬢の中には既に婚約者がいれば婚姻前の者もいる。どちらにしても嫁入り前の娘の肌を家族以外の男が見れば問題だ。問答無用で縛り首になってもおかしくない。

 どこの貴族の娘か知らないが、誰であろうとヤバい。もう手遅れだが。

 自分の将来が絶望的になったレオの視界の隅にガラスの破片が入り込む。レオが突き破った天窓のガラスだ。このまま落下すれば鋭く尖った破片が少女に降り注ぐだろう。

 少女は何も見に纏っていない裸身だ。そんな状態でガラスの破片を浴びればただでは済まない。

 以上の事を一瞬で、過程を経る思考よりも結果だけを無意識に掴み取る勘に近い形で察したレオは落ちながら行動に移した。

 踏ん張りの効かない空中で、己の筋力と全身のバネを最大限発揮して飛んでいても離さなかった横に剣を振り回す。無理な動きに体が限界まで捻った布や縄のような嫌な音を立てる。

 生じる剣圧は落下するガラスの破片を周囲に吹き飛ばす。剣圧が起こす風の余波で湯気も水滴も全て風呂の隅へと弾き、少女も勢いに押されて床に尻餅をついた。

 これでガラス片から少女を守れた訳だがレオの自由落下までは止まっておらず、このまま行くと少女の上に落ちる。

「――ぅ、おおおっ!」

 レオは更に自分の体を酷使する。ここまで限界を超えて必死になったのは生まれて初めてかも知れない。

 少女の上に落ちる前に、レオは剣を床に突き立てる。真下には少女がいるので彼女のいない場所を選ばなければならないのだが、贅沢が言える状況でも体勢でも無かった結果、少女の顔の横に剣を刺す事になった。

 幸いにも、女の命と言われる髪を切る事は無かった。妹がいるレオは女の髪に対する意識の高さをよく知っていた。

 レオは突き立てた剣を軸に、体を無理やり回転させる。落下していた人間一人分の体重を右腕だけの筋力で支えるどころか動かすには多大な負担を強いる事になる。体を無理矢理回転させている最中、レオは右腕から極限まで捻れていた縄が千切れるような音を聞いた。

 横から見れば直角に近い角度で方向転換したレオは少女の上では無く、その後ろの壁へと派手にぶつかった。それでも突き刺さった床から抜けた剣は手放さず、全身の痛みに我慢しながら半分が壁に埋まった体を引き抜いて、床に足を付ける。

 シャワーの音をだけが聞こえる中で、レオは制服の上着を脱いで振り返ろうとした少女に放り投げる。少女が裸身だったからだ。

 一応、少女の方を見ないようにしていたレオは浴場に向かって駆ける足音を聞いた。おそらく貴族寮のメイドが騒ぎを聞きつけたのだろう。

 来るのを待ってここで弁明するか、それとも一先ずは逃げてサリアやジョージを頼るか。

 レオが選んだのは後者だった。

「……悪かった」

 上着で前部分が隠れた少女に顔を向けず簡素な謝罪を述べると、レオは自分が突き破った天窓に向けて跳ぶ。

 割れずに窓の縁に残ったガラスを割らないように絶妙な力加減で指を乗せると、体を持ち上げる。その時、浴場のドアが開く音がした。

 直後に背中に感じる殺気に、レオは振り向く事なく慌てて天窓から屋根に登った。すぐ後ろで何かが高速で通り過ぎる気配を感じ、このままでは危険だと慌てて屋根から貴族寮を脱出するのだった。


 ◆


 レオが飛んで行った方向から女子貴族寮と気付いたラジェル達は急いで後を追った。だが、貴族寮近くの手前でレオが並木道の林の中から現れた事で足を止めた。

「レオ!」

 ラジェルがレオの名を呼ぶ。だが、レオは振り向かずに空を見上げた。黄昏の空は人の心に言いようのない空虚感を与える。

「人生終わったかも……」

 レオの言葉に、全員が遅かったと顔を青くした。

「そういう訳で誰か弁護してくれ。いや、本当にマジで頼む。それと全身が痛いから治してくれ。正直、全身が痺れて立ってるのもやっとなんだが」

「それは構わないわよ。というか、公爵令嬢の私に逆らえる貴族なんて滅多にいないから大丈夫よ」

「原因は私にあるからな。サリアだけで事足りるようだが、必要なら手を貸そう」

 公爵令嬢と将軍位の戦乙女は流石に頼りになった。後ろ二人の男子は黙っていて使い物にならないが、事は女子寮で起こったので仕方がない。

「ち、ちょっと、何があったの!? ボロボロじゃない。右腕なんて特に酷いわ!」

 レオの体を〈ヒール〉で治そうと近づいたラジェルが悲鳴のような声を上げる。触っただけでも腫れているのか強い熱を全身が持っているのが分かり、右腕は内出血でもしているのか青い痣が皮膚の殆どを占領していた。

「背中も、こっちは薄くだけど切れてる」

「ああ、さっきの。ギリギリだったか」

「何があったのよ。というか、上着はどうしたの?」

「色々あって向こうに置いてきた。それとこれは自爆みたいなもんだから気にするな」

「気にするわよ! ああ、もう。私の〈ヒール〉だけじゃ無理。医務室に行かないと」

「そうした方がいいだろうな。お前本当に何したの? 全身の筋肉が酷使したからか高温だし、右腕なんて一部の筋肉が千切れてるぞ」

 魔眼でレオの体の状態をチェックしたジョージが口を引きつり気味に教える。

「普通に重傷ね。動くのも辛いのは当然だわ」

「いや、本当に全身が痺れて、立っているのもやっとなんだけど」

「それだけ疲労してれば当然――ちょっと待て。お前、毒受けてるぞ! 背中から全身に回ってる!」

「マジで? 道理で段々と痺れてくる訳だ」

「た、大変! レオでも毒なら死ぬかも知れないわ!」

「ラジェルって、さり気なくレオの事人間扱いしてないよな。それと毒は痺れるだけで今すぐ命がどうこうって物じゃないみたいだから大丈夫だって」

「同郷にこんな扱いされているとはな……。当たり前か」

 周りが何気に酷い事を言っていると、レオの体がふらついて前のめりに倒れる。

 慌てて周囲が支え、地面に倒れるのは何とか止めたがレオは自分の体を動かせないようでいた。

「お前、本当に何なの? タフってレベルじゃないぞ」

「田舎者だから健康優良児なんだよ」

「田舎と言えば何でもそれで済むと思うなよ?」

 仕方なく、ジョージとヨシュアが両側からレオを支えて学院の医務室へと運ぶ事になった。魔術の実験や模擬戦などで生傷が絶えない魔術学院には施設の整った医務室が設置されてある。そこに連れて行けば右腕は勿論、毒を抜く事も出来るだろう。

「私とアリスがナシ付けてくるから。迷惑かけた貴族の名前は?」

 貴族寮に住むサリアと騎士のアリスが取り敢えず寮へと説明に行くようだ。レオの様子から、貴族の誰かに不可抗力ながら迷惑を掛けたのは容易に想像が付く。その弁明をするのに公爵令嬢と戦乙女以上の者は学院にはいないだろう。

「悪い。名前は知らないんだ。髪は桃色で、その……風呂入ってる所を窓突き破って入っちまったんだ」

「浴場に偶然飛び込むとかラノベみたいね。それで髪は桃色、つまりピンク頭ね」

「なんか悪意のある言い方」

 ジョージの突っ込みを無視してサリアはレオの言葉を反芻しながら女子貴族寮の方向に振り返る。レオが飛んだ方角と建物の構造を思い浮かべて浴場がある部屋を頭の中で割り出す。


 ギフトの性質上、サリアは頭の中で立体的な図面を思い浮かべるのに慣れていた。頭の中で模型を浮かべ、正確に測っていた訳ではないがレオが飛んで行った方向と角度からどこに飛び込んだのか予想する。

「…………ん?」

 予想したところで首を傾げる。無表情な顔の眉間に僅かな皺がよる。

「……お前、窓を突き破ったって言ったけど、窓は窓でも、もしかして天窓?」

「ああ、分かりにくかったな。天井に付いた窓からだ」

 レオが答えた途端、サリアの目が遠い異国に売られていく奴隷を見るような目になった。

「な、何かまずい人の所だったの?」

 何がサリアにそんな目をさせるのか誰も分からず、ラジェルが恐る恐る理由を尋ねる。

「お前……お前……天窓付きの浴場のある部屋って一つしかないじゃない。しかもピンク頭って……間違いないわ」

「勿体ぶらずに言えよ。怖いだろ」

「じゃあ言うわ。それって王女よ。クルナ王国第一王女エリザベート殿下」

 あっさりと言い放ったサリアの口から出た名前に、時が止まった。

「…………ラジェル、親父達には、よろしく言っておいてくれ」

「レ、レオーーーーッ!?」

 毒が本格的に回ったのか、言い残したレオから力が抜けてとうとう口も開かなくなった。

「……葬式代、友人の誼みでこっちで出す」

「腕の良い騎士を紹介しよう。痛みも無く一瞬で首を切り落としてくれるぞ」

 既にお通夜が始まってしまっているような空気だった。

「エリザだけなら何とかなる。問題は王や王子ね」

「王女殿下を可愛がってるからな」

「まあ、とにかくエリザに会いましょう。あの子とは友達だからそっちは何とかするわ。お前達はとっととレオを医務室に連れて行きなさい」

「確かにそうだな。死ぬような毒ではないようだが、怪我もしている」

「そうだな。まさかこんな事になるなんて……」

 ジョージとヨシュアが協力してレオを運び、ラジェルがそれに付いて行った。

 その後ろ姿を見送ったサリアは溜息を吐く。隣を見てみればアリスが困ったように頭を掻いていた。

「行きましょうか。取り敢えず向こうの様子を確認しないとどう手を打っていいか分からない」

「そうだな。それと、解毒剤も貰おう。ジョージは命に別状は無いと言ったが、王女殿下の側付きと言えば『毒蜂』だ。どんな毒か分からないぞ」

「毒殺対策に毒使いのメイドを雇うとか……アホよね」

 回って返って来そうな事を言い、サリアもアリスを連れて女子貴族寮に向かうのだった。


「エリザベート様は部屋に閉じ籠っておいでです。申し訳ありませんが今日の処はお引き取りを」

「ですよねー」

 貴族寮に入ってエリザベートの部屋の前まで来た二人だったが、本人に会うことは出来ずドアの前に立つメイドに侵入を阻まれていた。

 黒髪をショートカットにしたメイドの顔は鉄面皮で愛想も無ければ感情も読ませない。

「不可抗力、事故と言える物であった事は理解しました。けれども殿下のショックは大きく、私の方でお伝え致しますので、今日はご遠慮下さい」

 再度繰り返されるメイドの言葉にサリアは首を横に振った。

「城にいた頃は人に着替えさせてた癖に裸見られたぐらいで何を言ってるのかあの生娘は。初夜で失敗するわよ?」

「……サリア様」

 メイドは笑顔でサリアの名を呼んだ。僅かに、ほんの僅かにだが青筋が浮かんでいる。

「まあ、出られないならまた明日の朝にでも来るから伝えておいて」

 そんなメイドの様子を意に返さずサリアはマイペースに伝言を頼む。

「……承りました。お伝えしておきます」

「ああ、そうだ。君が使った毒の解毒剤を渡してくれないか? 例の彼が動けなくなっているんだ」

 帰ろうとする間際、アリスがメイドに言う。だが、メイドは一瞬分からないと云った様子を取った。

「逃げた男子、背中に傷から毒を受けてたのよ。あなたの仕業でしょう、毒蜂」

「え……? 当たってたのですか? 熊でも掠れば数秒で動けなくなる薬で、てっきり避けたと思っていたのですが」

「あの男……それにまた熊か。熊基準て便利ね」

 サリアはここにいないレオに呆れるのだった。

「まあ、そういう訳だから解毒剤をくれ。流石にずっと痺れさせておく訳にもいかない」

「え、ええ、分かりました」

「そうだ。制服の上着を置いていったようなんだけど、返してくれない?」

 ついでにと、アリスの解毒剤を渡すメイドにサリアはレオが残していった上着の返却も頼む。

「上着ですか……」

「なに? 今更証拠にもならないでしょう。何か問題あるの?」

「いえ、それが……姫様が持って行ってしまいまして」

「エリザが?」

 それを聞いてサリアは一瞬だけ目を見開くと、メイドの肩越しに部屋のドアに視線を向ける。まるでそこから何か探り出そうとしているかのようだった。

「まぁ、何にしても明日ね」

 どのみち本人に会わなければ正確な処は分からないと諦めたサリアは翌朝、とんでもない苦しみを味わうのだった。



 

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