第4話

私が相槌を打ちながらそんなことを考えているとは桜子は想像すらしていないだろう。相変わらず、日常生活の中で見つけた楽しかった出来事を楽しそうに喋っている。

「でね。ゴリラがね」

ゴリラというのは、私たちの二年四組の担任で現代文を教えている豊野先生のことだ。身体が大きくて体毛が濃いのでゴリラという酷いあだ名をつけられているが、あだ名のゴリラが示すのは体格だけではなく中身もだ。性格は穏やかで授業も面白く男女問わず人気がある。

「ゴリラじゃなくて豊野先生でしょ」

「永美は固いなあ。いいじゃん。豊野先生本人だって結構気に入ってるんだよ」

「それはそうかもしれないけれど……」

「まあわかったよ。それで豊野先生がね。さっき永美を待っているときにちょっと話したんだけどさ。再来週の期末テストでは数学や物理はどうでもいい。現文だけはおまえらしっかり勉強してくれ。担任の俺が受け持つ教科の成績が悪かったら、教頭先生に怒られちまう。頼むウホ。だって」

「ああ。すごく豊野先生っぽいね。言いそう」

二人で顔を見合わせてクスクス笑う。

「もうすぐ夏休み。でもその前には期末テストかあ」

桜子はテーブルに突っ伏してけだるそうに呟く。確かに桜子はあまり勉強が得意じゃない。そして当然ながら好きでもない。

さすがに全科目赤点みたいな漫画のような成績は取らないけれど、数学と物理に関しては、常に毎回どこまでなら勉強しないでいても赤点ギリギリで踏みとどまれるかというチキンレースを楽しんでいるかのような感じすらする。

まだ二週間あるんだから、少しずつでも復習しておけば貴重な夏休みを補習で一週間も潰されるという悲劇に怯えることもないと思うのだけれど、桜子曰く、理数系の教科書は開くだけで熱が出るのでどうしてもというときにしか自主的に勉強はしないんだそうだ。

「また永美に試験前にノートをコピーさせて貰うよ。読みやすいし解りやすいし、字も綺麗だし」

こうしてテスト前に私のノートをコピーして一夜漬けで乗り切るのも一年生のときから同じ。

「コピーするなら早めにして、早くから勉強すればいいのに」

私がそういうと桜子は怯えたような演技をして頭を抱える。

なんて可愛らしい。

愛くるしい小動物のような動き。

この年頃で、このキャラクターだからこそ許される、ギリギリの可愛らしさ。

「永美様は頭がいいから勉強が苦じゃないんでわしらの苦労なんて解らねえんだ!!ちょっと顔も良くて、身長も高くて、スタイルも良くて、頭が良いくらいでいい気になるな!!一揆を起こしてやるから!!革命だ革命!!」

桜子は頭を抱えたまま顔を上げ、私を睨みながらふざけた口調でそう言う。

そしてその台詞の賛辞の全てが彼女の本心だということも知っている。

客観的に見たら、確かに私は美しくないことはないんだろう。

思春期の若さがプラスされていることを加味しても、私は自分が決して醜くはないことを知っている。異性に好意的な視線を送られることも、きっと同年代の女の子の平均よりは多いんだろう。

勉強も、それほど苦労しなくてもある程度は理解できる。これはただ単に私の適性が勉強に向いていたということで別に偉いことでも何でもないけれど、学生生活を過ごす上では便利だ。

でも私は、自分のそんな均整の取れた身体や、少しだけ回りが良い脳味噌なんてどうでもいい。

目の前に座る桜子のように、こじんまりとした女の子らしい、ただただ可愛らしい子に焦がれる。できることなら桜子になってしまいたい。

それが叶わないのなら、せめて肉体も精神もぴったりと重ね合わさりたい。

交じり合うような濃密さと強さで抱き合って溶け合いたい。

この桜子と融合したい、一つになりたいと思って悶々とするきもちって、男子が抱くいわゆる性欲と同じなんだろうか。

決して清純なものでも、高潔なものでもないとは自覚しているけれど。

肉欲と愛情の境目って、それらを分かつ最も大きなものってなんなんだろう。


喫茶店を出ると、空はすっかり茜色になっていた。

セミの声はあたり一面に高らかに響く。みんな子孫繁栄のために、そしてきっと恋のために必死だ。

夕陽の照り返しはまだ暑く、生温い風がうっすらと汗ばんだ首筋を撫でていく。

そんな夏真っ盛りなのに、夕暮れの色を見ると、何故か秋のことが頭に浮かぶ。

太宰治が、夏はその中に秋の気配を忍ばせているみたいなことを書いていたなあと思い出す。

夕陽を眺めながらしばらく世間話をして、桜子にちゃんと勉強しなさいよと言いその日は分かれた。

こうして好きな人の身近にいながら、決して思いが届かないということを毎日毎日噛み締めて、私の高校生活は過ぎていく。

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リリーローズ @tetsu_akari

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