第3話 逃避

 朝、目が覚めると見慣れない天井が目に飛び込んできた。

 体を起こして、そうかと納得する。

 僕の家から大分離れた場所にある、ビジネスホテルに泊まったことを思い出しながら、隣のベッドに眠る彼女の顔を窺う。


 折本沙耶の叔母である更科絵里子と話をしてから、およそ二〇時間。それまでは色々と大慌てであった。

 更科博士の部屋から余裕を見せて立ち去ったが、内心はかなり震えていた。研究所から最短ルートで車を走らせて家に戻った僕は、リビングにいた沙耶に荷物をまとめるよう告げる。

 だが、彼女は僕がそう指示するのを予測していたかのように、自分の荷物をまとめていた。

 更に、準備を終えた僕に、自宅から離れたホテルの住所を幾つかまとめあげた資料を送信してきたのだ。

 

 その一つが、今僕達の泊まっているホテルだ。

 更科博士から簡単に逃げれるとは思えないが、ある程度の時間稼ぎにはなるだろう。

 しかし、時間を稼いでどうするか。無意味に捕まらないよう逃げるだけでは意味がない。

 すると、僕の考えを読んだかのように、横たわったままの沙耶が口を開く。

 意味ならある。私はあの事件の真相を突き止めたい。

 そう力強く言った。

 コーヒーを口に含みながら、窓から一望した僕は賛同する。

 沙耶の両親の死が事故ではなく、何者かによる意図的なものであったのではという説があるのだ。

 彼女もそれを信じている。そのことを調べている、沙耶の父の友人と会ったことで、僕の中にも同じ思いがある。

 だから、沙耶が更科博士の元に戻されるまでにそれを解明しなくてはならないのだ。その前に、僕はベッドの横にある椅子に腰掛けて、沙耶に話し始めた。

 昨日、博士から聞いたことだ。沙耶とゼウスプログラムについて。

 僕が質問を終えて、少ししてから起き上がった彼女は、全て事実だと言った。「たまに記憶がなくなるの。決まって、眠りから覚めた時。寝る前に一体何があったのか本当に覚えていなくて、とても怖いことがある。始めは何かの病気かと思ったんだけど、もっと深い、何か大変なことなんじゃないのかって思うようになって」

 そう語る彼女の顔は、いつもの明るさというものが感じられず、恐怖を感じているのだと捉えられるものであった。

 沙耶は言った。この事件の真相を解明した後、更科博士の元に行くと。

 しかし、僕は死ににいくようなものだと止めた。

 だが、そこで昨日自分が言った言葉を思い出す。

 ――僕があの子を返す気になったとしても、あの子自身に帰る意志がないなら無理な話でしょう。

 今はその逆、彼女には帰る気がある。事件の真相を解明できればの話だが。

 本人の意志を優先するのが当然のことだろうと考えた僕には、分かったと了承することしかできなかった。


 沙耶は、ゼウスに選ばれた数少ない人間。そのことを僕が知ったからか、もう隠す必要はないと言わんばかりに、普通では考えられない力を発揮した。

 まるで、町全体を監視しているかのように、僕の家や会社付近の様子を話し始める。一体、何故そんなことができるのかと問うと、僕のゼウスに視界の共有を申請してきた。

 他の人間にはない機能を持つという彼女でも、相手に申請を承諾してもらう必要があるのかと思いながら、視界の共有を許可した。

 目の前に映し出されたのは、僕の家と会社、それ以外にも知っている場所がいくつかある。その角度から、街頭カメラによるものだと気付いた。

 彼女は街中のカメラをハッキングしているというのか。驚く間もなく、カメラの映像に目をやる。

 僕の家の前に黒い車が停まっている。沙耶がカメラをズームさせると、乗車している人物が見えた。

 黒いスーツを来た二人組の男。サングラスにより目までは見えなかった。

 博士の部下だと沙耶が語る。言われる前から、そんな気はしていた。

 会社の前にも同じ車が停まっていることから、徹底して僕達が行きそうな場所を押さえている。

 しかし、まだ見つかってはいないようだ。これも沙耶の力によるもの。

 彼女が情報の検索を妨害していると言っている。

 当たり前のように語っているが、普通では考えられないことだ。

 テレビを点けてみたが、特にニュースで報道が為されているということもないので、博士は公にせずに僕達を捕まえるつもりなのだろう。

 沙耶の力が及ぶのも、長い時間は期待できないので、五日という個人的な時間を設定した。

 彼女のことが分かるまでにかかったのと同じ時間。これを長く感じるか、短く感じるかは、変わっているだろう。


 車を走らせて、新宿にある杉村氏の探偵事務所に来た。

 彼には、沙耶とプログラムについてのことは話していない。ある事情があって、博士から逃げているということだけ伝えている。

 彼は、深く聞こうとしなかった。こちらとしても話すつもりもなかったので、都合がいい。彼を巻き込みたくないというのが沙耶の意志だった。

 相変わらず散乱した机ではなく、応接用のデスクで資料を広げて話し合う。

「あれから日は経っていませんが、少しだ新しい情報を手に入れました」

 この前は見なかったファイルを渡された。

 新しく得た情報とは、沙耶の父がいた会社について。

 彼女の父親は会社で重要な案件を持っていた。それが成功すれば、出世は間違いないと言われる程のもの。

 内容は、ある企業の新技術プログラムの開発。

「これって、もしかして――」

 僕の言葉を遮るように杉村氏が一つ頷いてから続けた。

「そうです。ゼウスプログラム。本来はゼウテック社よりも前にそれを開発しようとしていた企業があったのです。しかし、折本の死によって案件は滞り、開発を予定していた取引先の企業は倒産にまで追い込まれました」

 その企業の名は『ソリューション』。杉村氏は、元社員に会って情報を仕入れたと言う。

 次々と判明する事実に僕は一旦頭を休める。

 しかし、沙耶は疲れを感じさせないようにして、杉村氏の新たに纏めた資料を読み漁る。時間的な有余がないことに焦っているのだろう。

 次の目標は、ソリューションに勤めていた人間から話を聞くことだ。

 そのためには、勤めていた職員を調べることから始めなくてはならない。

 早速、沙耶が情報の検索を始める。

 しかし、何年も前に倒産した企業の情報など、そう簡単に見つからない。

 そのため、深層Webにアクセスすることで、引き続き情報の検索を行うと言った。

 深層Webとは、通常の検索エンジンで収集することのできない情報まで手に入れることの出来る場所。

 そこに、ソリューションの情報があるとは限らない。

 しかし、普通に調べるより、可能性は高くなるだろう。

 沙耶が検索を行っている間、僕は杉村氏が会ったという人物について聞いてみた。その人物は、今では別の企業に就職しているということ。

 だが、僕はその人物の名を知っていたことから、彼の言葉に耳を疑った。

「話を聞かせてくれたのは、テクニカルイノベーション技術開発部門第二研究室室長、斎川雪乃。彼女は、ソリューション社でゼウスプログラムとされるものの開発を担当していた方です」



 翌日の午後。沙耶を杉村氏に預けて、喫茶店へと赴いていた。

 ある人物と会うため。

 その人は、僕が着いてからしばらくして扉を開け、入ってきた。

「急に呼び出してどうしたの、伊織君」

「少しお聞きしたいことがあるので、お忙しい所申し訳ないです。雪乃さん」

 彼女は、別に問題ないと答えて、席に着いた。

 雪乃さんも僕に聞きたいことがあるというので、先に用件を述べてもらうことにした。

 注文したコーヒーが机に置かれ、それを一口だけ啜った彼女が話を始める。

「昨日と今日、会社を無断で欠勤したそうね。原因はあの子かしら?」

 沙耶のことを言っているのはすぐに分かる。

 その答えは少し後回しにさせてほしい、と頼む。続きを話し始めた。

「あなたがゼウテック社の更科博士と会ったという話、企業内では広まりつつあるわよ。一般人に報道する程の内容ではないから、企業内だけでね。あなたが、あの人の怒りに触れるようなことをしたという噂が広まっている。それは本当なの?」

「会社同士ではもう、あの事は広まってる訳ですね。本当ですよ。でも、あなた達は真相を知らない方がいい。知ればきっと、無関係では済まなくなる」

 僕の言葉に、雪乃さんは机を軽く叩いた。

 彼女のそんな行動は初めて見たので、驚愕した僕は顔を真っ直ぐに見据えた。無表情のまま、机に置いた手でコーヒーカップを手に取った雪乃さんは、それをそのまま口元へと運ぶ。

 再び、カップを置いてから口を開いた。

「伊織君、私はあなたの何? 悩みや相談事は共有し合う程の仲ではないと言うの?」

 また、女性の心理という奴かと思った。すると、次の瞬間であった。

「女性だからじゃない。私の意志、思考よ!」

 先程よりもはっきりと怒りを感じ取れる程に机を叩いて、立ち上がった彼女は半ば叫んでいた。冷静沈着、常にクールなイメージを持つ雪乃さんしか知らなかった僕は、ただ呆然とするしかなかった。

 昼下がりなので、客足はそこそこ。周囲の視線が痛いことに気付いたのか、彼女は大きく息を吐いて、座り直した。

 片手を額に当てて、目を覆うようにした彼女は疲れているように見えた。

 本心から謝罪の言葉を述べた僕に対し、大声を出したことを雪乃さんが、疲労を感じさせる声で謝罪する。

 少しの沈黙の後、僕は彼女に全てを話すことを決意した。

 その前に、先程僕の考えたことに関して、彼女が怒鳴ったことを問おうと思ったが、とても聞ける雰囲気ではなかったので、またの機会にする。

 沙耶と更科博士の関係、ゼウスプログラムと沙耶が織り成す真価、そして沙耶の両親の事件を追っていること。

 全てを語った。周囲に、僕達を追っていると思われる人物がいるのを警戒してて、出来る限り小声で話した。

 彼女は、疲労から回復したのか、途中からいつもの調子でいた。

「じゃあ、あなたは沙耶ちゃんのご両親が亡くなった真相を突き止めれば、彼女を更科博士に返すのね」

 ええ、と頷く。目を瞑って、何かを考えていた雪乃さんだが、やがてゆっくりと目を開いた。

 僕達に協力するため、過去のことを話してくれると言う彼女に、僕は頭を下げる。

「私は昔、ソリューションで技術開発、プログラムの開発を担当していた。ただ、それ専門の企業という訳ではなかったの。様々な分野に手を出していたけれど、それが災いしたのか、独自の強みを持った製品というものがなかった。だから、あのプログラムに携わることは、会社の全てをかけた案件だったの。取引先は、ゼウテック社の技術部門担当であった折本いさみ。沙耶ちゃんのお父さんね」

 そこからはゼウスを使っての通信を通して会話が行われた。長い話になるからこっちの方がお互いに楽だという理由で。

 ――でも、突然の出来事だった。会社に、折本夫妻が交通事故により死亡したという連絡が入ったの。それにより、私達の会社が技術提携を結ぶという話しはなくなった。けれど、おかしな話しなのよ。誰かが引き継ぎでもすれば、案件がなくなることはなかった。誰かによる陰謀で、会社は倒産にまで追い込まれたと思っていた。

 ――僕も、雪乃さんが先日話しをした人物から聞いた時、おかしいと思いました。そんなに簡単にも重大な案件を切り捨てるとは思いませんでしたし。

 ――やっぱりそう思うでしょう。でもね、倒産した直後に何となく理由になりそうなことは分かったの。

 僕は、それが何なのか、脳内で少し迫るように問う。

 ――私達が請け負うはずだった技術提携を別の会社が行っていたの。そして、そこのトップが私達に声をかけた。雇うために。

 まさか、と声を出してしまった。

 雪乃さんも、通信を切断して、声を出して言った。

「テクニカルイノベーション。今私達のいる会社が、本来ソリューションの行うはずであった、ゼウテック社との技術提携を行っている。ソリューション社の社員達を吸収してね」

 ゼウテック社に引き続き、僕の勤め先までもが、疑惑の種となってしまった。彼女の話しの通りならば、沙耶の両親の死によってソリューション社は倒産に追い込まれ、社員達は新たに技術提携を結んだテクニカルイノベーション社が吸収したということになる。

 沙耶の両親の死が偶然ではないと裏付けるのは、簡単にも別の企業が案件を引き受けることが出来たこと。

 ゼウテック社、テクニカルイノベーション社のどちらかに犯人はいるはず。

 大きな進展を感じた僕は、このことを沙耶と杉村氏にいち早く報告しに行こうと席を立った。

 すると、手を掴まれる感触があった。雪乃さんが僕の手を掴み、真っ直ぐにこちらを見据えて言う。これ以上は関わらない方がいい。恐らく、調べてはならないことだから。と忠告を囁いた。

 しかし、僕はその手を軽く振りほどく。

「どちらにしても調べなくてはなりません。ゼウテック社とテクニカルイノベーションの間に何があるのかを」

 前までの僕ならば、こんな面倒ごとに自分から飛び込んでいくことはしなかっただろう。

 そんな僕を知っていた彼女は、今の行動を見てか、驚いたと言った風な表情で僕を見つめていた。雪乃さんを置いて一人、喫茶店を足早に出て行った。



 杉村氏の探偵事務所に戻った僕は、雪乃さんからの情報を早速二人に話す。

「これだと、その二社の重役クラスの人間を調べるのが早いかもしれない」

 杉村氏が言う。沙耶は、元ソリューション社の人間で、現在テクニカルイノベーションで働いている社員のリストを一瞬でまとめあげて、僕へと送信してきた。やはり、処理速度も桁違いだと思いながら、僕はその中でも重役となっている人物を探す。

 何人かは知っている名前、顔も見たことのある者もいた。一応僕も役職者なので、顔を出すことはあるし、覚えている者も当然何人かはいる。

 話を聞けそうな人物を考えたが、ゼウテック社とテクニカルイノベーションの社員には、僕が更科博士に追われているという情報が出回っていると雪乃さんは言っていた。

 そう簡単に面会の約束アポイントメントを取れるとは思えなかった。

 何か他の方法を考えるしかない。そして、僕はまた一人の人物を思い浮かべた。

 早速、その人にメッセージを送る。恐らく、通信越しにでも様々な怒りの言葉を買うであろうが、気にしてはいられない。

 送信して一〇分もしない内に返信が来た。

 この後、すぐに会えるとのこと。雪乃さんと会った後だが、また出かけると二人に伝える。

 すると、沙耶が僕の背後に立つ。気を付けて、の一言だけで僕を見送った。


 もう夕方なので、今度はバーに赴いた。少し酒の力も借りれればという思いも少しあったのだ。カウンターに着いた僕は、連れがもう一人来ることマスターに告げて、水だけを一杯もらった。

 メッセージの返信と同じように一〇分と経たないで連絡を取った人物が来た。そして、僕の隣に座ったその人は、

「すみません、マスター。ギムレットを」

 僕の方を見ることもなく、度数の高いそのカクテルを注文オーダーした。

 カクテルにも、花言葉のような意味がある。

 ギムレットは遠い人を想う、長いお別れだったか。

 まさか、来てはくれたが、これが最後の別れだと言うことなのだろうか。

 目の前に出されたそのカクテルを一気に飲み干した。

 僕の方を見た彼女は一言だけ言ったのである。

「面倒なことに首を突っ込んでいるようですね」

 それに対して僕は、

「とりあえず、落ち着いて話を聞いてほしい。マスター、僕にはアイスブレイカーを」

 一つ酒を注文した。高ぶる心を静めて、今の心中にピッタリのを選んだ。

 僕の秘書のような存在である、秋江瑞穂君。僕の方が年は下だが、役職上彼女の上司になっている。

 不真面目な僕の仕事を片付けてくれるのが彼女。いつもストレスを溜めさせていたことを、沙耶と出会い、真面目に仕事に取り組む僕を見た彼女の機嫌の良さから感じ取ったので、申し訳ないと思う。

 今回も突然会社を休み、その理由が提携企業の重役に無礼を働いたからだという情報は、彼女も知っているだろう。

 だから、また僕の仕事を引き受けているのは彼女ということになる。

 当然、怒りを買うだろうと思っていた。しかし、意外にも彼女は平気な様子であった。

 彼女が言うに、僕が何の理由もなしに、自分の立場が悪くなるようなことをする人間には見えないらしい。

 褒められているとも思い難いが、とにかく彼女がそう思ってくれているならば、これからの話も切り出し易くなった。

 沙耶の事は言わないようにして、何とか彼女に頼み事を聞いてくれるように言う。不信の眼差しを受けながらも、僕は彼女にあることを頼む。

 すると、大きく息を吐いた彼女は、期待せずにいてくれるなら、出来る限りやってみると、了承してくれた。

 安心した僕は、新しく別の酒を注文した。すると、それに応えるかのように彼女も注文を為す。

 お互いに酔いを少し実感してきた頃、何気なく今の会社に入った理由を彼女に質問した。だが、彼女は同じ質問を僕に返してくる。

 先に話せということなのだろうか、と思った僕は、自分が入社した理由を話し始めた。



 およそ七年前。大学の二回生に上がろうかという頃合いだった。

 その年のことは、印象的な事件があったので覚えている。

 大学内でゼウスプログラムを使ったウイルスが流行り始めたのだ。ウイルスにかかった者の症状としては、使用者自身でも気が付かない内にゼウスプログラムを操作されているというもの。

 実装されてから三年目ぐらいではあったが、このプログラムを頭に埋め込んだ人間は多かった。勿論、大学内の学生でも利用者は多かった。

 そのため、様々な問題が報告され始めるようになった。

 学生を通じて、様々な人間にも同じような症状が広まり、本格的なニュースとして報道され始めるようになった頃、僕は自分もいつの間にか感染していて、勝手に操作されているのではないだろうかという不安にかられていたところだ。

 そんな僕と対照的な友人が二人いた。

「ウイルスにかかる心配なんてないさ」

 言ったのは、及川学おいかわ がく。理系に強く、数学に関しては、学科内で常にトップに立ち続けていた。

「分からないだろう。でも、日本の警察は優秀だ。すぐに捕まえてくれるさ」

 もう一つの声の主は、相川洋介あいかわ ようすけという、学とは真逆で文系科目を得意とする友人であった。

 いつも対照的だが、二人は仲が良く。僕もその中に入っていた。

 洋介は父親が刑事なこともあってか、自ら同じ仕事に就くことを目標としていた。

 学は僕と同じく考えている途中であった気がする。

 そんな二人といると、確かにウイルスの事などあまり気にならなくなった。

 しかし、しばらくしてからの事であった。

 学が逮捕されたのは。理由は、ゼウスプログラム利用者に害を為すコンピュータウイルスの作成。

 犯人は僕の最も身近にいる人物だった。

 恐らく彼が余裕を見せていたのは、自分がそれを作り出した親であったから。衝撃を受けたのは僕だけではない、洋介もだった。

 彼は僕以上の驚きを持っていただろう。そして、学に対する怒りまでも。

 パトカーへと連行される学の顔は、少し笑っていた。

 今にも彼に飛びかかりそうであった洋介を、現場にいた警官と僕とで必死に抑えることしかできなかった。

 それから、洋介は今まで以上に刑事への道を突き進む様子であった。

 この頃、僕もなりたいものがようやく決まった。

 学程の腕はないが、プログラムを活かせる仕事に就きたいという思いが僕の中に芽生えた。

 だから、彼が逮捕されてからの残りの学生生活は、勉強が主であったし、洋介と接することも少なくなった。

 そして僕は、テクニカルイノベーションというゼウスプログラムの開発会社と提携している会社に入ることを決めたのだ。



 少し長くなったが、これがあの会社に入った理由だ。ただ、入ったものの、わずか一年程しか望んでいた仕事をすることはなく、二年目からずっと部長という役職に就くことになった。

 自覚していなかったが、仕事に対するやる気を感じられなかったのもそれが影響していたのだろうと今更ながら思う。

 何も言わずに聞いていた彼女は、そのままグラスに残っていた酒を煽る。

「友達がいたんですね」

 そして、一言だけ感想のようなものを言った。

 苦笑した僕も、グラスの酒を飲み干す。

 次は君の番だと促すと、酒を飲んだにしては赤い顔をして何やら言い倦ねていた。

 しかし、諦めたように真っ直ぐと目の前を見据えたまま口を開く。

「前の会社で上司に腹が立ったので、殴ったらクビになりました」

 呆然とする僕と、相変わらずこちらを向こうとしない彼女の間に沈黙が流れた。しかし、次の瞬間には僕は笑っていた。

 溜め息を吐いた彼女は、マスターに水をもらい。少し口に含んだ。

 何とも彼女らしく、実に豪快。

 それにしても、僕はよく殴られなかったと声に出すと、前の会社の上司とは違ったタイプだからという理由だそうだ。

 助かったと思っていいのか、何とも言えない気分であった。

 しかし、何でまたクビになって来たのが今の会社だったのか。その辺りを聞いてみた。

「上司を殴ったことで親に泣かれました。もう結婚しておとなしくしなさい、と」

 それが嫌だったのだろう。男だから、女だからこうあれという決めつけが彼女は大嫌いなのだ。

 いや、彼女だけに限ったことではないだろうが。

 反発の意味も込めての入社だったようだ。

 上司を殴る女性を、僕のような役職者の秘書代わりにするなんて、会社も何を考えているのか。だが、結果的に彼女がいてくれて良かったと思っているので、会社の判断は正しかったということか。

 店を出て、杉村氏に迎えに来てもらった。

 彼女は電車を使っているというので、駅で下ろしてもらうことになった。

 去り際の彼女に一言。今日頼んだことと、それの礼を述べた。

 帰りの車で杉村氏に酔っているのかと問われた僕は、こう答えた。

「全然、むしろ飲み足りないくらい」

 開けた窓から吹いてくる夜風に当たりながら、僕はいつのまにか眠りについていた。



 翌日、秋江君からの連絡が入った。明日、上司の一人と会う約束を漕ぎ着けたというもの。それに対する、感謝しきれない思いをメッセージで返信し、僕はまた別の人物に通信を入れた。

「久しぶり。突然で悪いんだけど会えないかな? 今日、いや明日の午前中でもいいんだ。それで悪いんだけど、彼も一緒がいいんだ」

 通信を入れている最中の僕の様子を見て、沙耶は誰と会うのか聞いてきた。

 彼女なら誰と通信していたのかわかりそうなものだと思っていたが、あえて読まないようにしていたのだろう。

 秘密だ、と教えないようにした。

 今日の夜にまた出かけると言った僕に対して、少し頬を膨らませた沙耶。

 そういうところは、まだまだ子どもだなと思っていると、杉村氏が沙耶のために僕が動いているのだとフォローしてくれた。

 半分は沙耶のため。もう半分は自分のためでもあったのだが。

 せめて、どこに行くのかだけは教えてほしいと言われたので、それぐらいならと答えた。

「警視庁」


 時刻は夜の九時前。警視庁の扉の前に立つ警官に止められた僕。

 当然、一般人の立ち入りは禁止されている。

 中で知り合いが待っていると一応言ってみたが、やはり通してはもらえそうにない。

 だが、そこで僕が本当に待ち合わせをしていたことを証明してくれる人物が姿を見せた。

「そいつは俺の客人だ。通して構わん」

 懐かしい。あの頃を思い出す口調だ。

 警官二人は、その人物に敬礼した後、僕にも頭を下げた。

 僕も同じように頭を下げて礼を述べてから、その人の元に向かって歩いていく。

 目の前へ立つと手を差し出されたので、それを握り返した。

「久しぶりだな、伊織」

「相変わらずで良かったよ、洋介」

 相川洋介と数年振りの再開を果たした。

 彼の階級は『警視』。順調に出世しているなと、久々の再会に喜んでいる彼を見ながら思う。

 しばらくして、ある部屋の前で彼の顔から笑みが消えた。

「本当にいいのか?」

 確認するように僕の方を振り返った彼の顔は、真剣そのものであった。

「大丈夫だよ。迷惑をかけてごめん」

 洋介は短くを息を吐いて、よし、と少し意気込んで扉を開けた。

 机と椅子が置かれたその空間は狭い個室であった。

 電気はしっかりと点いている。

 机を間に、向かい合って置かれている椅子の片方に座る人物を見て、僕は声をかける。

「久しぶりだね、学」

 俯いていたその人物は、もう一人の友人。及川学であった。


 洋介は壁によりかかり、僕は椅子へと着いた。

 昔に比べて、少しだけ髪の伸びた学。

 無表情であったが、僕を見て彼は笑顔を浮かべた。

「ああ、伊織。久しぶりだね」

 少しやつれているようにも見える学の顔。刑務所での生活はやはり厳しいのだろう。彼なら尚更だと僕は思う。

 洋介に頼んだのは、学との面会であった。こんなことが上に知られれば、洋介の立場が一瞬にして崩れることは僕にも分かった。

 彼は、しばらく返事をしなかったが、やがて了承してくれたのだ。

 心から礼を述べたのは、昨日の秋江君の時と同じ。

 時間はそう長くないと、時計に目をやった洋介に言われ、僕は早速本題に入る。

 学に会って、聞きたいことは二つ。

 一つ目は、何故ウイルスの作成を行ったのか。

 これに対して彼は、曖昧な返事をしながら上を見る。

 そこに何かがあるように。恐らく、ゼウスの視界ディスプレイだ。まさか、『言い訳』とでも検索しているのだろうかと思う。少しして、彼が口を開いた。「自分の腕を誰かに見てもらいたかったからかな。今も僕やほとんどの人間の頭の中に埋め込まれているゼウスプログラムを脅かすウイルスを、作ることができるということを見せたかったのかも」

 その言い方から、自分でも何故行ったのかは定かではないと言っている風に受け取れる。強いて言うならば、ということなのだろう。

「確かに君は凄かったよ。学校内だけじゃなくて、色々な人にウイルスの恐ろしさを体感させたんだからね」

 僕の言葉に鼻で笑う学。それには気にせず、二つ目に聞きたかったことを質問する。

 ゼウスプログラムを個人の脳から完全に消し去るにはどうすればいいか。今の所、行われた試しがない。だから、学者達は最悪死に至ることになるのではないかと、推測している。

 もっとも、こんなに便利に扱うことのできるものを、手放したいと思う人は少ないだろう。それによって、実験のしようもないのだ。

 これに関しては、産みの親である更科博士に聞くしかできないと思っていた。当然彼女には会えないのだから、他に知識を貸してくれそうな人物を探すしかなかったのだ。

 雪乃さんに聞く事も考えたが、彼女と今会うことは少し避けたい雰囲気であった。そこで、秋江君に話している最中に思い出した、学の元を訪ねたのである。彼なら、ゼウスプログラムを個人の脳から消す方法に対して助言をくれるだろう。

 これに関しては、流石の彼も考え込んでいたようで、返答に時間がかかった。彼の出した結論は、

「個人から消す事は、多分できない」

 というものであった。予想外の答え、しかしどこかで予想していたのかもしれない答えだ。僕は、特に落胆することもなく納得した。

 ただ、と彼が続けるので、僕は再度耳を傾ける。

「個人からは消せないけれど、消す方法なら多分ある。ゼウスのメインサーバーを潰す事。そうすれば、僕達の脳に入っているプログラムは機能しなくなると思う」

 随分と無茶なことを言う。しかし、学らしいとも思えた。

 沙耶の中から安全にゼウスプログラムを消滅させることが今回の目的なので、そんなことをする必要はない。用事を終えたので、帰ろうと思った時だ。彼の昔作ったウイルスについて。

「学、君が作ったウイルスだけど、今でもまだ誰かが模倣して広めているみたいだよ。悪い事だけれど、ここまで使われるものを開発した君は、やっぱり凄いんじゃないかと思うよ」

 言い残して、洋介に連れられて部屋を出た。


 警視庁の入り口まで洋介がついてきてくれた。もう夜も遅いのだが、彼はまだ仕事があるために残るらしい。今日のことに関して、しっかりと礼を述べて帰ろうとした僕に声がかかる。洋介が微笑しながら言った。

「伊織、何だかお前、変わったな」

 変わった、と聞き返す。

「前は、何がやりたいとか、目標がなかったように見えてたが、今のお前は何かのために必死なのが伝わった気がしてな。じゃないと、今日みたいな無茶なことは言ってこないだろうし」

 自覚はしていないが、周りから見れば変わっているのだろうか。何かのために必死、あながち間違ってはいない。沙耶のことが主だろう。

「まあ、変わったのは悪い事じゃない。むしろ、良い方向へと変わっているように俺は思うよ。また何かあったら連絡くれ」

 後ろ手に手を振りながら戻っていく彼に、僕も同じように手を振り返す。

 車に戻った所で、思った。

 今日ここに来たのは、久々に二人の顔を見たかったからなのだろうと。何故、ウイルスを作ったのか、ゼウスプログラムを消す方法についても聞きたい事は変わりなかったが、それは話をするための材料に過ぎなかったのだ。

 いつか、学も自由の身となった時に、また会えればと思う。



 学との会話で、ゼウスプログラムを安全に消すという方法が

 ただ、それだけではない。久々に懐かしい二人にあったからか、僕は気持ちが少しだけ軽くなった気でいた。

 意識はしていなかったが、ずっと焦りや不安を感じていたと今になって思う。その証拠に、今日は気分がいいのだ。一晩しっかり寝れたこともプラスして。杉村氏の事務所からホテル戻った晩、僕はベッドに腰掛け、彼女はシャワーを浴びるからと浴室へと入っていった。

 覚えているのはそこまで。いつの間にか、横になって眠っていたのである。だから、起きた時も昨日の格好のまま、しかし毛布だけはかけてあるといった状態で目が覚めた。

 朝食はホテルではなく、外で摂ろうということになったので、僕は車を走らせる。車内で、彼女が話し始めた。

 事件の真相には確実に近づいていると。何故、そう思うのかと、の彼女に聞くのは野暮であった。それでも、そんなことが言えるという事は、何かしら知っているからだろう。

 だが、教えてはくれなそうだと思ったので、聞かなかった。

 次に彼女が口にしたのは、昨日、一昨日と僕が会いにいった人物のこと。

 始めに雪乃さんのこと。彼女との会話を、沙耶はあの日帰ってきた僕の頭から読み取ったのだという。

 そして、次に秋江君。あの人との関係については既に分かっていると言った感じで話していた。会社の部下であり、それ以上でもそれ以下でもない関係。今回、僕のために協力してくれた人物。

 学と洋介については、大学時代の友人。昨日が数年振りの再会になることまで、彼女の知っていた。

 更科博士が、沙耶のゼウスプログラムが危険だという理由に少し賛成な気持ちが芽生える。自分の考えや、心の内が読まれてしまうというのは、実は一番恐ろしい事なのかもしれない。

 一通り、僕の会った人物について語った彼女は、それが分かった所で何をする訳でもないと付け加える。

 ただ、自分のために動いている僕のことが心配で、だから誰と会っていたのかを記憶から探らせてもらったとも言った。

 彼女なりに気を遣っているのだろうと思うと、少女としての可愛らしさというのが感じ取れた。


 朝食を終えた僕は、その日の夜に、秋江君の協力によって会ってくれる事となった人物に話す事を考えていた。

 その時、ふと気になって沙耶に目やった。帰りの車の助手席でも、ホテルのベッドの上でも、目を閉じたままで、僕が声をかけたりしないかぎり動かない。

「何かあったのかい?」

 彼女が座るベッドの横に椅子を置いて、座った。

 問いに対して彼女は、首を横に振る。思い当たりそうなことを幾つか質問したが、全て首を横に振られた。

 心配しなくても大丈夫。それが、沙耶の返答。今日の様子を見ていると、彼女を一人にしておくのはあまり良くないように思える。

 そうでなくても、彼女と僕は追われている身。単独での行動は避けた方がいいだろう。

 目的の人物に会いに行く途中で彼女を杉村氏の元に預けていくことを考えたが、彼は別件で事務所にはいないと言っていたのを思い出す。

 雪乃さんも脳裏に浮かんだが、あれ以降連絡は一切取っていない。彼女なら沙耶を更科博士に渡すことはないかもしれないが、やはり不安は拭えない。

 そこで、僕はあることを思い出した。もしかするとだが、一つだけ彼女を預かってくれる場所があるかもしれないということに。


 車を走らせ、僕は会社の次に通っていたであろう場所へ向かう。

 道中、沙耶の意識は通常に戻っていたようで、彼女自身から僕に話しかけてくるようになっていた。

「あのゲームの続き、いつ頃できそう?」

 それは、僕が仕事の合間に作っていたあのパズルゲーム。雪乃さんと一緒に問題を解いていたのを覚えている。

「君が相手だと、どんな問題も簡単に化してしまいそうだからね。頑張って考えている最中だよ」

 本当のことを言うと時間がないために作ることができていないだけだが、それだけでは理由としては弱い気がしてしまったのか、自然と口から出ていた。

 すると、横目に彼女が薄い笑みを浮かべているのに気付く。

「閏さんの問題、面白かったよ。何か勘違いしているかもしれないから、教えておくね。私は、この世に既に存在を許されたもの。教科書に書いてある公式や問題なんかの答えはすぐに分かるんだ。でも、閏さんが個人的に作っているそれは、まだこの世に正式な認証を為されていない。だから、私は自分で考えて解くしかない」

 数少ないの楽しみの一つだったと、彼女は付け足した。

 その言葉に、僕は謝罪する。彼女のことを何でも知っている万能な人間であると勘違いしていたことに対してと、それについて皮肉な言い方をしたことを。

 笑って許してくれた沙耶。あのゲームを完成させると約束して、僕は自動運転の車の中で、作成を開始した。

 沙耶は、そんな僕の心の内を見ないようにしてか、窓の流れていく風景に目を向けていた。


 会社の次によく行くであろう場所。それは、雪乃さんとよく待ち合わせするあの居酒屋。ここにいる主人の娘のことを思い出したのだ。

 店に入ると、今日はあまりお客がいないようだった。好都合である。僕の姿を見るや、挨拶の言葉を途中で止め、名前を呼びながら僕の元に寄って来た少女。

「閏さん、お久しぶりです。今日は、斎川さんも来られるんですか?」

 いつもされる質問。随分と久しぶりに感じる。現にここ最近は沙耶のこともあって来ていなかった。

 吉野奏、この居酒屋を経営する主人の娘。彼女と少し話した事があり、その際に話した内容を思い出した。

「奏ちゃん、理由は聞かずに、預かってほしい子がいるんだ」

 僕の言葉に理解の追いついていないであろう表情を見せる彼女。言うよりも会わせた方が早いと思った僕は、横へと退く。

 背後にいた沙耶と奏の目があった。奏は沙耶ちゃん、と口にする。対して、久しぶりだね、と返す沙耶。

 吉野奏も、沙耶と同じ計堂大学付属高等学校の生徒であったことを思い出したのだ。彼女なら、沙耶のことを預かってくれるかもしれない。

 何があったのかを問いながら、奏は沙耶の手を取る。言い淀んでいた沙耶を助けるようにして僕は奏に声をかける。

「理由はちょっと複雑でね。彼女、僕の遠い親戚で、今は家にいることができない状況だからって保護してたんだ。学校にも行けない程に危険な状態だったんだ。でも、僕はこれから一人で出かけないといけないから、君にこの子を預かってほしい」

 突然押し掛けて、理由も聞かずに頼みを聞いてくれと、無茶なことを話している。非常識なことは充分に承知しているが、手段を選ぶ事はできない。無理であった場合は、また別の手を考えるだけだ。

 すると、奏は腕組みをして少し考えてみせた後、とにかく中で話そうと提案した。奥の座敷に通された僕達は、彼女と対面に座る。

「理由は、どうしても教えてくれないの?」

 そう訊かれて、沙耶は相変わらず話そうとしなかった。僕もあまり変わったようなものでなかったが。

 だが、彼女は再度腕を組んで考える様子を見せた後、少し待つように言って座敷から出た。戻ってきた彼女は、再度僕達の対面に座ると、許可が下りたとだけ言った。

「お母さんに訊いたら、別に泊まっても問題ないって。お父さんも、閏さんはお得意様だからって言ってたし」

 つまり、沙耶を預かってくれることだ。僕は深く頭を下げて礼を述べる。沙耶も続いて同じように頭を下げた。

 動揺する奏の声が聞こえたので、僕達は頭を上げる。

 恐らく、照れているであろう彼女は、恥ずかしそうに『困った時はお互い様』だと述べた。

 奏が沙耶を部屋に連れて行く際、何やら楽しそうに会話しながら歩いていった。店を出ようとした僕。そこで、背後から呼び止められた。

 奏の両親が並んで立っている。僕はすぐに二人の元へ歩み寄り、礼を述べた。すると、父親の方が口を開く。

「あの子、閏さんの親戚の子ではないんでしょう?」

 その言葉に、僕は動揺を隠しきれなかった。母親の方も同じ考えだったようで、僕のことを真っ直ぐに見据える。

「すみません、ここでは全てをお話することはできません。ただ、全てが片付いた後、必ず今日のことについてお話します」

 奏の両親は、柔らかな笑みを浮かべて頷いた。全てが終わってから、話に来てほしいとだけ言って。僕は、込み上げてくる何かを抑えながら、二人に再度頭を下げて車へと戻った。

 目的の場所へと、急ぐために。



 沙耶を置いてから約三〇分程で、目的地に着いた。普段なら絶対に行く事がないであろう華美な装飾の施された料理店。入ってすぐ、スタッフに声をかけられた。待ち合わせしていることを告げると、別の声がかかる。

「お待ちしておりました。閏部長」

 秋江君であった。いつものようにスーツに身を包んだ彼女が奥から出てくる。スタッフに、知り合いだと説明して、僕を案内し始めた。

 奥の座敷に、彼女が呼び出してくれた人物が待つと言う。彼女は歩みを止め、こちらを振り返る。この中に僕の出した条件に合致した人物がいると言う。

 僕が襖に手をかけると同時に、小声で呼ばれた。彼女の方を向くと、いつもと変わりない真剣な眼差しであった。

「全てが終わった後でも構いません。あなたが何のために動いていたのかを、教えてください。それが、今回の協力による報酬ということで」

 短く、ああ、とだけ答えて襖をゆっくりと開けた。


 重役との接待で使われるかのような座敷に一人座って酒を飲む男がいた。

「私を呼んだのは君だったのか、閏君」

 重く低い声の主は、五〇代ぐらいで、僕の上司。 、それがこの男の名だ。仕事に関しては鬼のような男で、部下達からは恐れられている。しかし、間違ったことはしていないため、同時に信頼もされているのだ。

「君がゼウテック社の更科博士と何やら一悶着あったというのを耳にした。こんな所に来て大丈夫なのかね。私まで呼び出して」

「問題ありません。今日は吉城本部長にお訊きしたい事がありまして、御足労願いしました。どうかお許しを」

 僕が話し終えた所で、彼は鼻で笑う。堅苦しいのは終わりにして、と言った本部長は、僕が訊きたいといったことの内容について求めた。

 本部長が、元はソリューションという会社にいた事、そして今はテクニカルイノベーションでその地位に就いている事について僕は話した。勿論、ここでも沙耶のことは話さないようにして。

 彼は僕が話し終えて少しの間、何も言葉を話さなかった。膳の上に乗っている酒の入った容器を持ち上げて、僕の背後に座していた秋江君に声をかけた。

「すまないが、新しい酒を頼んできてくれないか? ゆっくりでいい」

 承知しました、という彼女の返答の後、襖の開閉する音が静かに聞こえる。それと同時に大きく溜め息を吐いた本部長は、一体何に首を突っ込んでいるのかと言った。

「お答えできません。ですが、本部長が私の質問に答えてくだされば、事態は進展します」

 真剣な眼差しで言う僕を見てか、彼は話し始める。

「確かに、私はソリューション社でも今と同じ立場に就いていた。ただ、ある出来事のせいで、会社は倒産に追い込まれたがね」

 ある出来事という風に隠していたが、それが沙耶の両親の死だということは分かっていた。彼の話の続きを何も言わずに聞く。

「ある事とは、社員の死だ。折本という重大な仕事を任された者がいたのだが、不慮の事故でその命を絶ってしまった。それにより、私達とゼウテック社の間にあったプロジェクトは消えてしまった。だが、そこにゼウテック社はある話を持ちかけてきた。私達重役と一部の社員と向こうの会社の何人かで新たな企業を設立しろと」

 まさか、とそこで僕は自然と言葉が漏れていた。それに答えるようにして本部長は頷く。

「今のテクニカルイノベーションの重役は、全てソリューション社で上にいた者とゼウテック社の一部の人間だ。あの会社はソリューション社の倒産により産まれた新たな企業という事になる」

 雪乃さんに話を聞いた時は、すでにテクニカルイノベーションという会社があると言った風であった。しかし、本部長の話では、ソリューション社が潰れた事で今の僕達の勤める会社が出来たと言っていることになる。

 一体、誰が何の目的でそんなことを。

「本部長、あなた達にテクニカルイノベーション社を作るように言った人物は、更科博士なのでしょうか?」

 ゼウテック社の人間であることは違いないだろうと思っていた。だから、更科博士の名を出して訊いてみる。

 すると、本部長はいや、と首を横に振った。

「彼女ではなかった。私達に声をかけたのは、男であったことは間違いない」

 更科博士ではない、謎の男が本部長達、ソリューションの人間に声をかけたということか。僕はもう一つ質問する。

「ソリューション社の重役、全員がテクニカルイノベーション社設立の話を持ちかけられたのでしょうか?」

 彼は腕組みをして、少し考えるようにしていた。やがて、口を開く。

「全員ではなかったな。何人かは声をかけられることもなく、会社の倒産と同時に連絡を絶ってしまったままだ」

 何人かという部分に僕は引っかかり、その人物達に何か共通点のようなものはないかと訪ねた。

 共通点、と面喰らった本部長は、再度時間を置いた。そして、思い付いたように顔を上げる。

「これはまだ話してなかったな。ソリューションとゼウテックの間にあったプロジェクトというのは、今我々が作っているゼウスプログラムを作ることにあったのだ。テクニカルイノベーションの設立について声をかけられなかった者達は、ゼウスプログラムに対して否定的な意見を持っていた。長らく、自分で考えて生きて来た人間に対する冒涜的なプログラムだと言っていた」

 それだ、と僕は心の中で思った。ゼウスプログラムに否定的な意見を持つその複数人は、テクニカルイノベーションに必要とされなかった。

 ここまでの話で、僕の中にはある考えが芽生えた。沙耶の両親の事故を工作した人物がいるとして、それはテクニカルイノベーションという会社を作り上げたのと同一人物ではないかと。その可能性が高いだろう。

 後は、それが誰なのかを突き止めれば事態は終息に向かうはずだとも思った。様々な考えを巡らせていた途中で、僕はふと思ったことを本部長に訊いてみた。

 何故、そんなにも積極的に僕のことばに返答してくれたのかと。

 すると、彼は再度鼻で笑ってから、口を開く。

「私も、始めは気になっていたことだ。この一〇年程で、それは薄れつつあったが、君に話を聞かれたことで、その気持ちが少しだけ戻ったよ。何に首を突っ込んでいるか、今は訊かない事にしよう。いずれ分かるような気がするからな」

 そこで、襖の開く音が聞こえた。振り返ると、秋江君が新しい酒を持って入ってくる所であった。盆には二本の酒瓶と猪口が乗せられている。

「だが、話だけで終わるのは納得いかんな。今日は私を呼んだのだ、少しは付き合ってもらうぞ」

 そう笑いながら言う本部長の姿を見て、僕は猪口を手に取る。そこに秋江君が酒を注ぐ。離れたまま、お互いに猪口を持ち上げた僕達は、それを一気に口へと含む。

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