第4話 最適合者


 結局その夜は、吉城本部長と飲み明かしてしまった。互いに頭痛に耐えながらそれぞれの帰路に着く。

 彼を車まで見送った後、自分の車を止めた場所まで歩いていこうとした僕は呼び止められた。車に乗る直前の本部長が、片手で頭を抑えながら、しかしはっきりとした声で、

「全てが終わった時、君からあの時の真相がどういったものだったのか聞けるのか楽しみにしている。頑張ってくれ」

 とだけ言った。その後、頭を抱えた本部長を乗せて走っていく車の後ろ姿を眺めながら、僕は深く礼をした。

 冬の、まだ朝日も昇らない暗い時間。秋江君も一緒になって僕達と飲んでいたが、酔っているようには全然見えなかった。

「車までお供しましょう」

 そう言って、僕の傍らについて車のある場所までついてくる。

 酔っているため、足取りのおぼつかない僕の歩みは亀のように遅かったが、彼女はしっかりと合わせてついてくれた。

 そんな彼女を見てか酔っていたからか、僕はこの前のバーでの話の続きではないが、思ったことを聞いてみた。

「君は僕なんかよりも優秀なのに、上を目指す素振りを見せないけど、何か考えがあってのことなのかい」

 歩きながら、自分でも半ば何を言っているか分からないまま彼女の返答を待つ。歩みを止めることなく、こちらを向く事もないまま秋江君は答える。

「確かに閏部長よりも私の方が優秀かもしれませんね。ですが、あなたの元にしばらくいて思ったのは、私はこういう人のサポートをする仕事の方が向いているのではということ。だから、もうしばらくは誰かの秘書という形で仕事をするのも悪くないかと思います」

 横から見た彼女の顔は、少しだけ嬉しそうに見えたが気のせいだったのだろうか。それにしても、僕はやはり彼女にとって出来ない上司とされていることの方が重く受け止められた気がした。

 沙耶のことが終わって会社に戻った時には、より真面目に仕事をしようと思わされる言葉。ある意味、最適合者の沙耶よりも秋江君の方が人の心を動かすのが上手いと思えた。

 車を停めてある駐車場に着いた。秋江君もここに車を停めていたようで、自分の車の元に歩いていく。痛みの治まらない頭を抱えながら、車に乗り込む。運転席に着いて、エンジンをかけると自動運転モードに入った。

 すると、目の前からクラクションの音が聞こえた。下げていた頭を前に向けると、横から見た車体がそこにある。

 その車の運転席から、僕に向けて頭を下げる秋江君の姿があった。薄い笑みを浮かべて、僕は手を振って返す。颯爽と走り去っていくその車を見送った後、僕の車も走行を始めた。

 が、次の瞬間であった。

 道路から轟音がした。僕は酔いによる頭痛も忘れて、車から飛び出していた。運転席から人がいなくなった車は、これも自動的に停車したままとなる。

 何も考えず、ただ音のした方へ走る。そこには、薄暗い中でより一層際立つ明るい火柱が立っていた。燃え盛る車体は、たった今、僕に礼をして走っていった秋江君のものだと分かった。

 そんな、と口から漏れていた僕。跪き、どうすることもできない自分と彼女を巻き込んでしまった自分に後悔の念しか感じられず、ある場所へと通信を入れる。「呼び出し《コーリング》」

 弱々しい命令に応じたゼウスが繋げた相手は、すぐに応答した。

「閏さん? 用事は済んだの?」

 無邪気な沙耶の声が聞こえる。当然、彼女は何も知らないのだから、無理もない。何も返さないでいる僕に、再び名前を呼びかける彼女。

 やがて口を開いた僕は、

「逃げるぞ。荷物をまとめておけ」

 そうとしか言えなかった。



 沙耶を奏の元から連れてホテルへと戻った僕は、ただ何もせず、窓の外を眺めるばかりであった。沙耶は、何も聞いてこない。僕の心の内を読んだのか、それとも単に声をかけづらいだけなのか。どちらにせよ、僕も話す気はない。

 秋江君の死が、これほどショックを与えるのは、先に考えたように彼女を巻き込んでしまったという後悔によるもの。

 昼頃になって、ゼウスによるニュースをチェックしてみた。ところが、彼女のことは話題になっていない。それよりも、僕は再び驚愕する記事を目にしてしまった。

見出しは、『テクニカルイノベーション社新企画提案部門本部長 吉城源が交通事故により死亡』というもの。

 思わず立ち上がり、僕は呆然と視界に表示されたその記事を見ることしか出来なかった。短時間で、二人の人間の死を受け入れられる程、僕は器用な人間ではない。いや、誰にでも難しい話であろう。

 本当なのか。本当に吉城本部長までもが死んだのか。自分の目で確かめる術は今の所ない。態々捕まりに行くようなものだ。

 このままでは、僕と沙耶が関わった全ての人間に害が及ぶ可能性が高い。

 ならば、どうすればいいのか。一刻も早く、沙耶の両親が死んだ理由を解明し、彼女を更科博士の元に連れて行くことこそが解決策か。

 いや、本来僕は沙耶の両親の死なんて興味はなかった。彼女が僕に半ば強引に迫ってきたに過ぎない。何故僕はこんなにも必死になっていたのか。

 きっと、それは。折本沙耶がゼウスプログラムの最適合者だからだ。人の心を読み、自然と操れる。操られた本人はそのことに気付かない。

 更科博士の言っていた通り、彼女は危険なのだ。彼女といれば、危険は増す。ならば、もう返してしまった方がいいのではないのだろうか。

 脳裏に浮かぶのは、沙耶を元の場所に今直ぐ返すべきだという考えばかり。それだけでいつの間にか時間がかなり経っていた。

 窓から見える景色は夕焼けへと様子を変えている。

 そこで、僕のゼウスに通信が入った。相手は――雪乃さんであった。

 応じるか逡巡したが、やがて通信を取ると命令を下した。通信が繋がり、僕は本当に雪乃さんかを確かめるために、疑問を持った声で名前を呼んだ。

 彼女の返答も、僕が本人か確かめるかのように名前を呼ぶものであった。

 それから少しの間、お互いに何も言わなかった。だが、先に口を開いたのは彼女の方で、今から会って話がしたいというものだった。

 しかし、この場所を他の人間に気付かれでもしたら、それこそ終わりだろう。悩んでいた僕。だが、彼女の言葉は驚きを与えるものであった。

「今、あなたの元に向かっているの。お願い、どうしても話さなくてはならないことがある」

 僕の元に向かっている。その言葉が、気になって仕方がなかった。もしかすると、彼女が適当なことを言っているのかもしれない。けれど、僕には彼女が噓をついているようには思えなかった。

 それは一年間、彼女のことを近くで見てきたからかもしれない。

 本当に彼女が僕の場所を分かっているのか試すため、僕は会う事を承諾した。どこにいるかは、勿論教える事はなかった。



 通信を終えてすぐ、僕は沙耶にこのことを話そうとした。だが、部屋のどこを探しても彼女が見つからない。どこにいるのか確認するため、通信を入れてみた。すると、これにも応じる事はなかった。

 通信範囲外か拒否されている可能性があると、電子音声が脳内に響く。

 もしかすると、僕の先程の考えを読んで、一人で出て行ったというのか。今すぐに探さなくては。

 しかし、雪乃さんとの約束もある。僕にとっては、彼女の方が大事であるはずなのだ。そう考えると、もう探す必要はないと思えてきた。どちらにせよ、沙耶は帰るべき場所があるのだ。

 それが、死ぬ事になったとしても、彼女に与えられた運命であったのだから、僕にはどうしようもないだろう。

 この心の変化も、最適合者である沙耶と接触を行っていたからだろうか。


 しばらくして、部屋に置かれている電話がなった。ゼウスプログラムが普及している今でも、ホテルなどでの連絡には電話を用いている。

 受話器を取り耳に当てる。フロントのスタッフからであった。

 斎川様というお客様がお見えですが、という言葉に僕は再び驚かされた。まさか、本当に僕の居場所が分かっていたとは。

 心の中に、ほんの少しだけあった彼女を疑っていた気持ちが、驚きをもたらしたのだ。

 部屋に通してくださいと返した僕は、受話器を置いた。彼女と話すため、机と椅子を用意する。

 準備が整い、僕は扉の方を向いて座り、待つ。一年間、共に過ごした女性を。斎川雪乃という彼女を。

 扉をノックする音が聞こえた。他でもない、彼女だとすぐに分かった僕は、どうぞと声をかける。ドアノブがゆっくりと回され、開く。

 立っていたのは、いつものコートに身を包み、長い髪を後ろに一つ結びで纏めた雪乃さんの姿。

 あの日、喫茶店で会ってから三日程しか経っていないはずなのに、久しぶりに感じる。

「待たせて、ごめんなさい」

 そう謝る彼女に、

「いいえ、待つのは慣れています」

 と苦笑して返す僕であった。

 机を挟んだ目の前の椅子に座るように促した。入って直ぐの場所に置かれているコート掛けに、脱いだコートをかけた彼女は、返事をしながら椅子へと歩いてくる。

 コートの下はビジネススーツだった。いつも、上着を脱いで、その上から白衣を着ていたことを思い出す。

 椅子に座り、真っ直ぐに僕を見据える彼女。最初に口を開いたのは僕の方であった。話とは、一体何なのかと問う。

 対して、彼女は少し下を向いてから僕の方を見直した。

「伊織君、この間はごめんなさい。怒鳴ったりしてしまって」

 申し訳ないと思っているからか、顔はこちらに向けているが、目が合わないようにしている。

 その件に関しては、もう無しにしようと返す。僕も気にしてはいないし、非はあったのだから。

 すると、彼女はありがとうと短く礼を述べた。同時にここからが本題だとも言った。彼女の言葉に、意識を集中させる。

「あなた、更科博士と会ったということは、ゼウスプログラムの秘密を聞いたのでしょう?」

 ええ、と頷く。

 ならば、最適合者という言葉について知っているかと問われたので、同じように頷いて答える。

 すると、彼女はまた黙ってしまった。一体、何があるというのか。焦らせることはせずに、じっと彼女の言葉を待つ。

 やがて、彼女は語り始めた。

「私、斎川雪乃は。最適合者なんです」

 


 一年前。私はテクニカルイノベーション技術開発部門第二研究室室長として、仕事に励んでいた。

 基本的には、同じ部門の別の研究室としか共同での仕事は来ないのだが、その一件だけは違った。

 ある会社のシステム開発を任されたのだが、その仲介役として新企画提案部門という普段あまり繋がりのない部門と組む事になった。

 そこの部長、閏伊織という青年は、私より少し若いのにもう部長という役職に就いていた。一件エリートのように思えたが、実際に会ってみると、何とも仕事に対してやる気の感じられない人物であった。

 少し注意をしてみても、本当に聞いているのか分からない。正直に言うと、印象は最悪で、嫌いであった。

 そんな中、取引先へ送るシステム作業を行っている時、作業工程の変更と突然の欠員で納期へ間に合わせるのが厳しくなった。私は焦っていた。そのため、初歩的なミスを何回も犯し、時間は次々と減っていく一方であった。

 だが、研究室の扉を開ける音がして。そちらを見るとあの青年が立っていたのだ。いつになく真剣な眼差しで、彼は私に作業の進捗を聞いてきた。

 納期に間に合わせるのが厳しいと、私は頭を下げた。この男に頭を下げることになるとは、思わなかった。自分が悔しい。そう思っていた私の肩に優しく手を置いた彼。

 顔を上げると、先程の真剣表情とは打って変わって、柔らかな笑みを浮かべていた。

「斎川さんだけのミスじゃありません。こちらももっと気を利かせるべきであった」

 そう言って、欠勤している研究員のデスクに座り、PCを起動させた。手慣れた動きで素早くホログラムで表示されたキーボードを叩き、システムを構成していく。

「ほら、急がないと間に合いませんよ。皆さん、仕事にかかって」

 快活に言われた私達は、我に返って自分の作業場に戻る。

 彼一人で次々とシステムの構成が出来上がっていく。普段の様子からは全く想像ができない姿に、私の中である感情が芽生えていた。

 二日後、無事に納期に間に合うようにしてシステムは完成した。二日間、碌に寝ていない上に家にも帰れていない。

 こんなことになってしまった責任を感じている私に、同じく疲れの溜まった顔をした彼は言った。

「責任なんて感じる必要ありませんよ。仕事っていうのは、多くの人間が関わっているんです。室長を勤めるあなたでも、全員を思い通りに動かす事なんて難し過ぎます。人は与えられた力量でどこまで出来るかを常に試されていると思えばいいんですよ」

 その言葉に、どう返して良いか分からなかった私は小さく礼を述べることしかできなかった。

 後日、彼に胸の内を語った。すると、快く了承してくれた彼と私は交際を始める事となったのだ。

 あの時以降、真剣な彼を見てはいないが、それでも楽しかった。一度でもを見れた事が、大きかったのだろう。

 ただ、私は秘密にしていることがあった。人の考えていることが分かってしまうのだ。これは、自分で意識して見ないようにすることもできる。

 だから、私は彼の心だけは努めて読まないようにしていた。好きな相手を裏切るようなことをしたくなかった。

 事実、それで今まで上手くやってこれたのだ。この前の、あの喫茶店での話をするまでは。

 彼の心を読んでしまった。彼が私の考えを、意志を女性特有の考え方だろうと言っていたことを聞いてしまった。意図してそれを読んだ訳ではない。気の緩みだ。彼に協力したいというのを断られた拍子に集中力が途切れてしまったから。思わず、そのことに対して怒鳴ってしまった。彼は気付いていただろうか、自分が口にも出していないことで私が怒った事に。

 何も言わなかったので、分からなかったが、もし気付かれていたら。

 二日間、私は考えた。彼に打ち明けるべきかどうか。そして、決めたのだ。全てを話そうと。だから、自分の中にゼウスプログラムを使って調べ上げた彼のホテルまでやってきたのだ。



 この一年間交際してきた女性が、つい最近存在を知ったばかりの最適合者だと。僕の脳はそれを受け入れる処理に時間を要した。

 目の前に座る彼女は、他人の心を読む事ができ、また考えを自然と変えさせる事も出来るのだ。

 すぐに信じることはできなかったが、ついこの前のあの喫茶店で彼女は、僕が心の内で思ったことに対して怒りを露わにしていたのを思い出した。

 あの時は、彼女がそのように怒ったことの方が印象深く、気にしている余裕がなかったために、何も聞かなかったが、今考えてようやく分かった。

 彼女は、本当に最適合者だ。

「雪乃さん、顔を上げてください」

 ずっと下を向いていた彼女は、僕の言葉に従って顔を上げた。

 『最適合者』、この言葉によって僕は様々なことに巻き込まれてばかりであった。

 今、目の前にいる女性もその一人だと思うと、もう何もかもがどうでもよく感じられた。

 ただ、僕も彼女に謝らなければならないことがあったのを思い出す。

 これから、そのことを話すつもりだ。

「雪乃さん、僕もあなたに言う事がありました。怒らないで聞いてください」

 彼女は、特に反応を見せる事もなかった。ただ、申し訳なさそうな表情を浮かべてばかり。

 だから、僕は一人で語り始めた。

「僕は、正直恋愛という感情が分からなかった。雪乃さん、それはあなたといてもです。一緒にいると楽しい、話が合う。それが互いを愛し合っている条件ならそれでいいとは思います。でも、本当に好きだと思う事がよく分からなかった。この一年間、僕はあなたに噓をつき続けていたんだと思います。ですから、そのことについて謝らせてください」

 立ち上がり、深く頭を下げた僕。それに対し、彼女から聞こえてきたのは、小さな笑い声であった。

 何かおかしなことを言ったかと思ったが、彼女は笑いながら涙を流していた。「そんなこと、心なんか読まなくても気付いてたわ。私はあなたのことが好きだから」

 ゆっくりと立ち上がり、僕のことを抱きしめた彼女は、そう穏やかな声で言った。

 僕達は、互いに隠し事をしていた。でも、それこそ彼女と僕が繋がるのに必要なことだったのではないかと思うと、先程とはまた打って変わった思いが芽生えたのである。

 彼女は、僕の唇を自分の唇で塞いだ。一年経って、ようやく恋人同士だということに気付かされた気がする。

 僕も彼女のことを強く抱きしめ、体温を感じる。ベッドに倒れ込んだ僕に彼女が乗りかかり、そのまままた唇を重ねて来る。

 熱い、彼女の思いが流れてくるような気がして。僕達は邪魔な衣服を脱ぎ捨て、お互いを求める動物のようにしてベッドの上で繋がる。

 彼女は僕の名前を呼び、僕は彼女の名前を呼んだ。

 この時、僕達はプログラムのことなんか忘れて、本当の人間同士として深く分かり合ったのだと思う。



 いつの間にか、僕達は寝てしまっていたようで。起きると、隣には毛布で身を隠すようにして眠る彼女の姿があった。

 辺りに散乱している服が、昨夜のことを思い出させる。とにかく、僕は時間確認するべく、ベッド横のサイドテーブルに置かれた時計に目をやる。午前九時。いつもより遅い起床だ。

 雪乃さんを起こさないように、ゆっくりとベッドから出て浴室へとシャワーを浴びに行く。

 熱い湯を頭から被っている内に、僕の脳は整理されていく。

 人間の脳は、眠っている間に整理されているというのを聞いた事がある。例えば、その日やって出来なかったことが、翌日には出来てしまうのは、この眠っている間の整理によるものだと言っていた。

 僕の頭は今になって整理されているのだ。そして、思い出す。

 沙耶のことを。彼女を連れ戻さなくては、と頭の中に浮かぶ。

 シャワーを止めて、すぐに服を着て脱衣所から出る。すると、雪乃さんも目を覚ましていたようで、自分の裸体を恥ずかしそうに隠した。

「雪乃さん、それどころじゃないんだ。沙耶が、沙耶の行方が昨日から分からないんだ」

 僕の言葉の始めの方に引っかかったのか、少し不機嫌そうな顔をしていたが、沙耶のことについて聞いてきた。

「てっきり、あなたがどこかに行くように言ってたのかと思ってた」

 とだけ言って、毛布を体に巻き付けてベッドから立ち上がる。

 今度は彼女がシャワーを浴びると言って、浴室へ歩いていった。

 僕はその間に、ゼウスを起動し、沙耶に通信を入れてみる。だが、通信範囲外にいるという、昨日と同じメッセージが表示された。

 椅子に力なく座る。両手で顔を覆い、自分のしたことを悔いる。

 秋江君、吉城本部長と自分のせいで二人の命を奪ったことを、沙耶にだけ押し付けた。本当は違う。僕自身が二人を巻き込んでいたというのに。

 沙耶がいなくなればなどと、馬鹿なことを考えてしまったばかりに、彼女を傷つけてしまったのだ。

 しばらくそのまま動けなかった。様々な後悔の念が僕を襲う。

 すると、足音が聞こえた。僕の側で止まったそれは、次に大きな溜め息を吐く音に変わる。

「まったく、あなたは頼りになるのかならないのか、分からない人」

 雪乃さんが、僕の頭を両手で掴み、立ち上がらせる。

 そして、真っ直ぐに目を見て、力強い声で言った。

「まだ、あの子が助からないと決まった訳じゃない。胸を張りなさい。自分だけが悪いなんて思うのは、自惚れよ」

 頭から手を離した彼女は、背中に手を回してきた。

 自分も協力するから、二人で彼女を助けよう。そう言ってくれたのだった。


 状況を纏めるため、僕は雪乃さんを連れて、杉村氏の探偵事務所まで車を走らせている最中であった。

「沙耶ちゃんが最適合者だという事は知っていたわ。多分、向こうも気付いていた。でも、それを態々言う必要もないかって私は思った。沙耶ちゃんもそうだったのかもしれない」

「僕としては、雪乃さんが最適合者だということの方が驚きですよ。一年間、そんな素振りを見せずによくやってこられましたね」

 隠されていた方の僕が言うのも何だかおかしなものだが。

 車内での会話はそれ以降、あまりなかった。昨日の夜のことを未だに思い出してしまう。

 まるで初めてキスをしたかのような思春期の男女だ。いや、事実キスは初めてであったし、その後のことも勿論同じだ。

 余計なことは考えないようにして、僕は杉村氏に話す内容を考え始めた。昨日の吉城部長の話から、犯人が分かるかもしれない。


 事務所について、扉を開ける。すると、僕の姿を見た杉村氏は、慌てて駆け寄ってきた。今連絡しようと思っていたところだと、すぐに何かを話したげにしていた。

 とにかく、一旦落ち着くように言った僕は、席に着く。雪乃さんも彼と以前話した事はあるので、自己紹介は不要であった。

 彼の方が話したいようだったので、先を譲る。

 一昨日、別件があるからと事務所を開けていた彼は、その足でソリューション社の元社員と話してきたという。

 本来ソリューション社が、テクニカルイノベーションが協力して作るべきだったが、ゼウスプログラムに反対意見を持つ者がいたと彼は話す。しかし、それは僕も本部長との話で分かっていたことだ。

 それだけではないと、彼は続ける。沙耶の父にあの仕事をさせたのは、賛成派の人間であり、反対派の人間はそれをさせないようにしていたと言う。

 このことから、杉村氏はゼウスプログラム反対派の人間の中に沙耶の両親を事故死に見せかけて殺した者がいるのではと語る。

 だが、そんなにも単純な話しなのかと思った。むしろ賛成派にも怪しい人物はいるはずだろうと。

 僕の返答に、彼は少し自信を失っていた。それでも、犯人は反対意見を持つ者の中にあると主張する。

 僕は考えた。当時、仕事を受け持っていた沙耶の父が死ぬ事で得をする人間と言えば誰になるのかを。

 恐らく、その人物はソリューション社を潰したいと思っていた人物。そのためには、沙耶の父親を殺す事が最適だと考える事のできた人物。

 そんな人物は、僕の知る限り一人だけであった。

「もしかすると、犯人は」



 車に雪乃さんと杉村氏を乗せた僕は、全ての謎が待ち受けているであろう場所へと向かっていた。きっと、そこに行けば全てが解決するだろうという、希望的観測でしかなかったが。

 道中の車内で、杉村氏が僕にある話をした。

「何故、僕がこんなにもこの事件に執着しているのか、話したことはあったかな?」

 問われて、僕はいいやと首を小さく横に振る。

 彼は話す。この一〇年以上、沙耶の両親の死を追ってきた理由を。

「閏さん、あなたはまだどこかで、あの二人の死は事故死だと思っているでしょう。でも、私には分かるんです。二人の死は偶然のできごとなんかじゃなく、誰かによる意図的なものだとね」

 それは二人が事故を起こす前の話であった。杉村氏は、沙耶の父である折本雄治に呼び出されたという。二人は他愛ない昔の話をした。

 そして、雄治が去り際に言い残したことがあるという。

 『沙耶のことを頼む』。一言が、杉村氏に疑惑の種を植え付けたのだ。今でも根強く彼の中にある。死を予知したかのような言葉がずっと気がかりで、もしかすると本当に雄治が死を予測していたのではないかと彼は思っているのだ。

 しかし、今からそれを確かめに行くのだ。分かれば杉村氏は、長い気がかりから解放されるのだろう。

 言うと、彼は苦笑しながら、そうであることを願うとだけ返した。


 やがて、自動運転モードの車が停止した場所は、僕達のゼウスプログラムを管理する場所。ゼウテック社であった。



 午後六時。退社する社員が多く出始める時刻に僕達三人は受付に向かって歩いていた。カウンターに手をついたのは雪乃さんで、自社の社員証を見せながら、更科博士と面会したいと述べる。

 受付嬢は待つように言うと、電話をかけ始めた。すると、予測していた時間よりも早くに返答が為され、僕達はエレベーターに乗り込んだ。

 研究室にて待つというのが、更科博士からの言葉だったそうで、従って前に彼女と面会した階のボタンを押した。背後には町の風景を拝む事のできるガラス製の壁がある。上昇していく目線に伴って、町は小さくなっていく。

 高所恐怖症でなくて良かったと思う。

 目的の階に着いたことを知らせる音が鳴り、僕は振り返る。

 真っ白で、明るい。広い空間に出た。

「ようこそ、我が研究室へ」

 迎え入れるその声は、沙耶の叔母、更科絵里子のものであった。彼女の背後には、手術台の上に寝かせられた沙耶の姿があった。

 僕は名前を呼ぶ。すると、こちらを向いた。しかし、その目には光が宿っていない。全てを諦めたかのようなものであった。

 今直ぐ、彼女に謝りたい。昨日僕が取った行動について。

「更科博士、今日はあなたにお話があって来ました」

 半ば睨みつけるようにして、僕は彼女の方を見る。

 しかし、博士は何も話す事はないと言っているかのような表情だ。

 沙耶の両親を殺したのは、あなただと僕は言う。

 自分の会社の利益だけを考えた結果、博士が沙耶の両親を殺したのだと、考えを述べた。しかし、彼女は表情を険しくして、否定した。

「何を言いに来たのかと思えば、そんな馬鹿げたことを。私が姉さん達を殺す訳ないでしょう」

 口では何とでも言える。だが、彼女の表情から僕は自信を失いそうになった。それでも、やはり彼女以外に考えられない。協力している会社の邪魔な勢力を消すために事故を装ったのだと。

 その時だ。どこかから乾いた拍手の音が聞こえてきた。僕達の中間にある扉の方から誰かが歩いてくる。

「中々面白い推理だ。しかし、外れてしまっては意味がない」

 男性の低い声。その顔は見た事があった。

 ゼウテック社代表取締役、三上雅哉みかみ まさや。この会社のトップであるその人物が何故ここに姿を現したのか。

「閏君と言ったかな。君は更科君の姪である折本沙耶ちゃんのために随分と協力していたようだね」

 スーツの懐から取り出した葉巻に火を点けながら言う。煙を吐き出した後、だがと続ける。

「全て無意味だ。君達がいくら証拠を掴んだ所で、犯人は捕まえられない。相手が悪すぎるからな」

 どういう意味だ、と聞き返す。彼は首を横に振りながら、やれやれと声に出して言った。

「君のような人物なら分かると思ったんだが、仕方ないな。折本夫妻を事故に見せかけて殺したのが誰か。他でもない、私だよ」

 その言葉に、今この空間の時間が止まったように思えた。

 言葉を失う僕達へ向けて、三上は話を続ける。

「当時、ソリューション社と契約を結んでいた。試験運用まで進めていたゼウスプログラムの実用化に向けてな。だが、ソリューション社には反対勢力が少なからずいることに気付いた私は、どうにかしてそいつらを排除する必要があったのだ。折本夫妻も反対派の仲間だったのだよ。いつか裏切られると思った私は、まずその夫妻から始末する事にした。そして、ウチとの契約を切られる事になったソリューション社は見事に倒産。賛成派と使えそうな人間だけを集めて新たな会社を作り上げたのだ。それが、今君達が勤めているテクニカルイノベーションなのだよ」

 吸い終えた葉巻を地面に投げ捨てた三上は、大きく溜め息を吐いた。

 更科博士は、初めて真相を知らされたといった感じであり、同時に三上のことを睨みつける。

「あなたが、やはりあなたが姉さん達を」

「気付いてなかったのか。やれやれ、だから君にはまだ打ち明けたくなかったんだが、仕方ない」

 三上がその場で手を叩いた。すると、何やら別の軽い音が響く。

 軽いはずのそれは、彼の背後から。僕の視界の隅に映るのは、衝撃を受けたかのように倒れ行く更科博士の姿であった。

 さっきの音が銃声だと気付いたのは、倒れた博士の白衣が赤く染まっている事からだ。腹部に着弾したのが分かる。

 息を荒げる彼女を、沙耶が見下ろす。しかし、ただ見つめるだけで、何も言わない。

 そこで真っ先に動き出したのは、雪乃さん。僕の後ろから博士の元に走り寄る。傷口を強く押さえ付け、少しでも出血を抑える事ができるように施している。

「三上、貴様!」

 杉村氏が僕の横で怒りを露わにした声で名を呼ぶ。

「誰かと思えば、折本の友人とかいう探偵か。君は後でいい。それよりも閏君、自分の身近な人間のことを考えたことがあるかい?」

 突然向けられた質問に、戸惑いを隠さずに僕は、どういう意味かと返す。

 すると、三上は笑いながら誰かに向かって話しかけるようにして、

「君の上司は全然分かっていないようだ。周囲のことも分からない人間の元にいるのは、よくないことだね。そうだろう?」

 と言った。

 すると、彼の背後にある通路から、人の気配がする。暗闇の中に紛れていた上半身が、徐々に明るみに照らされてくる。

 姿を現したのは、いつも見慣れた人物。しかし、どこか雰囲気が違う。

 そして、もうこの世にいないはずの人物だった。

「君は、――秋江君?」

 三上の背後に立ったのは、僕の部下で、二日前に車の爆発で死んだと思われていた秋江瑞穂であった。

 いつも綺麗に結われていた髪は解かれ、妖艶さを漂わせる。その片手には拳銃が握られていた。

「死んだはず。と、言いたいのでしょう?」

 声も間違いなく彼女のものであった。嘲笑する彼女に僕は、何故生きているのかを問う。

「便利になった現代では、トリックも簡単に出来上がってしまう。例えば、車の爆破とか」

 いつも見せない笑顔で語る秋江君。

 あの時、彼女は確かに僕に挨拶をした。そして、僕がその後に見た光景は、爆発し、炎上する彼女の乗用車であった。

 それまでの間、彼女は自動運転モードに切り替え、車から下りていた。後はひとりでに走っていく車に積まれた爆弾を、遠隔で作動させた。

 爆発に気付いて、駆けつけた僕が見たのは、炎上する無人の車であった。

 だ。あの時、僕は彼女が死んだと確認もせずに判断してしまった。

 ショックで探そうとしなかったのだ。彼女の死体を。

 しかし、まだ疑問はある。

「何故、君は死んだように見せかけた? それに吉城本部長は」

「私が死んだ事でショックを受けたあなたならば、巻き込んでしまったという罪悪感と同時に、折本沙耶に対する嫌悪感を少なからず持つはず。そして、彼女は気付くのです。自分の存在が、犠牲を増やしている事に」

 そこまで話すと、一息吐いてから、吉城本部長についても語る。

「彼は本当に死にましたよ。私が仕掛けた爆弾で。吉城はあなたに対して話し過ぎた。でも、好都合でしたね。あなたは、更科博士を犯人だと思いここまで来てくれた。始末するべき人間が全員集まったのだから」

 そう言うと、僕に対して銃口を向けた。いつもの彼女ではない。

 いや、これが本来の秋江瑞穂という人間なのだろう。そう思うと、どうしようもなく彼女に対する嫌悪感が増してくるので目を閉じた。死ぬのは僕達ではない、彼女とその上司である三上。

 吉城本部長には本当に申し訳なく思う。僕は彼を巻き込んでしまった。そして、沙耶にも謝らなくてはならない。

 そんな思考を巡らせている中、銃声が響いた。

 だが、僕はまだ生きているし、撃たれたという感覚もない。ゆっくりと目を開いた。

 クリアになった視界に映ったのは、こちらに銃口を向けたまま、左胸を赤く染める秋江君の姿があった。表情は驚きに満ちているのが分かるもので、少しずつ後ろへと下がっていく。

 自身の傷口に手を当て、血が出ているのを確かめた彼女は、ゆっくりと倒れた。呻き声を上げるのが分かる。

 誰がやったのか、それはすぐに分かった。

 更科博士の元にいる雪乃さんが、硝煙の出ている拳銃を握っていた。彼女の名前を小さく呼んだ僕。対して彼女は、片腕で更科博士の頭部を持ち上げたまま言った。

「これが、彼女の意志。三上雅哉、秋江瑞穂、あなた達はこの場でその死を持って償いなさい。更科博士、並びに折本沙耶の意志です」

 最適合者である彼女は、二人の代弁者。同じ境遇だからこそ分かる。

 しかし、何なのだろう、この感覚は。雪乃さんであるはずなのに、彼女ではない。その銃口が今度は三上に向けられていた。

 狼狽える三上と銃を向ける雪乃さんの間に、僕は立った。

 それを訝しそうに見つめてくる彼女は、退くように命令してきた。だが、ここを動く訳にはいかない。

 杉村氏も同じく、僕に言う。しかし、彼の場合は三上を殺させるためではなく、単に射線上へ出る事が危険だからという理由だと思う。

「この男は、自分の罪を認めた。僕のゼウスプログラムにそれは録音され、記録として残っている。個人によるものではなく、公正な罰を与えるべきだ」

 決してこの男を助けるつもりではない。公正に裁かれると決まっているなら、そうするべきだと思っているためだ。

 彼女を犯罪者にしたくはない。秋江君はまだ生きている。今ならば殺人未遂で済む。

 それに、復讐は雪乃さんの意志ではない。

「だから、彼女の体を返すんだ、沙耶」

 真っ直ぐに銃を向ける雪乃さん。その意志を乗っ取った沙耶を見つめて僕は言った。


 

 あの日、声が聞こえた。学校の授業中、休み時間、帰っている最中。昔からたまに聞こえるこの声。お父さんとお母さんが死んだと聞かされたあの日からだ。

 私が何かに迷うと、助言をするかのように聞こえてくる優しい声。それが、私の中にあるゼウスプログラムの声だと知ったのは、絵里子叔母さんと助手の人の会話を聞いた時。

「沙耶さんの脳波をモニタリングした結果です。ご両親を亡くされた日から、不定期ですがグラフに変化が見られる時が多々あります」

 助手の人の言葉に、絵里子叔母さんはしばらく黙ったままだった。

「あの子は全人類の中で、ゼウスプログラムと一番にシンクロしている。だから、プログラムの意志が分かる。でも、このまま放置するのは危険ね。来るべき日が来る時、処置を行う」

 私はそこで自室へと逃げ込んだ。処置、つまり私の脳からゼウスプログラムを消去するということだろうか。でも、このプログラムをアンインストールしたという話は聞いたことがない。

 それに、私はシンクロしていると言われた。何かしら異常が起きるかもしれない。

 あの会話を聞いた時から、絵里子叔母さんと顔を合わせられない。恐怖心が私を覆い尽くすような気がしてしまう。

 それから暫くして、例の声が聞こえた。帰り道、私は決心した。絵里子叔母さんの元から離れる事を。全てゼウスプログラムの助言である。声が教えてくれた場所はある男性の元。何故、その人が指名されたのか分からない。接点など勿論ない。

 でも、この声に導かれてこの一〇年を私は過ごしてきたのだ。

 閏伊織さん。彼が、私を助けてくれるとゼウスは言う。雪の降る日、寒さに訴えながら彼の家の前に着いた。

 私の言葉に彼は戸惑っていた。仕方なくといった感じでも、私を泊めてくれたのが嬉しかった。

 彼と過ごした数日間は、私にとって久々の安心できる時間であったと思える。

 でも、昨日ホテルに戻ってくるまで、戻ってきてからも何も話さない彼の心を読んだ時、後悔した。

 相手の心を読める事も、ゼウスに選ばれた人間であることも、全てを。

 私は、生きている限りこの後悔を繰り返すことになる。だから、もう終わらせよう。絵里子叔母さんに言って、私の頭からゼウスプログラムを消してもらう。仮に命を落としても、運命として受け止めるつもりだ。

「沙耶、ゼウスプログラムを消去するのは初めての試みなの。あなたは普通の人間よりも密接にプログラムとシンクロしているから、

何かしらの異常は起きるかもしれない。でもね、出来る限り

の手は尽くすわ」

 戻ってきた私をこの広い研究室に連れてきて、手術台に寝かせた叔母さんが言った。

 電極の繋がったヘッドギアを被らされ、叔母さんは傍らで操作を始める。すると、通信が入ったのか、誰かと話しているようだ。

 その間も私の頭から様々な情報が消去されていくのが分かる。

 瞼が重くなり、視界が暗くなっていく。けれど、その時であった。

 削除用のシステムが突然エラーを検出したという表示が、目の前に現れる。目を見開くと、叔母さんもその異常に気付いたのか、操作用のノートパソコンのキーボードを忙しなく叩いていた。

 しかし、解決の余地はなしとしたのか、緊急停止を行ったようだ。

 ぼんやりとする頭で、何も考えられない状態になった私は、上体をゆっくりと起こす。

 叔母さんが扉の方を向いていた。私もそちらに顔を向ける。

 すると、杉村さんに雪乃さん、そして閏さんの姿があった。声が出せないことに気付く。体も重く、動かす事は難しい。

 聞く事だけは出来た。この場にいる全員の声が聞こえる。しかし、初めて聞く人の声があった。男性の声で、私はしっかりとその言葉を聞いた。私の父さんと母さんを殺したのは自分だという言葉を。

 続く銃声の後、私の目の前に叔母さんが倒れる。腹部からの出血で、撃たれた

と分かった。しかし、どうすることもできない。私は唇だけを噛み締めていたが、まだ他の人は私の意識があることは気付いていないようだ。

 これを利用しない手はない。叔母さんの元に駆け寄ってきたのは、閏さんの恋人である雪乃さんであった。

 その時、また声が響く。いつもよりも強く私に呼びかけているのが伝わってきた。目の前の雪乃さんの意識を乗っ取れと命令を下された。

 私の中にあったゼウスプログラムは、消去の実行が途中で終わってしまったためか、警戒している。更に強力なものへと変貌を遂げていたのだ。

 だが、今の私にとっては、どうだっていいことだ。

 目の前にいる私の両親を殺した犯人を殺すことさえ出来れば、どんなものでも利用してやる。

 私の思いに応えるかのように、ゼウスプログラムが動く。雪乃さんも私と同じ最適合者。その心理を操る仕組みは簡単だ。周りに気付かれる事のないよう、彼女の脳内に侵入する。


 斎川雪乃は、更科絵里子の手当てをしていたはずであった。しかし、突然視界が真っ暗になったのを覚えている。

 辺り一面が真っ暗なのは、瞼を閉じているからだと思ったのだが、どうも違う。ここは? その時、背後に気配を感じた。

 そこに立つのは、彼女達がここに来る理由となった少女。折本沙耶の姿があった。沙耶ちゃん、と雪乃は声をかける。まさか、彼女が自分をここに導いたのかと思う。

 沙耶は雪乃に向けて話し始める。

「雪乃さん、私は両親を殺した犯人を探して、一〇年以上を生きてきました。その犯人がすぐ側にいる。だから、私にあなたの体を貸してください。今の私は自由に動けません。でも、この機を逃せば皆殺されて、今度こそ事件はなかったことにされてしまう」

 彼女の願いを何も言わずに聞いた雪乃は、この前伊織に送ったメッセージは間違いなかったと思う。

 この子は危険だ。薄々感じていた沙耶の脅威を、雪乃は身を以て体感している。ゼウスプログラム単体での脅威ではない。

 彼女自身の思いに、プログラムが反応している。最も適した人間を見つけたプログラムは、更なる脅威へと変化を遂げたのだ。

 恐らく、雪乃の他にもいるであろう最適合者達でも、彼女と同じようになれる人間はいない。

 そんな沙耶を前にした彼女は、恐怖を感じながら、拒否した。

「沙耶ちゃん、あなたがどんな思いで今日という日まで生きてきたのか、私には分からない。でもね、あなたに人を殺させてはいけない。これだけは間違っていないと分かるわ」

 返答に対し、彼女は何も言わなかった。しかし、少しの間を置いた後、沙耶が口を開いた。

「残念です。雪乃さんは閏さんの恋人だし、優しい人だから傷つけたくなかったんですけど」

 項垂れた状態で話す沙耶に対し、雪乃は小さく身構える。

 次の瞬間であった、沙耶の背後から真っ赤な壁のようなものが出てくるのが見えた。

 それは、一瞬のうちにして辺りの黒を赤く染め上げ、雪乃を囲むかのようにして構築されていく。

 彼女は必死に抵抗するべく、自身の防御プログラムを発動する。恐らくだが、沙耶の行っているのはゼウスプログラムによるハッキング。

 最適合者である雪乃にも同じことは出来るだろうが、これほどの早さで行うことは不可能だと考える。

 防御プログラムの展開よりも沙耶の介入の方が早い。徐々に体が赤に飲み込まれていく。意識が朦朧としてきた雪乃は、伊織の名を何度も呼び続ける。

 しかし、彼女の目の前には、大きく口元を歪めて笑う折本沙耶の姿だけがあった。

 



 

 

 

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