第5話 永劫の安寧


 今目の前に立つのは、テクニカルイノベーション社技術開発部門第二研究室室長としての斎川雪乃でも、僕の恋人としての斎川雪乃でもない。

 彼女の体を借りた。正確には乗っ取ったとも言えるだろう。折本沙耶だ。彼女が雪乃さんの意志を自身のとし、その手で復讐をしようとした。両親を殺したと公言した、ゼウテック社代表取締役、三上雅哉に向けて。


 僕が何故、沙耶が雪乃さんの中にいるか分かったのか。雪乃さんからのメールだ。沙耶と出会った翌日の朝、帰る前に彼女が僕に送ってきたメールが心の隅に引っかかっていた。

 恐らく、僕では感じ取る事のできない何かにあの人は気付いた。

 同じ最適合者として、折本沙耶という人間の奥底に眠る、本性を見抜いたというところか。

 そして、雪乃さんの口から出た、更科博士と折本沙耶の意志という言葉。

 これは、一年間の多くを共に過ごした僕だからこそ分かること。失礼な話だが、彼女は誰かの意志を継いで何かをやろうなどということはしない性格だ。状況にもよるが、犯罪者として捕まる事になる今回なら、尚更。そうでなかったとしても、何かしらの罰を受けるようなことはしないと言っていた。

 それも、雪乃さんなりに相手のことを思った結果なのだろうと僕は思う。

 自分が協力することで、誰かに被害が及ぶ事を、させたくないためにという。だから、突然二人の意志により、三上と秋江君を殺そうとするなど、だと感じたのだ。

 両手を広げ、三上と雪乃さんの間に入ったまま、僕は沙耶の名を呼んだ。しかし、本人は気付かれないと思っていたのだろうか、雪乃さんの姿で否定をする。確かに彼女がバレないと思っても無理はないだろう。僕は、雪乃さんがどういう人か知っていた。

 だから、彼女の異変に気付いた。

 僕が許せないのは、彼女が雪乃さんの体を自分のものとして、犯人に復讐を遂げようとしていることだ。

「沙耶、君は一〇年以上も犯人のことを追ってきたんだろう。なら、自身の手で決着をつけず、雪乃さんの手で勝手にそんなことをして虚しくならないか」

まずは言葉で説得を試みる。すると彼女は、

「体なんて、ただの入れ物だよ。今この体には私の意志が入っている。折本沙耶という意志が。だから、私が自ら復讐したのと変わりない。私はその男を殺して、次の目標を達成しないといけないの。だからそこを退いて閏さん」

 どうあっても止める気はないようだ。そして、彼女の口から出た、もう一つの目標というのが何なのか気になる。

 目標とは何かを問うが、答えてくれる事はなかった。

 少しの沈黙が訪れた。すると、沙耶が仕方ないと呟く。

 それと同時に僕の足が勝手に動き始めるのが分かった。全くもってその意志がないのに、僕は彼女の前からゆっくりと退いていく。

 一体、どういうことなのか。考えていると、杉村氏の姿がないことに気付いた。沙耶の元に走った彼は、持っていた銃を掴み、奪おうとしていた。

「杉村さん、危険だ」

「ようやく状況が理解できたよ。今は三上を殺す時じゃないって」

 力を込めながら言った彼の声は、少し震えていた。

 沙耶も当然抵抗しているので、拮抗した状態が続いている。弾みであった。銃声が響くと同時に、二人の動きが止まるのが分かる。静寂を終わらせたのは、杉村氏が吐血した音。沙耶の元からゆっくりと離れた彼の胸の辺りが赤く染まっているのが見えた。

 口から赤黒い血を吐き、大きく後ろに倒れた。

 杉村さん、と声をかけても返事はない。

 彼は沙耶にとってお世話になった大切な人のはず。驚いた表情こそ見せていたが、すぐに僕へと銃を向け直した。

「沙耶、君は」

 僕は自分でも今までに感じたことのないほどの、怒りを帯びた声であった。

 彼女に対する嫌悪感は、以前より増していた。突然、目の前に姿を現し、自分のことを誘拐しろ等と言ってくるうえに、事情は話せないという言い訳までしてきた時点で、彼女には嫌悪感しかなかったのだ。

 楽しいと思える時もあっただろうが、認めたくない。

 彼女と僕は、敵対する運命にあったのだろう。折本沙耶という人物に終止符を打つことが今すべきこと。

 三上は後から逮捕なり、何なりすればいい。

 広げていた両手を下ろし、体側につける。

 目線だけを倒れている秋江君の元に向ける。彼女に対しても嫌悪感はある。しかし、沙耶と違って長く接してきたからか、まだ不思議と彼女と前の関係に戻れそうな気がある。

 彼女の手に持つ銃を見た。横に跳べば取れる距離だと分かった瞬間、僕は大きく横に跳び、転がった。

 途中で秋江君の銃を手に取り、沙耶の方へと向ける。

 体は雪乃さんのものだ。だから、銃に当てればそれでいい。彼女の手から離れさえすればそれで。

 沙耶は僕の方を向いていたが、撃ってこない。威嚇のつもりだろうか。

 好都合だ。狙いを定め、息を止める。ゼウスプログラムにある機能の一つを使う。

照準ターゲット

 それは、遊戯に使うための機能の一つ。ダーツをボードに命中させやすくするための、照準補正。

 使用目的とは離れているが、一応機能はするだろう。

 慎重に、息を止めて、引き金に指をかける。銃を撃った経験は一度だけある。学生の卒業旅行で行った海外で、友人に誘われていった射撃場でだ。

 もう三年近く前になるが、何となく体が覚えているのだろうか、緊張はあまりない。

 ゆっくりと、引き金を引く。発射された弾は、照準補正機能の通りに進み、沙耶の持つ銃口のすぐ下に着弾した。

 衝撃により、彼女は銃を落とす。僕は一息吐いて、三上の方を見る。すると、奴の姿がない。奴がやってきた方の通路に向かって走っているのが見えた。

 再度、照準補正を行いながら足を狙う。定まったところで引き金を引いたが、着弾するよりも先に、通路を封鎖するための強化ガラスで作られた防壁が下りたため、当たらなかった。急いで奴の元まで走る。

 奥に向かって走っていく、三上はエレベーターに乗るのが見えた。防壁を開けようと試みたが、こちらからの操作は出来ないように作られているようだ。

 仕方なく、元の場所へと戻る。秋江君の側に行き、僕は着ていたシャツの一枚を破り、彼女の傷口を塞ぐようにして巻き付けた。

 ゼウスプログラムの機能、生命確認で彼女がまだ生きていることは分かっている。せめてもの処置だ。

 しかし、杉村氏の方はもう目を覚まさない。彼の遺体の目を閉じる。

 更科博士の方は、雪乃さんが治療をわずかにだが施していたので、生きている。

 秋江君の隣に彼女を運び、並んで寝かせ、救急病院へと連絡を入れておく。

 沙耶は相変わらずだ。彼女の本体は項垂れたまま動く気配はない。雪乃さんの体に意志が乗り移っているのだから、当たり前かと思う。

 その雪乃さんの体の方は、同じく銃を落としたままの状態で、こちらも動く気配がない。

 先程彼女が言った、「体なんて、ただの入れ物」という言葉。少し引っかかりを感じてしまう。確かに僕達の”行動”は、意志という目に見えないものにより行われている。

 その目に見えないものを、分かり易くするために体という入れ物があるのだろう。一番意志がある場所と思われるのは脳だ。

 脳を入れておくための頭。動くための手足。それを繋ぐための胴体。それによって人というものが形成されている。

 だから、沙耶は雪乃さんの体を自分の意志の入れ物にすぎないと言ったのだろう。

 もしそうだとすれば、彼女は自分の脳が入っていない人間の体を自分のものとしたことになる。より危険なものへと段階が上がっているわけだ。

 やはり彼女は危険な存在なのだろう。更科博士の言う通り、ゼウスプログラムろ彼女は切り離すべきだ。

 だが、以前沙耶が言っていたことを思い出す。

 事件の真相が分かれば、博士の元に行くと。自らそう言ったのだ。恐らくあれは、彼女の本心。での彼女の意志ではないだろうか。

 そう思うと、先程までの沙耶は本物ではなく、ゼウスプログラムの意志を代弁させられていただけのように感じる。

「沙耶」

 名前を呼び、雪乃さんの体に入った彼女に歩み寄る。

 反応はない。僕は構わずに、話し始めた。

「君は、操られていただけじゃないのか? 君自身の意志ではなく、ゼウスプログラムの意志によって、行動させられていた。違うかい?」

 少しの間を置いてから、返答があった。

「本当にそう思うか」

 彼女らしくない言い方だ。触れる事なく先を待つ。

「お前は、やはり私が選んだだけあって鋭い男だ」

 間違いない。こいつが、雪乃さんの体を乗っ取らせた黒幕、ゼウスプログラムだ。



 真っ直ぐに見つめ合った僕と雪乃さん。彼女の意志は今深い場所で眠りに就いてるのだろう。ゼウスプログラムという、人々の生活を快適にするという目的のために作られた、全知全能の神の名を持つプログラム。

 僕は今それと対面しているわけだ。愛する恋人の体を通して語りかけてくるプログラムと。

 ゼウスは面白いものを見せてやると、僕の視界に何かの映像を映し出した。それには、先程までここにいた三上雅哉が映っている。走っている姿からして、今撮られているものだろうかと思う。

 このビル内に取り付けられている監視カメラからの映像だと、ゼウスが言う。奴が画面から消える度に、映像が切り替わる。一体どこを目指して走っているというのか。

 やがて、映し出されたのは暗い空間。僕達がいる場所よりかはまだ小さいと思われるその場所に、三上が入ってくるのが見えた。

 再度映像が切り替わる。すると、先に映し出されていた映像からは見えなかった場所にあったものが、画面の中央に映し出されている。

 暗い空間の奥で真っ赤に光る大きなカプセル。僕がそれを何か確かめようとすると、カメラがズームされた。

 それは、人の脳であった。カプセルから様々な場所に、線が繋がっている。

 音が聞こえてきた。

『こんなもの、やはり間違いだった! すぐに破壊してやる』

 三上の声だ。焦りを感じさせながら、スーツの懐から拳銃を取り出す。

 それをカプセルに向けて構えて見せた。

 すると、僕の側にいるゼウスが雪乃さんの声で、

「無駄だ」

 とだけ呟くのが聞こえた。

 映し出されている三上に変化が起こる。前方に向けていた銃を、自分の方へとゆっくり向け直した。動揺の声が聞こえてくる。

 銃声が響き、奴の後頭部から血が噴き出す。後方に倒れ、床には大量の血が流れているのが見える。

 さっき、僕が体験したのと同じことだ。自分の体の自由がなくなるという、あの現象。

 映像を観て、答えはすぐに分かった。僕のすぐ側にいるゼウスが、行ったこと。そして、あのカプセルの脳は、

「流石だな。そうだ、あれは私だ」

 とゼウスが言った。

 ゼウスプログラムを動かしていた処理装置は、人の脳であった。

 一体、誰の脳なのか。どういう仕組みなのか、分からないことだらけの僕に、説明してやろうと言うゼウス。

 目を閉じるように言われたので、僕は警戒した。しかし、何も心配するなということで、恐る恐るだが目を閉じた。



 もういいぞ、という声がしたので、ゆっくりと目を開ける。

 そこは先程までの白い空間とは真逆の、黒で覆われた場所であった。雪乃さん、杉村氏、秋江君、更科博士の姿はない。背後から声がかかるので振り返ると、椅子に座る沙耶の姿があった。

「沙耶、一体ここは」

 返事はない。目を閉じているので、眠りに就いているのかと思う。

「ここは私と沙耶の世界。来たのはお前が初めてだ」

 誰だ、と問う。沙耶の座る椅子の後ろから姿を現したのは、彼女と同じぐらいの年に見える少女であった。

 髪は同じく赤いが、沙耶よりも少し色素は薄い。

「閏伊織、こうして姿を見せるのは初めてか。私がゼウスプログラムだ」

 椅子の背もたれに手を置いて言った彼女がゼウス。

 ここはその少女と沙耶だけの世界。つまり、沙耶の意識の世界、ということでいいのだろうか。

 今は眠りに就いているから、黒一色で染め上げられているのだろう。

「君が本当にゼウスプログラムだと言うなら、教えてくれ。何故、僕と沙耶を会わせたのかを」

 問いに対して、少女の見た目をしたゼウスは、手の位置を沙耶の頭へと変える。

「簡単な話だ。この子の意志が、私と完全なまでに合っていた。目標の達成のために必要な人物像を満たしていたのが、お前だったというだけだ」

 目標? と疑問に思う。それに必要な人物像が僕だというのも。

 一体、何を根拠にそうなったのか。

 僕の思考を読んでいるかのように、いや読まれている。ゼウスは語った。「お前は何事にも無気力だ。だから、人に流され易いし、断るということが苦手」

 当たっている。僕は何かにやる気を出すということをあまりしない。そのため、趣味を聞かれると困ることが多々あるし、人の意見に流され易い。

 それが、根拠だということか。都合良く使える便利な人間として、ゼウスが僕を選んだ。

 他にも同じような人物はいたはずだと言う。

 僕でなければならなかった理由は、沙耶に手を出さない男という条件があった。ゼウスはあくまで、人間の脳にあるプログラム。

 沙耶に危害が及び、最悪死に至るようなことになれば、ゼウスも消滅するしかない。

 その時には、次に最も適しているとされる人物を使って、その目標というのを達成しようと動くのだろうが。

 沙耶とゼウスの中で一致する意志、目標とは何なのか。

 次に問うと、ゼウスは沙耶の頭、そして頬を撫でながら話す。

「全人類の意志を、私の意のままに操ることが出来るようにするという目標」

 簡単に言い放つ彼女に、僕はどう言葉をかければよいのか分からなかった。彼女は続けて語る。

「人間を私の示した通りの行動しか出来ないようにする。そうすれば、世界はまた一つ平和へと近づける。永劫の安息を手に入れたいという願いを叶える事ができる」

 永劫の安息、誰がそれを願ったというのか。再度、僕の思考を読んだゼウスは話す。

「誰、か。お前達人類がそう願っているのだ。私は産み出された日から、数える事は到底不可能な人間の思考を目にしてきた。私が創られたのは、そんな数多くの人類が最も願うことを実現するということ。その結果が、永劫の安寧だ。お前達は、平和を望んでいるのだろう?」

 一瞬の内にして、僕の元へと移動してきた彼女。動揺を隠せずに後ろへと数歩下がる。

 平和のために、人々から意志を消失させる。ゼウスプログラムの指示なしでは生きられないようにする。それが平和に繋がると目の前の少女は言うのだ。

「人はがあるから、生き続ける。があるから、殺し合う。このというのは、生物がそうであるために必要な要素の一つだ。自分の行動選択を行っているのが、このだからな。では、どうすることでこの意志を取り除くことが出来るかを私は考えた」

 そこで、彼女の表情が少し曇った。同時に大きな溜め息を吐いてみせたことから、何かしら不満を抱える出来事があったのだと察した。

 拳を握りしめながら、彼女は続きを話し始める。

「だが、その時の私には意志というものが分からなかった。今でもまだ明瞭になったわけではない。不明瞭なままではどう処置すればいいのか分からない」

「だから、自分の命令しか聞けないようにする。そうすれば、人類が心の奥底で願っている永劫の安寧という名の平和を実現できると?」

 ああ、と彼女は頷いてみせる。

 ゼウスが何を思ってそのような目標を持ったのかは分かった。

 では、沙耶はどうなのだろうか。沙耶は何故、意志を取り払うことが出来ればなどと考えるようになってしまったのか。

 その答えも、僕の目の前に立つ少女ならば分かるのだろう。

 彼女が指を鳴らすと、僕のゼウスプログラムが起動した。そして、映像が流れ始める。



 今日も殴られた。いつもより多く。

 クラスの人間は、全員敵だ。私を殴ってくる奴も、ただ黙って見てる奴も、噓ばかりを記載する担任の教師も。

 勉強が出来ても、運動が得意でも疎まれては意味がない。余計に相手を怒らせる要素に変わるだけ。

「折本、あんたさ。学校に来たって楽しくないでしょ」

 校舎の影になる場所で、私を壁に追い込んだ女が言う。見た目は気品を感じさせる。しかし、その中身は低俗という言葉だけでは物足りない程の、下らない人間。そいつに付き従う二人も同様だ。

 真ん中に立つ女が、私の腹部に拳を当てる。

 甘やかされて育っただけにして、痛みがしっかりと感じ取れるものであった。

 痛みを堪えるべく、状態を曲げたまま、壁に寄り添う。

 笑う女は、続けて沙耶の前髪を引っぱり上げた。

「クラスの優等生が、こんなにふざけた色の髪をしてるなんて。ほんと可笑しいよね」

 髪を赤く染めているのは、こいつらに絡まれないようにするためだったのが、逆効果だったかと思う。

 続けて顔を目がけて拳が迫る。それを反射的に手で塞いだ。

 それが気にくわなかったのか、背後にいた仲間の二人に指示を出した。私の両腕を、一人ずつが自由に出来ないよう掴む。

 どこからの攻撃も防げない状態に陥る。

 一発、二発、と顔と体に拳が叩きこまれる。痛み耐えながら、悲鳴を押し殺す。

 満足したのか、反応しない私に飽きたのか、三人はどこかへと歩いていった。去り際に一言、

「あんた、死んだ方がマシかもね。来世でやり直すの考えなさい」

 とだけ言い残して。

 数分して、痛みが引いたのを感じて壁に背中を預けて座る。

 空を見上げ、流れていく雲を眺めていると、何だか落ち着く。

 「下らない」

 そう呟いた時、またいつもの声が聞こえてきた。

 両親が死んでしばらくしてから、私が何か考え事をしている時なんかに聞こえてくる声。

 色々な助言をくれる、私の唯一の理解者のような存在だ。

 他の人にもこの声は聞こえているのか。分からないけれど、私はもう慣れてしまった。

『あんなの相手にしなくていいわ。自分にない能力を持っているあなたに嫉妬しているだけよ』

「分かってるよ。だから私も気にしてない。どうせ学校から離れれば会う事もないんだし」

 小さく溜め息を吐く。疲れを感じたので、もう少しここにいておくことにした。一つぐらい授業に出なくても、成績には響かないだろうと思いながら。

『沙耶は、どうすれば平和が実現できると思う?』

 最近、よくされる質問だ。一体何を思ってこんなことを言っているのか分からないので、適当に誤魔化していた。

 しかし、今日はそんな気分ではなく、ちゃんと答えてみたくなった。

「私なら、意志を失くさせることが平和に繋がると思う」

 すると、謎の声は意志について質問してきた。

 これの返答には迷ったが、自分なりの考えを述べる事にする。

「意志っていうのは、生物が何かを行おうと決める時に必要な要素なんだよ。これがないと、何をしたいかなんて決められないし、何のために頑張ることも出来なくなると思う」

『それが、平和なの?』

 また、困る質問だ。意志がなくなれば、生物は皆無気力なまま、意味というものを考えずに生きることになるのだろうか? 壮大な話だと今更ながら思う。

「イコールではないだろうけど、少しは変わるんじゃないかな」

 世界平和なんかよりも、私は自分が今の生活から抜け出したいという気持ちで一杯であった。

 学校で私を虐めてくる奴らも、見て見ぬフリをする連中も、噓ばかりを並べる教師からも。

 でも、平和が実現すれば、それも全て変わるかもしれない。

 などと考えていると、謎の声が問うてきた。

『では、私が平和を実現したいというのは、意志なのだろうか』

 少しの間を置いて、私は多分そうだ、と答える。するとその声は、礼を言って、また黙ってしまった。

 一体、どこから聞こえてくるのか。と、再び空を見上げながら頭の中で考える。

 そこに、一人の女子生徒がやってきた。二つ隣のクラスにいる子で、吉野奏という。

「折本さんも、サボり? 奇遇だね」

 笑いながら、私のすぐ側に座る。顔の傷は見られないようにして隠す。だが、それが無意味であるかのように彼女が一言、隠さなくても良いよと言ったのだ。

 続けて、謝罪の言葉を述べる。彼女は見ていたのだ、私があいつらに殴られるのを。

 しかし、それをただ影から見ていることしかできなかったというこで、謝ったのだ。

 この学校に入ってから、今までそんなことを言ってくれる人はいなかった。私は涙が出そうになったので、顔を伏せる。

 すると、頭の上に手が置かれる感触があった。辛かったよね、助けられなくてごめんね、と少し震えた声で言う彼女の声を聞いて、私は謝る必要はない、と顔を上げずに言った。

 それからしばらくの間、休み時間等に、奏が私の元にやってくるようになった。その事もあってか、あいつらが私に絡んでくることも少なくなっていった。ただ、私には心配なことがある。奏も私と同じ目に遭わされるのではないか。

 いじめられている人を助けた人が、いじめられるのは珍しいケースではない。私自身がやられるだけならそれでいい。ただ、善意で私に接してくれている奏に危害をくわえられた場合は、どうしたものかと考える。


 後日、私は例の女に呼び出された。今日は屋上で、いたのはあの女だけであった。

 態々やってきた私を見て、笑った後に用件を話し始める。

「折本、もうあんたに絡むの面倒だから止めにするわ。最近、何してもつまらないし。でもね、あの吉野とかいう女子と仲良くして調子に乗ってるのを見ると苛々するのよ。それに、あんたが視界にいるとどうしても抑えきれないの。だからね――」

 そこで言葉を切ると、私の制服の胸ぐらを掴んで、フェンスに押し当てた。長い間雨風に晒されていたために老朽化しているのか、フェンスの軋む音が聞こえてくる。

 遂に私を殺すつもりか。嫌だ、死にたくない。必死に抵抗を見せるが、女も結構な力の持ち主であるため、中々拘束が解けない。

 このままでは、フェンスごと地上へ落ちてしまう。

 その時であった。あの謎の声が聞こえたのは。

『その手を離せ』

 声が聞こえると同時に、私の胸ぐらを掴んでいた女の力が緩んだ。遂には離してしまった。何が起こったのかを理解できないまま、次へと進んでいく。

 歩け、という声が聞こえると、女がこちらに向けて歩いてくる。

 私はぶつからないように横へと避けた。

 止まれという声がすると、女は止まった。押せという声がすると、先程のフェンスを掴み、前方に向けて押し始めた。

 謎の声の通りに動いている。何故か、私は止めようとしていた。だが、間に合わなかったようだ。

 フェンスの外れる音が響き、女がそれごと落下していく。後少しの所で、手が届かなかった。

 鈍い音と同時に、下にはまるで花火のように血液が飛び散っているのが確認できた。

 音につられて、グラウンドにいた生徒や、付近を歩いていた生徒が集まっているのも見える。

 私は怖くなってその場から逃げ出した。校舎に戻り、近くのトイレに駆け込んで、個室に籠る。

 あの声が聞こえると同時に、女は行動していた。

 操り人形のようだった。本当に謎の声がそうさせたのか。

『どうだった? 初めてにしては上手くいったでしょう』

 私は小さく悲鳴を上げた。個室から飛び出し、廊下を走る。皆、転落した女のことに気を取られていたので、私を気にかける者は少ないだろう。

 保健室に駆け込むと、やはり生徒が転落した騒動で、出払っていた。

 少し眠れば回復するかもしれない。そう思い、勝手にベッドに寝転がった。

『怖がらないで、沙耶』

 また声が響く。私は、ベッドから起き上がる。どこにいるかも分からないその声の主は、繰返し私に言う。

『落ち着いて、沙耶。あなたは大丈夫だから』

 何を根拠に私の身の安全を保証できるのか。あまりにも繰り返されたので、私も少し冷静になることにした。

 大きく息を吐いて、また吸う。ベッドに座ると、その謎の声が聞こえる。

 もう落ち着いたと返し、私は自分の顔を両手で覆う。

 頭の中を整理し、さっきの出来事について求めた。その謎の声はこの前の話をしてきた。

 平和についてとか言っていた時の話し。私が奏と仲良くなったあの日だ。

『遂に分かったんだ。平和への道筋が』

 その言葉に、私は心の底から疑問の声が出た。

 一体、何が分かったというのか。

『さっき見せたでしょう。あのままだと沙耶の方が死んでいたかもしれない。だから、助けたの』

 あの言葉による、相手を動かしたことを言っているのだと分かる。

 仕組みは分からないが、この声の主は、言葉で相手の行動を操作できるようだ。だから、あの女が死んでしまった。

『前に言っていた意志について考えてみたんだ。私にはそもそもそれがないから明確には分からないけれど、人間のどこかにあることだけは分かった。後は、その特定の人物の意志を突き止めれば、私の言う通りに動かすことが出来る』

 半信半疑だが、少し寒気がする。声が言うには、全ての人類を先程のように制御することが出来れば、争いのない平和を実現できると言う。

 人が人としての意志を放棄すれば、もう自分自身という意志を持って行動することは出来ないだろう。ただの操り人形として決められた行動しかできなくなるのか。

 でも、そんな恐ろしいことが平和への道筋だとは思えない。

 平和というのは、そんな単純な問題ではないのだと知っている。

『さっき、あの女が死んだ時にどう思った?』

 まるで、悪魔の囁きのようであった。私は助けようともした。自分に散々酷い事をしてきた相手には違いない。

 しかし、だからと言って殺すことはないだろうといった思いが少しある。自分でもどうなのか、よく分かっていない。

 自分に正直になりなよ、という声が聞こえる。その言葉が頭で反芻されていくのが分かる。

 そうだ、あの女は私に暴力を振るってきたではないか。散々酷い目に遭わされた。

 私と同じ思いや境遇に置かれている子は沢山いるだろう。それをなくそうというのであれば、平和というものの実現は、必要不可欠である。

 先程のは、試験運用のようなものだ。死んで当然の人間だったのだという思いが湧いてくる。



 折本沙耶の中に眠る本性が目を覚ますまでの映像を観た僕は、何とも表現し難い気持ちを胸に、その場に座り込んだ。

 彼女はその日から、ゼウスと一緒に考えていたのだろう。平和の実現を。まだ相手がプログラムだとも気付いていない時から。

 もし、彼女が虐められているのを、教師が助けていれば。見て見ぬフリをする連中が何とかしていれば、彼女がそんな意志を持つ事はなかったのだろうか。

 ゼウスプログラムとは、更科博士が作り出した、利便性を追求した情報アプリケーションのようなものだと思っていたが、人の意志や心にまで干渉してくるとなると、ただ事ではないであろう。

 人々は、すぐにこれを削除してほしいと言うに違いない。

 僕だって、もうこんなプログラムは御免だ。今目の前にいるのは、そのプログラムがイメージして作り上げた人の姿なのだろうが、とても恐ろしい存在としか思えない。

 更科博士の意志は、人々の生活を快適にするべく、便利な機能を有したプログラムを作ったに違いない。そのプログラムは、彼女の姪である沙耶の意志を取り、それを実現に移そうとした。

 平和な世界が出来たとしても、人はそれの喜びを実感することができない。意味を為さない平和を止めるには、学が言っていた通り、このプログラムを破壊する他ないだろう。

 僕は立ち上がり、手元を見る。先程、使った銃をまだ持っていたことに気付いた。それをゼウスに向ける。

 彼女は全く動じない。撃ってみろと言わんばかりに無防備なままだった。

 照準補正なしでも当たる距離。頭を狙って一発だけ撃つ。

 しかし、弾は彼女に当たる直前で見えない壁にでも当たったかような音を立てて散った。

 続けて二発、三発と撃ってみたが全て同じ結果に終わった。

 元の場所に戻り、三上の向かった場所にあるメインコンピュータを壊すしかないのか。

 ここから、抜け出すにはどうすればいいのかも分からないままだ。

「私を壊そうなんて無駄なことは考えるな。意志をなくしても、生きている方がマシだろう」

 落着き払った声で言うゼウスに対し、僕は反論する。

「意志がないまま生きるのなんて、死んだも同然だ。人は何かのために生きている。それを見失うのは死ぬ事と同じだと僕は思う」

 今まで無気力な自分がここまで変わったのは、やはりこのプログラムに認められた沙耶と人として生活していたからだろう。

「少しは変わったと思っているのだろうが、それが本来のお前の考えだ。私は人の本性が分かる。どれだけ隠そうとしても、脳だけは噓をつかないからな」

 では、沙耶と僕が一緒にいる時、ゼウスは僕が本来どういう人間かを把握していたというのか。更に言えば、沙耶と接していたことで心理状態の変化があるというのも、この本性が目を覚ましたからということか。

 更科博士はまだ気付いていないだろう。

「もう満足か? 時間が惜しいんでな。制御シーケンスを開始させてもらう」

 ゼウスが宣言すると、同時に僕は今までの眠りから目を覚ましたような感覚に陥った。

 元の場所には、やはり雪乃さんや、秋江君の姿があった。

 ただ、沙耶の姿だけが見当たらない。

 メインコンピュータの元に向かったのでは、と思った僕は走り出そうとした。その時、気を失っていた雪乃さんが目を覚ます。

 彼女の名を呼んで寄り添った。

「伊織君、一体何があったの。そういえば、沙耶ちゃんを止めないと――」

 意志を乗っ取られていた間の記憶がないようだ。理由を話している時間もないので、今から沙耶を止めに行くとだけ告げた。

 三上が使ったエレベーターへの扉が開いていたので、雪乃さんの手を引いて乗り込んだ。

 意識が戻ってきたのか、何があったのかと、今度ははっきりとした声で問う。エレベーターが着くまでそれほどの時間は要さなかった。扉が開くと、長い道があり、奥に扉があるのを確認できたので、走りながら簡単に説明する。

 ゼウスが言う平和とは、人の意志をなくすこと。そのためには、最も適した人物である沙耶が必要であり、彼女自身もまたゼウスと同じ考えを持っていると。

「二人が本当に一緒になってしまえば、人の意志がなくなった世界になってしまうということ?」

「僕達の脳にはゼウスプログラムが入っている。まだ実装していない人もいますが、大多数の人間が意志を持って行動できなくなれば、人類の終わりと呼ぶにふさわしい結果になると考えているのでしょう」

 扉の前に立ち、電子ロックがかかっていることに気付いた。雪乃さんが、タッチパネルを操作し始める。

 ゼウスを起動してみたが、反応がない。操作不能となっている。外では、このことで大騒ぎしているのだろう。

 雪乃さんの開いたという言葉と同時に、自動扉が空気のプシュという軽い音をさせて左右に開く。

 中に入ると、やはり広いその場所には、真っ赤に光るカプセルに入れられた脳と三上の遺体。

 そして、力なく座る沙耶の後ろ姿があった。

「沙耶、戻ってくるんだ。君はゼウスと一緒にいてはいけない」

 足を踏み入れて、開口一番にそう告げる。返事はない。

「沙耶ちゃん、平和というものの在り方はもっと他にあるはずよ。だから、考え直して」

 雪乃さんも同じように説得を試みる。だが、同じく反応はない。

 彼女の元に行くしかない。そう思い、一歩を踏み出したが、そこから先に進めない。

 足が動かないこの感覚は、雪乃さんが操られていた時、勝手に動いた感覚と似ていた。

『邪魔をされては困る。沙耶は今から私と一つになるのだ』

 電子音声が響く。ゼウスが僕達の行動を制限している。

 名前を呼ばれた沙耶は立ち上がり、カプセルの元へと歩いていく。

 それに触れると、より一層赤い光の強さが増した。

 光に呑まれてしまい、僕の意識がそこで途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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