第6話 終焉

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 目が覚めると、台所から音が聞こえる。誰かが朝食の準備をしていた。それは他でもない、僕の妻である雪乃さんである。

 婚約してからもう一年が近い。記念日のための準備も一応進めている。

「起きたのね」

 笑いながら、僕をテーブルへと着かせて、目の前に座った。朝食を準備して共に食べ始める。

「今日は遅くなりそうです」

 僕が言うと、彼女も同じく残業することになるかもしれないと返した。夕飯はいつもの居酒屋に行こうということになった。

 仕事に行く準備をして、車に乗り込む。自動運転に切り替えた後、彼女があることを聞いてきた。

「この前作ってた途中のゲーム、完成した?」

 仕事の合間を使って作成しているパズルゲームのことだ。新しく問題を追加したので、雪乃さんの携帯端末へと送信する。

 この時だけではないのだが、誰かの携帯端末にデータを送るという行為に凄く違和感を感じてしまうのだ。その事を話すと、別におかしな部分はないと友人に返された。

 受信が完了したのか、早速彼女は遊び始めていた。

 今回の問題は結構難しいはずだ。前に出したのはすぐに解かれてしまったのだが、時間を費やして作成した今回のはそうはいかないだろう。

 新しく送った三問の内、二問目までは予想よりも早く解かれてしまった。

 最後の一問を随分と考え込んでいるようだ。僕は横で意地の悪い笑みを浮かべながら様子を見守る。

 雪乃さんが考えている間に、会社へと着いてしまった。

 地下の駐車場に停まった車から降り、未だ考えている彼女に声をかける。

 僕と雪乃さんは、部署は違うが同じ会社に勤めている。

 エレベーターで担当の部署がある部屋まで上がる。先に雪乃さんが下りる事になった。

「仕事が終わったら連絡ちょうだいね」

 エレベーター閉まるまで、手を振っていた。

 僕も自分の部署がある階に着いたので、廊下を歩き始める。

 扉を開けると、部下の皆が既に仕事に取りかかっていた。挨拶を返しつつ、自分のオフィスへと入った。

 背後に気配を感じたので、扉を開けておく。

「おはようございます、部長」

 いつも聞き慣れた女性の声。部下であり、秘書としての役割もしてくれる秋江瑞穂。今日も綺麗にスーツを着こなしている。

 すると、僕の視線に気付いたのか、

「セクハラで奥さんに言いつけますよ」

 と述べる。心でも読んだのかと思った。

 彼女は小さく笑ってから、今日の仕事を持ってきましたと、机に書類を置いて、部屋を後にした。

 雪乃さんと同い年なので、自分よりも年上の人が秘書というのは、複雑な気分だ。彼女は、僕のことを高く評価してくれてるらしい。

 一度、部署の皆で呑みに行った時、前の会社の上司が酷かったという話をされた。彼女はその上司に耐えられず、手を出してしまったことで職を失ったとか。両親に結婚するように迫られたが、女性だからなどという差別的な発言に反発した彼女は、この会社へ再就職をしたのだ。

 椅子に着く前にコートを掛けて、鞄を傍らに置いた。デスクトップパソコンの電源を入れる。

 書類に目を通しながら、パソコンに情報を打ち込んでいく。僕の仕事は、部下の皆が決めてきた仕事を上に報告するうえで、必要なものかどうかを判断すること。大体は可決なのだが。

 僕達の会社は携帯端末用のアプリケーション開発会社で、連携企業に端末の開発会社がいる。そこと商談して、新しいアプリの開発を行っているのだ。

 現時点で、最も人気の高いのは、生活支援アプリの『ゼウス』。

 簡単な話が、万能な検索アプリということ。自分のデータを一括で管理できるもので、趣味等の細かい一覧から、色々なことを勧めてくれるアプリ。

 勿論、それ以外にも様々なアプリの開発を行っている。

 昼時になって、休憩を挟もうと思い立ち上がった。

 メッセージの受信を知らせる通知音が端末から聞こえたので、確認する。雪乃さんからのお誘いだった。

 食堂へ行くと、先に来ていた彼女が、席を取ってくれていた。

「伊織君は何にする? 買ってくるから」

「いや、僕が行きますよ。雪乃さんはそのまま席を確保しといてください」

 それなら、と彼女はメニューを指差して言った。

 食券の販売機には結構な列が出来ている。待っている最中は、皆端末を弄るか、メニューを眺めているのどれか。

 僕はポケットから取り出した端末で、ニュースをチェックする。記事の一覧を眺めていると、面白いものを見つけた。

 ウチの会社と連携している、端末開発の会社が新製品を発表するそうだ。今日の夜中に正式な発表会が行われるらしい。

 開発部門のリーダーを勤めている、更科絵里子博士が写真で取り上げられている。まだ三〇代半ばという若さで、業界に革新を与える逸材とされている。

 記事の内容は、彼女の質問に対する答え等が書かれているが、新しい端末については夜の発表を待ってほしいとのこと。

 何故、彼女が博士と呼ばれるか。元は生物学者で、人間の体に携帯端末の機能を備える事ができるかという、他にはない研究をしているからだ。

 帰ったら雪乃さんと観てみようか、などと考えていると、販売機で買う順番が回ってきた。

 番号札を渡されたので、呼ばれるまで席に戻る。雪乃さんに、先程の記事について話そうとしたところ、彼女も同じニュースを観ていたらしい。

「私も開発部門だからね。常にアンテナを張らなくてはならないのよ」

 得意気に語る彼女は、まるで子どものようだ。でも、それも彼女を好きになった理由の一つであることに違いはない。

 昼食を終え、仕事に戻ることになった。残りの資料をチェックしていると、端末に通信が入る。相手は大学時代の友人。

「どうしたんだい、洋介」

 警視庁に勤めている相川洋介。キャリアを重ねている最中の、正義感が強い友人だ。

『今日の予定を確認しておきたくてな。今大丈夫か?』

 たまにこうして連絡を取り合っている。彼のこういう所は凄いと思う。僕も友人は大切にしているが、彼のように連絡を取り合う仲の人はほとんどいない。

「もう一度メッセージで送っておくよ。無理を言ってごめんね」

『いいじゃないか、綺麗な嫁さんもらいやがって。正直、伊織が俺達の中で唯一の既婚者って、今でも信じられないよ。だから、協力してやりてえんだ』

 笑いながら話す洋介に、僕も同じく笑って返す。

 そこで、もう一人の友人、及川学の話題が上がった。

「学は、今オーストラリアだっけ? この前帰ってきたと思ったら、また外国にいるんだから凄いと思うよ」

 彼は大学教授を勤めている。数学に関して、学会からも高い評価を受けているので、よく海外に渡って講師をすることがある。

『今度帰ってきたら、教授への就任祝いしてやろう。まだしてなかったからな』

「そうだね。いつ頃帰ってくるのか、僕も聞いてみるよ」

 洋介は、任せたと言って、仕事の話が着たから電話を切ると言った。

『すまないな、俺からかけておいて。メッセージの方、頼むよ』

 ああ、と返して通話を終える。早速、メッセージアプリを開いた僕は、今日の予定を書き記したメモをコピーして、洋介に送信した。

 久々に友人と話したことで、少し感じていた疲れがなくなった気がした。残りの仕事を片付けるべく、意気込む。



 残業をして二時間程で、仕事は片付いた。秋江君は先に帰らせておいた。後の仕事は僕一人でも充分出来るし、無駄に人を残す必要はなかったからだ。

 その仕事も今終えた。時間は二〇時前。雪乃さんにメッセージを送信すると同時に、メッセージを受信したという通知が入る。

 彼女の方も終わったらしい。荷物をまとめて、地下までエレベーターで下りる。

 まだ彼女は着いていないようだったので、乗り込んで待つことにした。

 今朝、雪乃さんに送信したゲームの続きを作ることにして、新しい問題を考える。プログラムを書きながら、難しい問題を思い付いたので、それを実装できるように書き出していく。

 それが、一通り終わった所で、僕はある場所へと電話をかけた。

「今から向かいます。準備の方は大丈夫でしょうか?」

 僕の問いに対して、向こうからは、いつでもどうぞという、頼もしい返答が返ってきた。

 そこで、ドアを開ける音がしたので、僕は通話を終えた。雪乃さんが、多きな溜め息を吐きながら乗り込んでくる。

「ごめんなさい、遅れてしまったわ。後片付けに時間がかかって」

「大丈夫ですよ。僕も暇つぶしをしてたところです」

 エンジンをかけ、車を走らせる。しばらく走ったところで、彼女が口を開いた。

「さっきの電話、相手は誰だったの?」

 突然の問いに、僕は見られてしまったのかと心の中で少し焦りを感じた。しかし、今日の午後にかかってきた洋介からの電話を思い出して、

「大学のときの友達からですよ。彼も残業していたみたいで気晴らしに僕に電話をかけてきたんですよ」

 雪乃さんは特に疑う感じもなく、そうなんだ、と納得してみせた。

 それから、少ししたところで、再度雪乃さんが話す。

「もうすぐ、更科博士の新作発表が始まる時間ね」

 ナビのモードを切り替えて、ネット中継を映し出した。まだ準備中のようだが、多くの記者や関係者が集まっているのが映し出されている。

 みんなの期待が高まっているということだ。

「以前の発表からもう一年ですからね。待ち望んでいる人もいたでしょう」

 僕の言葉に、雪乃さんはそうねと画面に釘付けになりながら頷く。

 しかし、そこで目的地に着いてしまった。

 続きは端末でネット中継を観ようということになった。

 車が停まったのは、居酒屋の前。僕が雪乃さんと仕事をする時期があった時に、連れてきてもらった場所である。

 入る前に、彼女を待たせた。何故かと聞かれたが、理由は明かせないので、とりあえず待ってほしいと頼む。

 あまり納得のいっていないようだったが、彼女はその場で待ってくれた。

 扉を開けて、暖簾のれんをくぐると、一人の女の子が小走りでやってくる。

 小さな声で、

「閏さん、準備は出来てます。雪乃さんは?」

 と僕に問いかける。

 この店の主人の娘、吉野奏。常連である雪乃さんと一緒に来ているうちに、僕も覚えられてしまった。

 毎回のように二人で来るので、かけられる言葉がパターン化されている。

「今表にいるよ。他のみんなはもう来ているのかい?」

 僕も小声で彼女に尋ねる。

 すると、奥からぞろぞろと人が出てきた。秋江君に、沙耶の両親。その他の会社の同僚達と、先程電話を掛けていた洋介も。

 よし、と意気込んだ僕に合わせて、皆が手にあるものを持つ。

「すみません、雪乃さん。どうぞ、入ってください」

 笑顔の僕とは対照的に、彼女はの表情は険しかった。

「入ってくださいって、ここはあなたのお店な訳じゃないでしょ」

 と、言いながらも店に入る彼女。

 その瞬間、何かが弾ける軽い音が響く。多くの紙吹雪が彼女の頭の上に落ちてくる。

「閏伊織さん、雪乃さん。結婚一周年、おめでとうございます」

 奏ちゃんの見た目に合った高い声が響く。それの後に、拍手が送られた。

 僕も続けて後に入る。

「ちょっと早いですけど、皆に協力してもらえるのが今日だけだったんです」

 僕の言葉に対し、雪乃さんは黙ったままであった。

 まだ、驚きが止まないのか。しかし、すぐに口元に手を当てて肩を震わせる。僕のことを強く抱きしめた彼女。周りから囃し立てる声がした。

「ありがとう。伊織君、ありがとう」

 震える声で、言う彼女を見ると、企画して良かったと思う。

 雪乃さんがようやく落ち着いた所で、皆が飲み始めた。僕だけは彼女と一緒に車に乗らなくてはならないので、烏龍茶にしておく。

 自動運転モードが実装された車が開発されても、飲酒運転は違法な扱いになるのだ。だから、僕は極力飲まないようにしている。

 彼女とこの店に来た時、いつもは飲む権利を順番に回しているのだが、僕はあまり飲もうと思わないので、大体彼女にその権利を与えている。

「部長、おめでとうございます」

 秋江君が、グラスを片手に歩み寄ってきた。僕とグラスを鳴らす。

「ありがとう。君が来てくれるなんて意外だと思ったよ」

 悪い意味ではない。ただ、彼女はあまりこういう場に顔を出したがらないと思ったのだ。

「そうですか? 私は、結構パーティなんか好きですよ。行く機会があまりないだけで」

 そう言うと、グラスに入っていたアルコールを一気に飲み干す。

 豪快な飲みっぷりに思わず、感心してしまった。

 再度、グラスに注いだ彼女は、雪乃さんの元にも歩み寄る。

 すると、次は奏ちゃんが僕の元にやってきた。

「閏さん、おめでとうございます。雪乃さんも凄く喜んでるみたいですね」

 笑顔で僕のグラスに自分の持っていたグラスを当てる。

 彼女はまだ高校生なので、当然アルコールは飲めない。そのため、ジュースを注いでいる。

「奏ちゃん達が協力してくれおかげだよ。本当にありがとう」

 頭を下げる僕の元に、彼女の両親もやってきた。

「堅いことは言わないでください。大事なお得意様のお祝いなんだ。ウチの店ぐらいならいつでも貸しますよ」

 奏ちゃんの父が豪快に笑う。

「素敵な旦那さんですね、閏さんは。主人にも見習ってほしいわ」

 母の言葉に、その笑い声は小さくなっていった。

 奏ちゃんが何か言いたそうにしているので、訊いてみた。

「私も、いつかこんなことしてみたいな、って思って」

 少し恥ずかしそうに言ってみせた彼女。

 僕は笑顔で、

「奏ちゃんなら、きっと素敵な人が見つかるさ。その時は、僕達を呼んでね」

 と答える。

 すると、背後から肩に手を回された。

「少女との恋愛は犯罪だぞ。嫁さんの前で手錠をかけられたくなかったら、そこまでにしとけ」

 アルコールの臭いをさせた洋介であった。

 酔っているわりには、まともなことを言っている。

「そんなんじゃないよ。洋介もありがとう。仕事が大変だろうに」

「水臭いことを言うな。さっきも電話で話したろ。お前に協力してやりてえってな」

 少し酔いが覚めたのか、僕の顔を見ずに言った。

 その時、洋介の端末に着信が入る。

「はい。何、今店の前? じゃあ、入ってこいよ」

 誰か来るのだろうか。それを問うが、彼は見てからのお楽しみだと濁して返す。

「ここで合ってますよね?」

そう言いながら入ってきたのは、僕のもう一人の友人。海外に行っている最中だと思われていた及川学の姿であった。

「学、どうしてここに?」

 僕は驚きを隠せなかった。彼が何故ここにいるのか。

 洋介が呼んだのだと言う。

「今日帰国したばかりだったんだ。洋介に、伊織の結婚記念日を祝うパーティをやるから来いって言われて」

 笑って答える学の顔を久々に見た。

 僕に対しても、ちょっとしたサプライズだと、洋介が笑って言う。

 とんでもない、最高のサプライズだと思った。

 パーティの中盤頃になって、雪乃さんと二人で座る。相変わらず皆は騒いでいるし、雪乃さんも少しアルコールが回っているようであった。

 そこで、例の更科博士の新作発表会のことを思い出した。折角なので、ここにいる皆で、それを観ようと提案した。

 奏ちゃんの父が、趣味で持っていたプロジェクターを引っ張り出してきて、僕の端末と接続することで、ネット中継の映像が流れ始めるようになった。

 それは、ちょうど始まる直前であった。更科博士が壇上へと出てくる。

 まずは深く礼をした彼女。記者達の中には既に写真を撮り始めている者もいる。

 インカムが正常かテストした後、話し始めた。

『今日の発表会のためにお集りいただき、ありがとうございます。カメラの向こうでこの中継を観ている方も、同様に』

 と、感謝の言葉を述べてから始まる。

 今日の発表会で紹介される製品について、早速質問が為された。

 博士は落着き払った声で、少し待つように言った。

 後方を振り返り、何かの合図を送る。すると、スクリーンに映像が映し出される。博士が手を目の前に持ってくると、スクリーンに手が映る。

 博士が記者達の方を向き直ると、スクリーンの映像も動いて、記者達の姿が映し出されていた。

 この時点で、もう気付いている人間は多いかもしれない。

 彼女が新しく開発した携帯端末というのが、何なのか。

『もうお気付きになられた方もいるかもしれません。今回の端末は――』

 自分の胸に片手を当てながら、

『私達の体です』

 と簡潔に述べた。

 発表会の会場内、ネットでの中継、観ている人間の全てに動揺が感じられる。『私自身が被験者となり、使ってみせているのです。私の体内には、新しく作られたプログラムが入っているのです。その名は”ゼウス”。運用されたばかりの生活支援アプリを人間用に変えたものです』

 名前を聞いた瞬間、納得できた。彼女は、ゼウスをアプリから直接人間の体内埋め込むことに成功したのだ。自分が被験者となることで、それを証明してみせた。

『ただ、ゼウスを体内に埋め込んだだけでは意味を為しません。そこで、これが必要となるのです』

 胸の内ポケットから、小さなケースを取り出した。

 それは、コンタクトレンズであった。

 ゼウスの機能を最大限活かすための、拡張現実を可能としたコンタクトレンズ。視界に、様々な表示が出てくる仕組み。

 実際に使ってみせましょうと、博士が手を上げると。スクリーンにメッセージを受信したという表示が出てきた。

 それに指で触れると、メッセージウインドウが開く。会場内では、驚きと期待に満ちた声が上がった。

 雪乃さんも、小さくだが驚いた声を出す。

 開かれたメッセージは、博士の助手からのものであった。

 携帯端末を持つよりも、手軽で便利だと言う博士。

 ゼウスプログラムをどうして体に導入しているのかという質問が為された。

 彼女は、再度白衣のポケットから、何かを取り出す。

 出てきたのはペン型の注射器であった。

『これには、マイクロコンピュータが多く入っています。これを注射することで、私達の体内にゼウスが入ったことになるのです。この拡張現実用のコンタクトレンスが、皆さんの視界が全てディスプレイとされます』

 少しの空白の後、会場で拍手の音が聞こえ始める。

 僕達の端末にも、それは響いてくる。ネット中継はそこで終わった。

「今の何だ? とにかく凄いってことしか分からなかった」

 洋介が顔を真っ赤にしながら、冷静に言った。

「あの発明が実装されれば、また一つ、この業界の革新に繋がるというわけですね。流石、更科博士です」

 グラスに入っていたアルコールを飲み切った秋江君が言う。

 雪乃さんは、興奮が抑え切れていないのが伝わってくる口調で、皆に今のことを解説し始めた。

 アルコールが入っているため、皆ちゃんとは頭に入っていないだろう。それでも、雪乃さんが現時点で纏めた解説は分かり易かった。

 ただその間、僕は一言も言葉を発さなかった。再び、皆が騒ぎ出したところで、戻ってきた雪乃さんに声をかけられた。

「さっきからずっと黙ってるけど。どうかしたの」

 どう答えればいいのか分からなかった。言葉にし難い違和感があるのだ。

 今日の発表会を僕は以前も観たことのあるような気がした。あの拡張現実用のコンタクトレンズを観ても、ゼウスを体内に入れるということにも、あまり驚きを感じなかった。

 零ではないが、それに等しい。

 しかし、変なことを言って彼女に心配をかけたくない。

「あまりにも凄い発表だったので、見入ってました。これが一般に運用されるようになったら、僕達の仕事も更に大変そうですけど」

 苦笑して答えてみせた。

 雪乃さんも、それで納得したのか、それ以上は追求しなかった。

 料理を口に運びながら、発表会のことをずっと話していた。僕は相づちを打ちながら、心の奥底で先程の違和感について考えていた。

 酔いの回り始めた雪乃さんが、そのまま眠りに就きそうだったので、これで今日のパーティをお開きにすることとなった。

 協力してくれた全ての人に、お礼を述べた。

 学は、また海外へ行ってしまうらしいが、しばらくは日本にいれそうなので、また会おうと約束をした。

 奏ちゃんに、気を付けて帰るように言われ、僕は笑顔で礼を述べた。雪乃さんに肩を貸しながら、車まで歩いて行く。

 助手席に着かせると、気持ちよさそうに寝てしまった。リクライニングシートを少し倒して、寝易くする。

 運転席に着いて、車を家に向かって走らせ始めた。その間、先程の中継を再生する。

 博士がスクリーンに映像を映し出した部分から再生を始めた。

 自分の体を端末として使うことが出来る、拡張現実を用いた視界のディスプレイ。

 やはり、知っている。僕は大分前からこの機能ことを知っているのだ。

 だから、携帯端末を使ってのメッセージのやり取りにも違和感を感じていたのだ。

 ただ、今日はもうそんなことを考える余裕はない。また明日から、そのことについて考えることにした。

 これから、あの自分の体を端末として使うことが出来るプログラムとコンタクトレンズが普及していくうちに、分かってくるような気もする。


 家に着いて、ガレージへと自動で入る車。僕は雪乃さんの体を揺すった。

 しかし、起きる気配がない。一旦車から下りて、外から助手席の扉を開けることで、彼女を抱きかかえた。

 荷物は後から取りにくればいいだろう。

 ガレージを出て、玄関まで歩いて行く。その途中、僕は背後に気配を感じた。雪乃さんを抱えたまま後ろをゆっくりと振り返った。

 だが、そこには誰もいない。たまにあることなのだ。家の前で、決まって誰かが背後にいるような感覚に陥る。

 でも、毎度のことながら誰もいない。なのに、僕は振り返らずにはいられない。

 気にしないようにして、家の鍵を開ける。指紋センサーに雪乃さんの指を当て、鍵が開いたのを確認してから扉に手をかける。

 玄関にある、人感センサーによってライトが点灯する。雪乃さんを入り口付近の壁に寄り添わせるようにして、下ろす。

 車に置いてきた鞄を取りに再び戻った。僕と雪乃さんのそれを持ち、車のドアを完全にロックする。

 ガレージにも同じく、ロックをかけて閉めた。

 戻ると、相変わらず眠っている彼女の姿があった。

 荷物は、玄関の横に置いておくことにした。どうせ、明日も会社なのだから、ここに置いても問題はない。

 再度、雪乃さんを抱きかかえ、二階の寝室へと向かう。今日はこのまま寝かせておいた方がいいだろうと思ったためだ。

 扉を開け、ベッドに彼女を寝かせる。格好もスーツのままでは良くないと思い、上着だけでも脱がそうと手をかけた時だ。

 突然、自分のネクタイを掴まれ、引っ張られた。

 僕の唇に、雪乃さんの生暖かい唇が触れる。そのまましばらくの時が過ぎて、僕を離した彼女の顔は赤く、酒に酔っているままだと思った。

「脱いで」

 と、小さく彼女が呟く。酒に酔った彼女が僕に迫るのは珍しいことではない。今日もなんとなくそんな予感はしていたのだ。

 僕はコートと上着を脱ぐ。彼女のシャツに手をかけて、ボタンを外していく。アルコールが入っているためか、体が熱い。

 柔らかい肌に触れると、彼女小さく声を出す。

 そのまま服を脱がして行くと同時に、僕も同じく服を脱ぎ去った。

 ベッドに寝転ぶ彼女の熱い体に触れる。シーツを強く掴みながら、彼女が恥ずかしさに耐えているのが分かる。

 その姿を見ると、僕までその気にさせられてしまった。

 体を重ね、体温を共有する。ベッドの軋む音が部屋に響く。同時に彼女が、強く僕の体を抱きしめた。

 柔らかい乳房の感触が、伝わってくる。

 そのまま、彼女は疲れてしまったのか、再び眠りに就いた。

 僕もかなりの疲労が感じられたのだが、体を起こし、リビングへと向かう。冷蔵庫の中にある水の入ったペットボトルを一口だけ口に含む。

 熱くなっていた体を少しでも冷やすかのように、体内に冷水がかけめぐる。大きく息を吐いて、僕は椅子に腰掛けた。

 彼女との行為の最中、また違和感を覚えた。別に今日が初めてな訳ではないのだ。しかし、今日は特に違和感を覚えてばかりの日な気がする。

 お互いに気持ち良さを共有するはずの行為の最中でさえ、僕は何かおかしな感覚を味わっていた。

 一体、何だと言うのか。違和感だ。違和感が僕を支配するのが分かる。

 どうすれば、この違和感を拭い去ることが出来るのか。僕は考え始めた。

 しかし、疲労による睡魔に襲われて、段々と眠りに就きそうだ。



 そこで映像が途切れた。

 椅子に座っていた一人の少女は、真っ黒になったスクリーンを眺めながら動こうとしない。

 これが、閏伊織という人間が理想としていた世界。もう一つの可能性の世界であったのだ。

 少女に語りかけるのは、もう一人の別の少女。

「どうだった。一年振りに彼を観た感想は」

 その問いに対して、椅子に座ったままの少女は、静かに答える。

「これで良かった。人類は、夢を見ているのが一番の平和なんだわ」

 そう言うと、立ち上がった彼女は、背後に並ぶ無数の巨大なカプセルに入った人々を眺めた。

「それにしても、何故今日になってあの男の夢を見たくなったの?」

 再び問われた少女は、歩きながら答える。

「今日は、平和が実現された日から一年。記念日だからね。意志がなくなって、考えることを出来なくなった皆は今も夢を見続けている。私とあなたの手によってね」

 そう言うと、一つのカプセルに手を添えた。中にいるのは、一人の男性。先程、少女が見ていた閏伊織であった。

 二〇五〇年、ゼウスプログラムによって、全人類の意志が完全に消滅してから一年後の今。

 残った二人の少女は、全ての人間を本当の死を迎えるまで保存することとした。この無数のカプセルには、老若男女の全ての人間が収められている。

「ゼウス、あなたと私は平和分かち合う代わりに、何をもらったと思う?」

 問われた少女は首を横に振る。

「全知全能のあなたでも、それだけは分からないでしょうね」

 すると、ゼウスと呼ばれたその少女は、あなたには分かるのかと問い返した。対する少女は少し歩いてから、立ち止まり。

「孤独だよ」

 と答える。

 孤独。永劫の安寧というものを実現した者に残されたのは、永久の孤独であった。

 それは、勝手に全人類の意志決定を行った者への最高の罰であった。

「私は、もう人ですらない。神になったわけでもなければ、プログラムでもない。同じ存在がこの世にいない私は、孤独。でもね、それが罰だって言うんなら、喜んで受けるよ」

 言った彼女は、ゼウスのことを押し倒す。力一杯に地面へと抑え付ける。

「痛い。痛いよ、沙耶」

 表情から辛いのがよく分かる。それでも、沙耶は止めない。

「この一年、人の夢を見ながら考えた。平和というのは、個人の認識によるところが大きいものなんだって。そんな簡単なことにも気付かないぐらい、私は愚かだったの。私にとっての平和は、安寧はね――」

 そう言うと同時に、肩に当てていた手を、首へと移動させた。

 ゼウスが苦しそうに抵抗を見せる。

「死なんだ。死こそが、永劫の安寧を手に入れるための手段。だから、あなたも連れていってあげる。だって、知りたかったんだものね。平和が何なのかを」

「沙耶、止めて。お願いだから――今の世界こそが平和の象徴だと言ったじゃない――」

 掠れる声で訴えるゼウスに対し、沙耶の力が弱まることはない。

 やがて、抵抗の意志がなくなったゼウスに対し、沙耶は口づけを交わす。

「今から、私が皆を連れて行くね」

 沙耶は力なく立ち上がると、再度あのスクリーンの前まで歩いて行く。彼女の脳内には、まだ人間であった頃に過ごした閏伊織との記憶がフラッシュバックする。

 目の前に映像として流れる光景に、沙耶は涙を流しながら、しかし笑みを浮かべながら歩く。

 椅子の向きを変えて、カプセルの方を向いて座る。

 傍らに置かれていた拳銃を手に取る。それは、閏伊織が斎川雪乃の体を乗っ取ったゼウスに対して使ったもの。

 側頭に銃口を押し当てた沙耶は、満面の笑みで言う。

「ありがとう、世界。ありがとう、皆。ありがとう、伊織さん、そしてごめんなさい」

 銃声が響くと同時に、彼女の手から銃が落ちる。

 項垂れたままの、折本沙耶が目を覚ますことはなかった。

 

 



 

 


 

 

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