第2話 五日の有余

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 突然姿を現して、自分を誘拐してほしいという少女を家に置いての本格的な一日目。僕は不本意ながらも誘拐犯とされるわけだが、いつも通り出社する。

 車が会社に着いたところで、アラームが鳴ったので目を覚ました。

 降車し、地下の駐車場からエレベーターで自分の部署がある階まで上がる。

 目的の階に着いたことを知らせるエレベーターの音が鳴り、僕は自分の部署まで歩いていく。

 扉を開けると、早くから出勤している部下達の姿があった。

 皆に挨拶を返しながら、僕は真っ直ぐに自分の執務室へと向かう。

 いつもより早い時間ではあるが、それでもまだ遅いと言われているような気分にさせられる。

 しかし、今日はちゃんと出勤時刻を守っているので、秋江君による叱責もないだろう。彼女よりも早く来たのは久々のはずだから、驚くだろう。

 出勤してから三〇分後、扉をノックする音が聞こえてきた。

 承認をすると、鍵が開く。

 訪ねてきたのは秋江君で、少し驚いた表情を見せた後、直に仕事の話に移った。

「今日はお早いのですね」

 しかし、我慢ができなかったのか、思ったままであろう言葉を僕に述べた。

 別に気を悪くすることでもないので、色々あってねとだけ答えておく。

 沙耶がいなければ、いつも通りテレビでも見て、ゆっくりと出勤している頃だろう。

 彼女にそんな姿を見せるのは良くないし、何よりも今日は他に用事もあるので、仕事を早く終わらせたいという思いが強い。

 秋江君が退出して、仕事に取りかかる。部下から企画書に目を通し、可否を決める。

 ゼウスに対する新機能などを提案するのも内の部の仕事だ。僕もたまに会議に参加し、部下達の企画についての説明などを行う。

 当然、ちゃんと彼ら彼女らの企画であることは強調して。

 仕事の合間に、時間を窺う。

 そろそろかと思った僕は、ゼウスにメッセージ作成の指示を出す。

 机に目をやると、電子のキーパッドが表示されるので、それを叩く。勿論、見えるのは僕の視界でだけだ。

 相手は僕達の提携会社、ゼウスプログラムの開発を行った大企業「ゼウテック社」の技術開発部門研究所所長。

 その人こそが、沙耶の保護者とされている。

 メッセージには、今日時間をもらえるかということを、自分の経歴なども添えて書いた。

 すると、数分で返信を知らせる通知が鳴る。

参照リファレンス

 指示に応じて届いたメッセージが開かれる。

 送り主は、ゼノテックの技術開発部門研究所所長――の助手からであった。

『メッセージを拝見致しました。申し訳ございませんが、室長である更科さらしなは学術論文の発表会のため、アメリカに発っております。帰国は五日後になるので、本日は面会をすることができません。更科の方には連絡を入れさせて頂きました――』

 面会については予定を検討中ですという一言が添えられ、メッセージは終わっていた。

 少し溜め息を吐く。人類の技術の最先端を走る人だ、そう簡単に会えるとは思ってもなかった。

 しかし、明日には会えるだろうと思っていたのだが、それも叶わなかったことが大きい。

 五日後。そう言えば、沙耶も自分を誘拐してほしいと言った理由や、その他のことが分かるまでの時間として、同じ期間を示していたなと思った。

 もしかして、彼女が来たことに更科博士が絡んでいるのでは? と、心の隅に置いておく。


 昼過ぎの頃。食堂へ行くと、雪乃さんと遭遇した。

「奇遇ね」

 彼女は一つ席を空けて、僕の隣に座る。

 会社では、お互い仕事仲間という体で接しなくてはならない。

 実際、仕事仲間であることには変わりないのだから、不思議でもない。

 昼食を終えて執務室に戻ろうとした時、席を立ち、歩いている僕に個人メッセージが送られてきた。

 ゼウスがそれを自動で開いて表示する。

『何か悩み事でもある?』

 内心、凄く焦りを感じた。定食のトレーの返却場所から、今も僕の座っていた席の一つ空けて隣に座る彼女を見る。

 こちらを見てはいないが、気付かれては余計心配をかけそうなので、目を逸らす。

 返信するためのメッセージを作成する。

『悩みなんてありませんよ。ありがとうございます』

 簡単な内容を書き込んで送信した。

 執務室に戻って、彼女の観察眼は恐ろしいものだと改めて思い知った。


 その日の仕事を終えて家に帰ろうとした際、秋江君に呼び止められた。

「何か困ったことでもありました?」

 またか、と思いながら、

「困ってるように見える?」

 と返す。

 そのように見えました、と彼女は頭を下げる。

 挨拶を述べて、会社を後にした。


 家に帰ると、キッチンには沙耶の姿があった。

 僕が帰ってくるのに気付くなり、笑顔でお帰りなさいと言う。

 悩みの種となっている人物にそのような笑みを向けられても、やはり嬉しくはない。

 服を着替え、リビングに戻ると、彼女が夕飯を用意していたのでいただくことになった。

 朝も思ったのだが、彼女の料理の腕は良い方、というか普通に上手い。

 彼女の保護者は、学会が認める天才科学者。莫大な金額をもらっているに違いないし、使用人などがいそうな気もする。

「家はそんなのいないよ。いても、私は自分で色々したいからあまり意味がないと思う」

 読まれたか、と苦い表情を作る。

 彼女がどのタイミングで僕の思考を読んでいるのか分からない。まさか、常時読まれていて、彼女が気になった時だけ口に出しているとか。

 もしそうだとすれば、今考えていることも筒抜けになっているのでは。

 そこで、考えるのを止めた。

 仕事について、頭の中で整理しておくことにした。

 夕飯を終えて、彼女の横に並んで食器の整理をしている時だった。

「ねえ、閏さん。明日ってお休みなんでしょ?」

 言われて、僕は何故知っているのかと問う。

 さっき、仕事のことも考えてたでしょうと言われ、なるほどと思った。

「それで、僕が休みだったら何かあるのかい?」

 問うと、彼女はお願いがあるのと述べる。

「出かけたいんです。新宿に連れいってもらえませんか?」

 ここで彼女は、頼み事をする時だけは敬語を使うのだな気付く。

 しかし、新宿に何の用事がるというのか。電車一本で行けるような場所だし、態々僕がついていくこともないだろう。

 すると、僕の思考を読んだであろう彼女が、まだ行ったことのない場所で不安だからと言う。僕なら行ったことぐらいはあるだろうと彼女は思ったらしいが、本当に行ったのは数回程度で、案内できる程の知識もない。

 向こうに着いた後は、自分が行きたい場所までの道のりを調べると行ったので、とりあえず、付き添いがいないと不安なのだなということで了承した。

 肝心の理由にはついては、明日行けば分かると、そこで話を終わりにされた。



 いつも通りの七時に目が覚める。昨日と同様に沙耶が朝食の準備をしていた。席に着いて、食べている最中に僕はふと疑問に思ったことを彼女に訊いてみた。「昨日僕が帰ってきた時に制服を着てたけど、まさかそれと寝間着しか持っていないの?」

 今僕の目の前に座っている彼女が、昨日と同じ寝間着だったのが、疑問の始まりかもしれない。

「一昨日も学校があったから、あまり服を持って来れなかったの」

 成る程、と納得した。

 しかし、平日の昼間から制服姿の女子高生を、新宿などという町で連れ回していたのでは怪しいだろう。

 そこで、僕は新しく服を購入しにいく提案をした。

 近辺で沙耶ぐらいの年の女性が着そうな服を扱っている店をゼウスに検索させる。

 会社へ向かう途中の道は避ける。知り合いに会う可能性が少なくもない。

 反対方向に該当する店が意外と見つかった。そこの店を回ってみることにしようと提案する。

 しかし、一人で先へと話を進める僕を彼女が止めた。

 これ以上は迷惑はかけられないと言う。しかし、僕自身が怪しまれるというのを避けたいために行っていることなので、気にすることはないと返す。

 それに誘拐されている身である沙耶をそのままの姿で連れ歩く訳にもいかないだろうとも。

 彼女は苦笑して、ありがとうございますと述べた。


 朝食を終えてからしばらくしたところで家を出た。

 先程決めた店の住所を車のナビに送信すると、自動運転でそこまで向かってくれる。

 移動中、会話がない気まずい空気が流れた。

 僕は初日にした質問を窓の外を眺めている彼女にしてみた。

「誘拐してほしいって理由、やっぱりまだ話せないのかい?」

 彼女はこちらに顔を向けたが、自分の足下へと視線を落として、謝罪する。

 三日後には必ず理由は明かされると言うが、僕は調べたことを話す。

「三日後というのは、ゼウテック社の秘術開発部門にいる君の叔母が帰ってくる日だから?」

 彼女は目を丸くして、こちらを見つめ、調べたのねと言う。

 自身の情報を調べてもいいよう承認をしたのは彼女自身だ。

 保護者である更科という女性について、僕は知りえる情報を語る。

「更科絵里子、世界の技術の最先端を行く人物の一人。ゼウスプログラムの産みの親であり、ゼウテック社の技術開発研究所所長を努める。姉である更科光希、君のお母さんを亡くしたのが一二年前。幼かった君を引き取ったのもその直後だ。ゼウスプログラムが出来たのもほとんど同時期だったはずだ」

 僕が語るのを、つまらないといった表情で沙耶は聞いていた。

 聞き流していたかもしれないが。

「何故、更科博士の元から逃げてきたのか、どうしても僕が彼女本人と会うまでは話せないか」

 どっちにしても、後三日だ。三日後に必ず会えるという可能性はないが、そう思うことにした。

 その後、会話することもなく、目的地へと着いた。


 自分も世間一般では若い方だろうが、もうこんな店に入る程の若さではないと思わされるぐらい、店は若者で一杯であった。

 学校のある時間のはずなのに、何故こんなにも若い女の子がいるのか。男性もいるが、大体は彼女の付き添いで来ているような感じか。

 などと別のことを考えていないと気が落ち着かない。

 店に入って一〇分と経たない内に沙耶は服を持って試着室へと入っていった。今は態々試着室へと直に服を持ち込まなくても、ホログラム投影によって実際着た時にはどうなるかのイメージを映し出してくれる。

 他の若い子達もその方が手間も省けるので、利用していた。

 そろそろ出てきてくれないだろうか、落ち着かないという様々な思いを読み取ったのか、試着室のカーテンが開かれた。

 薄いピンクのジャンパースカートに白いシャツを来た姿。

「どう、似合う?」

 車では何も話さないうえに、店に着いても何も言わずに早々と試着室へと向かったので、彼女は不機嫌だと思っていたのだが、どうも違ったようだ。

 照れたように笑う彼女に似合っているとだけ言って、その服と合わせて他にもいくつか購入して店を出た。

 そこで、声をかけられる。

「ありがとう」

 言って、笑顔で歩いていく彼女の後ろを着いていく。


 新宿に着いたのはそれから、四〇分程。時間的には昼下がりだ。

 繁華街である歌舞伎町は昼でも賑やかだった。

 しかし、こんな場所に来る等、本当に何の用があるというのか。

 大通りから入れる裏路地のビルの一つ、そこにあるは探偵事務所と窓に記されている古いビルであった。

 そこへと入っていこうとする沙耶の手を掴む。

「一体、何の用があるって言うんだ。君は自分で誘拐してくれと言いながら探偵と話をするっていうのか」

 すると、彼女はゆっくりと手をほどいた。

「探偵と言っても警察とは違いますから。安心してください」

 そう言って入っていく。躊躇しながら、僕は着いていった。

 扉をノックして、彼女は返答も待たずに開けた。

 中にはソファに寝転がる男が一人。

 僕達に気付いた男とは体を起こして、沙耶を見るなり一言、

「君は、沙耶ちゃんか?」

 その問いに、久しぶりだねと返す彼女。

 素早く周りを片付け、僕と沙耶に向かい合って座る彼。

「汚い所ですみません。私はこういうものです」

 渡された名刺には『杉村探偵事務所 杉村義男』と書かれていた。

 沙耶との関係について質問した。

「沙耶ちゃんの父親、折本とは高校の同級生です。あいつが亡くなる前、沙耶ちゃんのことを頼まれたので、よく様子を見に行っていたので」

 そこで、ふと気にかかることになった。

 沙耶の両親は何故亡くなったのかについてだ。

 資料には幼い頃に亡くしたとしか書かれていなかった。

「二人は交通事故で亡くなりました。その時、沙耶ちゃんだけは、学校に行っている最中だったんです」

 成る程、と納得した僕の隣で、沙耶が口を開く。

「違う、お父さんとお母さんは事故死なんかじゃない」

 僕は当然その言葉が気になったが、それよりも杉村氏が沙耶を苦い表情で見たことが印象強かった。

 ソファから立ち上がった彼は、後ろにある棚から一つのファイルを取り出し、開いた状態で机に置く。

 そこには、交通事故に関する記事。沙耶の両親が亡くなったとされる記事があった。

 了承を得て、ページをめくる。

 何ページかに渡って続く沙耶の両親の事故についての記事。

 それが終わった所で僕は気付いた。

 全部同じように見える記事だが、いくつか違いがある。

 交通事故が意図的に起こされたものだと書かれた記事があるのだ。

 最初はそう書いていなかった新聞社や雑誌も同じことを書き始めている。

「あの事故は意図的に起こされたものだという可能性、ゼロではありません。一〇年近く前、今の車に備わっている自動運転機能は完璧なものではなかった。開発会社に疑いがかけられましたが、私はその会社は関係ないと思っています」

 煙草に火を点けて、一服した杉村氏が語る。

「何らかの集団、あるいは個人が折本達の車に細工をして事故死を装ったのかもしれない」

「これだけ多くのメディアがそのように言っているのなら、本当に車の不備がなかったのか調べられるんじゃないですか?」

 僕の質問に彼は首を横に振った。

「その記事を書いた記者達ね……全員辞めさせられたんです」

 自然と口から疑問の声が出ていた。

 中には行方の掴めなくなった者もいるという。

 つまり、何らかの巨大な力によって押さえ付けられたのだ。当然、沙耶の乗っていた両親の車もシステムに不備がないかを調べられることはなかった。

 彼女がここに来た理由は、杉村氏と自分が会うためではなく、僕にこの話を聞かせるためだったのか。

「半分当たり」

 横で何も言わずに見ていた沙耶が言った。

 半分は当たっているということは、もう半分は何だというのか。

 今度は沙耶が杉村氏と話す。

「杉村さん、事件の詳細をもっと詳しく教えてください」

 力強い彼女の目を見た彼は、煙草を灰皿に押し当てて頷いた。

 杉村氏が独自に集めたファイルを更に幾つか机に置いた。

 紙媒体をスクラップにしてここまで保存している人物は久々に見たかもしれない。

 近年、正確にはゼウスプログラムが出来る少し前から、様々な物の電子化が進んだ。近未来への希望というか憧れを持った学者達が研究を進め、自動で動くシステム等を開発し、人々の生活の負担や危険を更に減らすことを目標に日々研究を重ねている。

 だから、ここ最近では紙媒体のものも激減しているのだ。

 ファイルを一ページずつ、しっかりと読みながら進めていく沙耶。

 ここに来た半分の理由は、事件のことをより知るためと、自分がこの事に関して詳しく知りたいと思っていたことを僕に教えるためでもあったのか。

 そう考えると、彼女の口元が微かに歪んだ。当たりらしい、心の中で呟く。

 ここに来て約二時間は経っただろうか。杉村氏に出されたコーヒーを飲みながら、僕も彼女と同じように事件について書かれている記事を読む。

 事件当日、折本夫妻は自宅へと戻る途中の道路で、ガードレールを突き破り、歩道にまで乗り込む事故を起こした。

 その後、病院へと搬送されたが、二人とも息を引き取る。

 一人娘の沙耶だけが、学校に行っている最中だったために助かった。

 これに対して、別の記事では事故には不自然な点があると述べる。

 まず、夫妻の乗る車が突然、対向車線を越えて歩道にまで乗り込んだこと。

 目撃者の証言では、普通に走っていた車が突然あんな動きをするのが不自然であったと書かれている。

 それに伴い、考えられるのは運転手の状態だ。

 もしかすると、走行中に心臓発作などの症状が出たのでは、と言う考えもあったので調べたという。

 しかし、夫妻ともにそのような病気を発症した形跡が見られなかった。

 ヒューマンエラーの可能性もあった。ハンドルを誤って切ったのではという。様々な説が唱えられたようだが、どれも解明されないまま事故という、半ば強制的に幕を下ろされる形となった。


 昼過ぎからずっと、事件の詳細を調べるのに時間を費やしていた。

 空はもう暗くなっていたが、ネオンによる人工的な明かりに囲まれているので、地上にいる僕らはそれほど暗いとは感じない。

 杉村氏に礼を述べて、僕らは車のある場所まで歩いていく。

「今日やりたいことは、出来たかな?」

 僕が問うと、彼女はうん、と頷く。

 しかし、その表情はどこかまだ不満があるようでもあった。

「君が僕のもとに来たのは、この事件のことをちゃんと解明したかったからで、合っているのかな?」

 しかし、彼女は首を振った。

 僕に事件のことを知らせるということは合っていたようだが、それが誘拐の理由に直結する訳ではないらしい。

 とにかく、今日はもうどこに行く予定もないので家に帰ろうということになった。

 帰りの車内でも、彼女は何も話さないままで、僕も声をかけるということはしなかった。

 家に着いてすぐ、彼女がシャワーを浴びに浴室へと向かったので、僕はリビングで、今日のことを整理する。

 ゼウスにメモを取らせ、それを視界に表示された掲示板に張り付けて、見やすく整える。

 沙耶の両親の死は事故か意図的に行われたものなのか、それをハッキリさせることと、彼女が僕の元へ来た理由を明かすことが重要な鍵だ。



 翌日、仕事に行く僕を初日と同じように見送る彼女。やはり、学校には行かないつもりらしい。

 それにしても、学校も彼女が二日間も無断欠席をしたのなら、家に連絡の一つでも入れるのが常識ではないだろうか?

 彼女の保護者である更科博士が国外にいるために、安否の確認を取ることは難しいだろうが、それにしてもと思う。

 しかし、探さないならそれはそれで都合が良い。

 彼女が言う五日後まで今日を入れて三日。ここで捕まっては、事の真相にも辿り着けないだろうし、それは沙耶の方も同じことだろう。

 だから、これでいいと思いながら僕は会社へと向かう。


 いつも通り、特に代わり映えしない。秋江君に仕事を持ってこられ、僕は部下達の考案したものに目を通し、可否の判を押していく。

 たまに間が空いたら、資料の整理であったり、掲示板のWebサイトを巡回してみるなど、様々な方法で時間を潰す。

 後、作っていたパズルゲームの問題を考えてみたり。

 ゼウスプログラムとは何なのか。何て事も時々考えてみる。

 ある人は人類の知識の集大成であり、どんなことでも教えてくれる神のプログラムと言う。

 ある人は人類の在り方を変えてしまった、人を人ではなくしてしまうプログラムだと言う。

 どっちの意見も正しく、間違いである。

 僕としては前者の方が好きだが、後者の人文主義者のような考え方も悪くないとは思う。

 そして、僕が思うに一番の正解は、考えないことだ。

 人の知識の集大成だとか、人ではなくなってしまうだとか、そう言ったことを考えないで、自分の意志で組み込むことが結局は正しい選択と呼べるのではないだろうか。

 大切なのは、意志を持つこと。

 そう言った点では後者に近い考えかもしれない。


 終業時間の直前で、前に雪乃さんに遊んでもらったパズルゲームの新しい問題が完成した。手元にあった仕事は早々と片付けていたので、暇だったのだ。以前の五問目に改良を施したものと、新しく出来た六問目の計二問。

 時間を要する作業なため、進捗は亀の歩みも同然だ。

 しかし、それでいい。すぐに出来てしまっては、作っている方としても面白みにかける。

 溜め息を吐いて、疲れを感じる。

 椅子から立ち上がり、荷物をまとめた僕は執務室を後にした。

 後二日。今日も特に何事もなく一日が終わったことに安心しつつ、どこか心の奥で不安も少し感じている自分に気付いた。

 いつ不測の事態が起こるかは分からない。

 更科博士と会うことが出来るのも、もしかすると先に伸びるかもしれない訳で、沙耶が始めに言った五日間というのが実現される絶対的な保証はない。

 他に横を走り抜けていく車の眺めながら、僕はリクライニングを少し倒して考えていた。


 家に着いて、前の二日間と同じように沙耶が玄関まで来て僕の鞄を取り、いつもの定位置に置く。

 そして、夕飯までの時間を僕はニュースを眺め、あのパズルの問題の参考になりそうな資料を読んだりして待つ。

 彼女に呼ばれて、食卓に着き、たまに言葉を交わしながら箸を進める。

 沙耶が食器を片付けようとした時だった。

 インターホンの鳴る音がしたので、が来たのか確認するために、インターホンに取り付けられているカメラの映像を映し出すようゼウスに指示を出す。

 僕の視界のディスプレイに映し出されたのは、カメラをから目を逸らして庭の方でも観ているであろう雪乃さんの姿であった。

 何故、彼女がここに。という疑問と同時に冷や汗が出てきた。

 ゼウスプログラムを通して、インターホンのスピーカーから僕は彼女に問いかける。

「雪乃さん、どうかしたんですか、急に」

 この一年間、彼女が僕の家に来ることはなかったし、僕が彼女の家へ行くこともなかった。

 家がどこにあるかぐらいは一応お互いに知ってはいた。

 努めて冷静に問う。

 視線を真っ直ぐにカメラへと戻した彼女は、少し顔を近づけて言った。

『突然のことで、ごめんなさい。最近、伊織君の様子が変だと思って来てみたの。あなたの秘書の方も心配してたわよ』

 やはり、彼女の目は侮れないと思った。

 部屋に入れるのはとても躊躇われるが、このまま彼女を返せば、それはそれで、また怪しまれてしまう。

「心配? 僕なら全然平気ですよ。誤解を招くような行動があったなら謝ります」

 一応帰ってくれるか試すだけはしてみる。

 すると、ディスプレイに映る彼女は少し安心したと言った風に、笑みを見せる。これで、僕に対する彼女の心配は解けただろう。

 後は秋江君の方にも、同じように伝えなくてはと思っていると、彼女が再び口を開いた。

『良かった。ねえ、お願いをしてもいいかしら?』

 彼女の願い? 僕の焦る気持ちも少し落ち着いてきたので、何か聞いてみた。すると、彼女は少し照れたように言う。

『家の鍵を落としてしまったみたいで、もう鍵を作ってもらうにもお店が開いてないの。だから、一晩だけ泊めてもらえないかしら?』

 再度、僕は動きを止めた。交際している相手を野晒しにする訳にもいかない。しかし、今家に上げるのもやはり無理がある。

 そこで、思い立ったことを告げる。

「家の鍵って、今では指紋や虹彩による認証が主になっていると思うんですけど?」

 そう、態々鍵を使う家は現代では少なくなってきている。指紋や虹彩による認証の方がまだ高いセキュリティを誇っている。

 しかし、彼女の家に以前住んでいた人物が、そういったものを嫌う人間だったようで、彼女もそれを気にすることなく、鍵を使っているという。

 では、ホテルを探しましょうかと提案すると、彼女は否定した。その時、語気が少し強まったような気がした。

 一応自分が頼んでいる身であるとは自覚しているようで、彼女はごめんなさいと謝罪した。今日も外は寒い。そう思ってか、彼女は胸の内を明かすかのように言った。

『伊織君の家に泊めてほしいの。わがままなんて似合う年じゃないけど、お願いします』

 単に彼女は僕の家に泊まりたいということか。交際をしているという関係もあるし、家の鍵を失くしたことも理由の一つなのは間違いないだろう。

 少し逡巡して、僕は彼女にその場で待つように言った。

 そして、キッチンでの食器の片付けを終えた彼女、沙耶が話していた僕のことを疑問に思ったのか歩み寄ってきていたところだった。

 彼女の両肩を掴んで、事情は後で話すと迫る。

一応普通の一戸建て住居だ。大声を出すと玄関に聞こえる恐れがあるため、声は抑える。

 しかし、僕の思考を読める彼女にはそんな事は意味がなかったようで、薄い笑みを浮かべて分かったと応じてくれた。

 とにかく、二階の寝室に隠れておくと、沙耶は階段を駆け上がっていった。

 咳払いを一つして、扉を開ける。

 そこには、外気による寒さで、顔を少し赤くしている雪乃さんが立っていた。

「すみません、お待たせしてしまって」

 彼女は首を横に振る。ブーツを脱ぎ、揃えてから家へと上がる。

 お邪魔します、と周囲を少し見回しながらリビングへ向かう僕の後ろについてくる。

 別におかしな所はないはずだが、そのように部屋を見回されると、どうにも落ち着かない。しかし、僕も誰かの家に行った時は同じような反応をしてしまうだろうと思いながら、彼女をリビングへと招く。

 預かったコートをハンガーにかけて、ソファに座ってもらった。

 キッチンに赴き、コーヒーの準備をする。

 カップを二つ持って彼女の元へと戻り、手渡す。

「ありがとう。本当に無理を言ってごめんなさい」

 申し訳なさそうに謝罪をする彼女。

 タイミングが悪かっただけであって、僕としては嫌な気分ではなかったので、謝る必要はないと返す。

 そこで、話題を変えようと僕は今日完成した新しいパズルの問題のことを持ち出した。

 すると、彼女が是非やりたいと言うので、データを送る。

 修正を施した五問目と新たに出来た六問目。

 早速問題にとりかかっているであろう彼女をリビングに残し、僕は風呂の準備をすると告げて、浴室へと向かう。

 途中、メッセージを受信した。二階にいる沙耶からであった。

 雪乃さんについて、彼女なのかと問う内容であった。

 僕は、返信したいメッセージの内容を頭の中に浮かべる。彼女は会社の先輩でもあると添えて送信した。自動で適量の湯を溜めてくれるので、リビングへ戻る。

 そこには、机を真っ直ぐに見据え、考え事でもしているであろう雪乃さんの姿があった。

 しかし、何について考えているのか、僕には分かる。

 ゼウスプログラムは個人にしか見えない視界を用いたディスプレイだ。

 シェアモードを使えば、複数人に自分の視界に映る画面を見せることができる。今回雪乃さんは使っていなかったが、僕の作ったパズルの解を考えているのは分かっていた。

 彼女の座るダブルソファの横、シングルソファに座る。

 適温にまで温度の下がったコーヒーを口に含み、その様子を眺めていた。

 すると、何故か眠気に襲われた。最近、沙耶のことばかり心配しているので、知らぬ間に疲れが溜まっていたのかもしれない。

 目を擦りながら、欠伸をする。



 眠ってしまっていたようだ。目が覚めると、僕がシングルソファに座ったままなのは変わりなかったのだが、目の前にいたはずの彼女。

 雪乃さんの姿が消えていた。時間を確認すると、まだ夜中。さっき彼女を見ていた時間から四〇分程しか経っていなかった。

「目、覚めた?」

 慌てている僕に、背後から声がかかる。

 元気さを含むその声は、沙耶のものだとすぐに分かった。

 しかし、僕は思った。何故、彼女がリビングに降りて来ているのか。

 急いで振り返ると、いつも食事をする際に使っているテーブルに沙耶の姿があり、その向かいに雪乃さんが座っている。

 しかし、その雪乃さんは笑みを浮かべていて、

「沙耶ちゃん、次はあなたの番よ」

 と、僕の方へと顔を向けていた沙耶に言った。

 その言葉に沙耶は雪乃さんの方へと向き直り、楽しそうに笑みを浮かべながら宙を眺めている。

 僕は二人の元に歩み寄り、雪乃さんに声をかけようとした。

 彼女は僕を手で制し、一つ息を吐いてから僕の顔を真っ直ぐに見据える。

 しかし、その目は僕を問い質したり、沙耶のことについて厳しく言うものでもなかった。

「訳は彼女が全部話してくれたわ。伊織君、こんな可愛い子に誘拐してほしいなんて変わったお願いされるって、隅に置けないわね」

 その言葉に、僕は拍子抜けした。

 普通、自分と交際している男性が、年下の少女を家に置いているなんてことを知ったら、不快に思うだろう。

 もしかすると、これも僕が知らない女性の――いや、彼女だけの心理なのかもしれない。

 どうやら、二人はゲームをしていたようだった。それも『将棋』という、年の離れた二人がやるというのはあまり聞かないものであった。

 僕が寝ている間に、二人は何度か対局したそうな。

 一段落したところで、僕が沙耶の隣に座って雪乃さんと向き合う。

「伊織君が寝ている間にね、沙耶ちゃんが二階から下りてきたの。最初は驚いたけど、何となく分かっていたわ。最近のあなた、本当に何か考え込んでるみたいだったから、悩みの種となるものがあるんだろうなと思っていたの」

 完全にではないが、見透かされてはいたようだなと思う。

 沙耶は雪乃さんに僕との関係を説明したらしい。誘拐してほしいと頼んだは自分で、ここに来たのも自分自身の意志だと。

 女性同士、何となく分かる部分があるのだろうか。よく信じたものだなと思う。ただ、雪乃さんに知られてどうなるかと思ったが、意外にも平気だったことは心底安心している。

 すると、僕のその心中を読み取ったとでも言うように、彼女は心の底からではない笑みを浮かべて僕を見た。

「でも、一つだけ言いたいことがあるとすれば、もっと早くに打ち明けてくれれば良かったのに。私、こんなことで怒ったりしないわよ」

 笑っているはずなのに、彼女の怒りが伝わってくる。

 僕は、ただすみませんと謝ることしかできなかったが、そこも沙耶が原因は自分だと言ったことで、雪乃さんから伝わってくる怒りはなくなった。

 彼女は沙耶に対して優しい。別に僕のことを厳しく扱っているわけでもない。その後は、二人は寝るまでの間、僕の作ったパズルゲームで一緒に遊んでいた。僕はその様子を、先程眠りについてしまったシングルソファから眺めるばかりであった。

 沙耶は始めの問題から解いていたのだが、すぐに雪乃さんと同じ六問目まで辿り着いた。

 その様子を見た雪乃さんが、心の底から感心したと言った風に、沙耶を褒めた。実際、沙耶は頭がいいのだろう。計堂学園という、日本でも指折りの学校に通っていることがそれを証明している。

 しかし、僕は彼女の頭が良いというのは、もっと別な所にもあると思った。勉強だけではない、全てのことにおいてと言った風な彼女。

 そういえば、沙耶は雪乃さんの思考も読むことができるのだろうかと気になったが、今はそのことに関しては触れないでおこうと、胸の内にしまっておいたのだった。


 翌朝、目を覚まして、一階へ下りると何やら話し声が聞こえてくる。

 楽しそうに話すその声の主は、雪乃さんと沙耶であった。

 二人してキッチンに立ち、朝食の準備をしているのだった。

 僕に気が付くと、おはようと二人揃って挨拶をする。洗面所に行き、顔を洗うことで完全に目を覚まさせた僕は、何だか不思議な光景だなと、リビングの椅子に着いて思う。

 昨日とは逆の位置。隣に雪乃さん、向かい側に沙耶という形になった。

 サラダにトースト、綺麗な黄色の黄身を持つ目玉焼きの横には、塩こしょうのかかったウインナーが添えられている。

 まるで絵に描いたかのような朝食だなと、沙耶が朝食を作った始めの日と同じ感想を漏らす。

 しかし、美味しい。自分で作った時よりも全然美味しく感じることができる。食べている僕を見て、沙耶が微笑む。どうかした? と問うてみると、彼女の微笑みは苦笑に変わり、少し俯いた。

「お父さんとお母さんが生きていたら、こんな朝を送っていたのかなって」

 その一言で、僕は彼女の両親のことを思い出す。

 突然、目の前から消えてしまった家族。その心についた傷は簡単に癒えないだろう。例え、気にしないようにしていたとしても、やはりどこかの部分で思い起こされてしまうものなのだ。

 人間というのは奇妙なもので、魂や心などといった、目にすることが出来ないものが体に入っていると思っている。それによって生きている、生き方を決めているとまで思っているのだ。

 実際、魂や心なんてものは、明確ではない人間の中に備わっているを分かり易くするための単なる呼称でしかないと言う者もいる。

 僕としては、どっちの意見も対して重要視していないので、どちらでもいいという答えが出る。

 目の前にいる沙耶に向けて、何か言葉をかけてやることが、一時的なその傷を隠すことになるのだろうと思い、口を開こうとした。

 しかし、僕よりも先に雪乃さんが声をかける。

「高校生の娘を持つ両親にしては、私達では若すぎるわね」

 沙耶に笑いかける。

 それに対して、沙耶も同じように笑顔を返す。

 朝食を終えた所で僕は仕事の準備をするが、雪乃さんは休みだそうだ。

 一緒に家を出て、僕は会社へ、彼女は自宅へと帰る道につく。

 向かっている途中、雪乃さんからメッセージが届いた。一晩泊めたことのお礼と沙耶について。

 ただ、僕の予想していたものとは全然違った内容だった。

『あの子には気をつけた方がいい』

 そう書かれていた。昨日の夜、楽しそうに話していた人が書いたものとは思えない。一体、沙耶の何に気を付ければいいのかと返したが、それ以降の返信はなかった。



 午後の出来事だった。登録されていない番号から、突然の通信が入った。

 誰かと思いながら応じる。しかし、返事がない。

 もう切ろうかと思ったその時、ようやく相手が口を開いた。

『初めまして。連絡をいただいと助手からメッセージが来ていたので、連絡させて頂きました。遅くなって申し訳ありません』

 その言葉から、僕は相手が誰か分かった。

 更科絵里子。沙耶の叔母だ。

 用件を問われたので、僕は沙耶のことを簡単に説明した。

 彼女が、自分を誘拐するように言った理由が五日後、つまり更科博士の帰ってくる日に分かる、ということなのではないかと。

 すると、少しの間が空いた後、ではその日にお会いしましょうと彼女は言った。明後日の土曜日、正午にゼウテック社の彼女の部屋へ一人で来るようにと。受付に言えば分かると添えたところで、通信が切れた。

 ほとんど彼女が一方的に決めてしまったのだが、僕としては会って話が出来るだけで充分だ。


 家に帰っても、そのことは考えないようにした。沙耶に思考を読まれないようにするためだ。

 自室に戻った所で、僕は思った。何故、沙耶は連れてこなくてもよいのだろうかと。



 翌日。沙耶がこの家に来て四日目という思いを心の隅に置いて、朝の彼女と顔を合わせる。明日の土曜はゼウテック社に行くために、会社は半休を取ってある。

 長いようで、もう四日も経ってしまったのか。沙耶の言った通り、五日目には彼女のことが分かるようだ。始めから驚かされてばかりだ。

 会社に行く前、沙耶に声をかけられた。今日は早く帰ってきてほしいと。

 一体何を考えているのだろうかと気になったが、分かったとだけ答えて、玄関を開けた。

 今日も少し寒い。


 会社に着いて、秋江君が仕事を持ってくる。僕はいつものようにデスクに着く。最近、僕が遅刻しないからか、彼女の機嫌はいい。

 僕の遅刻一つだけではないだろうが、彼女の不満の大半を占めていたのではと思うと、何とも言えない気持ちになる。

 だが、今は沙耶がいるから朝もちゃんと出社しなくては思う訳で、彼女が元の場所に戻ってしまったら、また僕は遅刻を繰り返して彼女のストレスを溜めてしまうことになるだろう。

 そうならないように、早く家を出ればいいだけのことだな。と、少し気持ちを改めようかという思いが僕の中に出てくる。

 彼女に、沙耶に出会ったことで僕の気持ちに何かしらの影響が及んでいるのだろうか。前までは別に積極的でなかった仕事に対して、少しやる気を感じている自分がいるのだ。

 別に悪いことではない。むしろいいことなのだから、こういう変化は大歓迎だと、自分のことなのに思ってしまうのは、変だろうか。


 仕事の終わりを確認して、デスクを綺麗にしたところだった。秋江君が僕の部屋へと入ってくる。何かやりのこした仕事でもあったろうかと思ったので、問うてみると、彼女は否定する。

 何か言いたげにしているので、僕は相談事か何かと質問を変えた。

 すると、それも否定された。では、何の用なのかと問うと、口を開いた。

 明日の半休の理由を知りたいということであった。

 プライベートなことを詮索するのが、失礼に値すると思って言い出せないでいたのか。彼女は、僕の仕事を引き継いでくれるので、その理由ぐらいは話しておいてもいいだろう。

 そう思い、僕は会わなければならない人がいると告げた。

 別に悪いことをする訳でもないが、合う相手が相手だ。僕が更科博士に何の用事があるのかと探られ、そこから沙耶へと繋がる――というのは、少々考えすぎかと思った。

 だが、秘書に近い仕事をしている彼女も雪乃さんと同じような観察眼を持っている。だから、半休の理由も聞いてきたのだろう。

 しかし、誰と会うかまでは質問されなかった。

 流石にそこまで立ち入ったことを聞くのは無礼だと考えたのか。

 僕としても言うつもりはなかったので、ちょうどいい。

 明日の仕事を頼むと彼女に告げて、執務室を出ようとした際、背後から再度声をかけられた。

 振り返ると、真っ直ぐに僕を見据えた彼女はただ一言、

「気をつけて下さい」

 それだけを述べた。

 疑問の眼差しを受けながら、お疲れ様と返して部屋を出た。


 沙耶にも、明日は仕事を途中で終えることは告げなかった。僕が一人で会いにいくことが条件でもあるし、 雪乃さんと秋江君から送られた言葉がどうも気がかりで仕方ない。

 沙耶に気を付けろということか、それとも更科博士にということか。

 どちらにしても、用心はしなくてはならないだろう。

 夕食を食べている最中、考え事をする僕に声をかけてきた沙耶。

 大丈夫だと一言返した。すると彼女が口を開く。

「私が初めて会った時に言った五日後が明日だよね。閏さん、全部話すよ。明日、あなたが帰ってきたら」

 改まって言う彼女を見て、僕にも緊張が走る。

「楽しみにしているよ」

 それしか返す言葉が思い付かなかった。

 食後、彼女が僕の隣に座って、肩をつける。

 それほど、がたいが大きいわけでもない僕と比べても、彼女は小さく感じられる。顔を横に向け、目線を下にやると沙耶の頭がある。

「何かあったのかい?」

 僕の問いに、彼女は少し時間を置いて返答する。

「最初、私があなたの思考を読めると分かった時、どう思いましたか?」

 そう言えば、最近彼女が僕の思考に対して返事をしなくなったな。

 意識して、なるべく考えごとをしないようにしているからか。

 すると、彼女は笑った僕から少し離れる。

「考えることを放棄することは出来ません。人が意識を持って考えることを止めるという選択は、不可能に近い。何も考えなくなった時とは、生きることを止めようというのと一緒です」

 突然そんなことを言う沙耶の表情は、少し恐ろしく思えた。

 すると、彼女は立ち上がって、シングルソファに腰掛けた。

 足を組んで座る彼女は、まるで今までのとは別の人格の入ったかのような気がしてならない。

「人はいつも、どこかで考えています。心でとか、魂でとかではなく。脳です。この頭の中で考えている」

 そう言って、頭を人差し指で刺す。

「プログラムではなく、ちゃんとした人間の脳で考える。それが、人と呼べるもの。今の人類の大半はそれではない。完全な人間とは呼べない状態です」

 ゼウスプログラムの急速的な普及が、人を人でなくしている。いつか見た、ニュースに出ていたコメンテーターも似たようなを言っていた。

 僕は沙耶の姿である、別の何かに反論を返す。

「プログラムを頭に埋め込んだら人間でなくなるというのは、少々言いすぎではないか? 僕達の体は生身だ。もちろん脳も。それだけで充分人間と呼べる」

 すると、彼女は静かに笑った。

 では、生身の肉体であれば人間であるか? それだけが人を人と呼ぶための材料だと言うのか? 違うな。この体は目に見えない『魂』というものを入れるための器にすぎない。器であれば、別に生身でなくても問題ないのではないか。大事なのは脳。この脳こそが私達を生かしている重要な『考える部位』である。だから、考えることを止めてしまった時が、本当に人が人でなくなる時。

 彼女はそう語る。正確には、彼女の中にいる別の誰かが。

 突然、豹変した沙耶に、僕の体は緊張を感じていた。

 しかし、次の瞬間に彼女は一つ静かに笑うと糸が切れたかのように背もたれへと体を預ける。

 沙耶、と名前を呼んで立ち上がった僕は、彼女の肩を軽く揺らす。

 ただ眠っているだけのようで、寝息を立てている。

 安堵の息を吐いた僕は、明らかに様子のおかしかった彼女を頭の中で思い起こしながら、彼女を抱きかかえる。

 階段をゆっくりと上がっていく途中、彼女の体の軽さ、大きさを見て、この小柄な少女の中には一体何がはいっているのだろうか等と考えていた。

 今日は僕の部屋のベッドに寝かせることにして、逆に僕は彼女に寝室として貸している部屋で寝ることにした。

 ベッドに彼女を寝かせ、電気を消した後、僕は部屋を後にした。

 まだ、すぐに寝るつもりはないので、一階へと戻る。

 テーブルの方の椅子に座り、僕はゼウスに向けて「検索サーチ」と呟く。

 多重人格や、人格障害などを検索してみる。病気扱いをしたいわけではないが、先程の彼女に合う症状が幾つかあった。

 誘拐のストレス? 彼女自身が僕にそう頼んできたわけで、それも毎日楽しそうにしているので、関係ないだろう。

 となると、両親の交通事故の真相を明らかにするための焦りが大きいのかもしれない。

 明日が彼女と出会って五日目。最初に言っていた理由の分かると言った日だ。

 もしかすると、明日が来ると彼女は僕の目の前から姿を消すのでは。そんな考えが浮かび上がるが、僕は時計に目をやり、まだ少し早い時間だが寝ることにした。

 僕の部屋の隣が、沙耶に貸している部屋。今日は僕が眠る部屋だ。

 布団を敷いて、横になる。

 ――人が人でなくなる瞬間は、考えることを止めた時だ。

 沙耶の口から出た、彼女自身、あるいは沙耶の体に入っている何者かの言葉を思い出して、僕は目を閉じた。



 朝、目が覚めた僕は、自室への扉を開ける。

 ベッドには、沙耶の姿がなかった。

 まさか、本当に目の前から姿を消したのか、と思ったのだが、リビングへと急いで下りると、椅子に座って宙を見ていた。

 しかし、僕に目をやると、いつものように笑っておはようと言う。

 ゼウスの視界ディスプレイを使って、ニュースに目を通しているところだったらしい。

 一安心した僕は、目の前に座り、昨日のことを覚えているかい? と問う。

 昨日は、夕飯の片付けをして、僕の側に寄り添い、そのまま眠ってしまったと彼女は言う。

 覚えていないようだ。何があったのか説明しようかと思ったが、止めておいた。変に彼女を刺激してしまうかもしれない。

 そんなことを考えていると、今日が約束の日だね、と声をかけられた。

 僕の目の前に突然、姿を現した折本沙耶という少女。

 自分を誘拐してほしいと言った少女。

 僕の考えていることが分かる少女。

 そんな沙耶の顔は、薄い笑みを浮かべていた。

 やがて、立ち上がった彼女は、キッチンへと歩いていく。

 僕は、いつものと違う、少し上等なスーツを準備した。彼女の叔母である更科博士は、人類技術の最先端を走る人物。

 そんな人に会うのに、いつも仕事に着ていくスーツでは失礼にあたるだろうという思いから。

 着替えようとする際、初日と同じように沙耶がネクタイを締めてくれる。

 玄関まで来て、僕を見送る。夫婦のようだという言葉を思い出して、僕は少し急ぎ足で家を出る。


 正午になる一五分前、僕は会社からゼウテック社へと赴いていた。

 受付で自社の社員証を見せて、更科博士と会う約束について述べると、電話をかけた。それを終えた受付嬢が、奥のエレベーターを指差し、六〇階へ、と階数を述べた。

 扉に近づくと、丁度下りてきたエレベーターが開く、中に入っていた人達が出た後、僕だけが乗り込み、六〇とアラビア数字で書かれたボタンを押す。

 途中で止まることなく、真っ直ぐに目的の階へと上がっていく。

 到着の音が鳴り、扉が開くと、そこは真っ直ぐの廊下であった。

 レッドカーペットに壁は茶褐色という、重役が好みそうなデザインだなと思いつつ、奥に見える扉へと歩いていく。

 目の前に扉が迫ると、部屋の入室許可を申請する画面が視界のディスプレイに表示されるので、僕は申請のボタンを押すように、宙で指を動かす。

 中にいる人物へとその申請が送信されているはずだ。

 数秒後、許可が下りて扉が少し開いた。

 どうぞ、という声が聞こえてきたので、入室できるよう更に扉を開けた。

 広い一室が目に飛び込んでくる。

 向かい合う形で置かれている中央のソファに、誰かが座っている。

 中へと一歩踏み出て扉を閉める。

「初めまして、閏伊織さん。ゼウテック社技術開発研究所室長の更科絵里子です」

 座っていた彼女こそが、僕と会うことを了承してくれた、沙耶の叔母である人物であった。

 中央まで歩み寄り、座るように促されたので、鞄とコートを隣に置いて座る。目の前に座る更科絵里子という人物は、雑誌などでも取り上げられる有名人なので、写真等でよく見ていたが、実物は若く見える。

 すると、僕の心を読んだかのように、口を開いた。

「沙耶が産まれたのは、私が今の彼女と同じ年齢の時でした。姉とは少し年が離れていたので」

 つまり彼女は沙耶の倍の年齢ということで、三〇半ば。つまりは、失礼だと遠回しに指摘されていることに気付く。

 失礼、と謝罪を行うと同時に彼女もまた沙耶のように僕の思考を読んでいるのではという、恐怖と警戒心を持った。

 彼女に先を促され、僕は本題へと入る。

 電話でもある程度話していた、沙耶が家に来たという件。そして、今日がその理由が分かる日だということも。

 博士は大きく息を一つ吐いて、分かりましたと言う。

「順を追って話すのがいいでしょう。まずは、あの子があなたの思考を読んでいるというところから」

 彼女は語る。沙耶が思考を読んでいる仕組みを。

「閏さん、あなたはゼウスプログラムというものをどう思いますか」

 が、質問はあまり関係のないように思えるものであった。

 どう思うかというのは、様々な捉え方がある。すると、彼女は分かり易いように質問を変えた。

「自分に適したプログラムだとお考えですか?」

 新しくされた質問に僕は答える。使いこなせている方だと思うと。

 そして、僕の答えを聞いた彼女は表情を変えないまま、成る程と言った。

「やはり、そう思っている方が多いようですね」

 その言葉に反応しようと思ったが、話を止めてしまってばかりでは先に進まないので、何も言い返さなかった。

 彼女は続きを話す。

「私が開発した、プログラム。名前は全知全能の神にちなんで、何でも教えてくれる、人々の知識を全面的に補うもの。とされるプログラム。でも、大半の人間はあのゼウスの力を充分に活かしきれていない」

 ゼウスの力、機能を活かすとは一体どういうことなのか。

 僕達の生活に欠かせない存在とされていた、コンピュータや携帯端末の役割を担うゼウスを、僕達は同じように使っている。

 すると、彼女はゼウスをコンピュータや携帯端末の代用品程度にしか考えていないことが使えていない証拠だと言う。

「けれど、私達人類にばかり非がある訳ではありません。ゼウスプログラムは開発者である私の想像を超えるものとなった。閏さん、沙耶はゼウスが認めた本当に数少ないの一人なのです」

 最適合者、その言葉が僕にはどういったものか、上手く伝わってはこなかった。

 更科博士が言うに。適合者は僕達のようにゼウスを普段の生活で扱う人間達、最適合者はそれよりも更にゼウスとの相性が良いということ。それは、単に使うことに長けているとかそういうことではなく、全てが完璧なまでに合っており、ゼウスの機能を最大限活かした使い方を出来るということ。

 この最適合者はなろうと思ってなれるものではない。ゼウスプログラムに気に入られる脳を持つかどうかで決まるのだ。

 つまり、沙耶を含む最適合者とされる人物達は僕達、適合者が声に出し、指を使う操作をせずとも指示を出すことができる上に、思考まで読むことができるというのだ。

「つまり、沙耶はやはり僕以外の人間の思考も読むことができる。そしてそれは、あなたにも同じことが言えるのですよね」

 更科博士に向かって告げる。彼女は薄い笑みを浮かべて、お気付きでしたかと少しだけ肩を竦めてみせる。

「ですが、私は最適合者ではありません。日々プログラムのアップデートを行い、試験運用も兼ねて自分に組み込んでいるのです。だから、バージョンが古いあなた達の思考を少し読める程度です」

 少しということは、全て読まれているわけではないのだなと胸の内に留めておく。

 兎に角、沙耶がどういう人物で、何故僕の思考を読めるのかが判明した。

 次は、僕のもとに現れたことだ。突然、自分を誘拐してほしいなどと言い始めた理由は何なのか。

 すると、また僕の思考を読んだのか、更科博士がその話題を持ち出した。

「あの子があなたのもとに現れたことに関しても、今お話しした最適合者という言葉が関係しているでしょう。ただ、あくまで推測ですが」

 それでも、と答えを求めた。

「恐らく、私から逃げるためでしょう」

 端的に言った彼女は、それから詳細を語り始める。

「私達研究者という存在は、日々何かを追い求めています。新しいものを。沙耶に異変が現れたのは中学二年、一四の時でした。私に、人の考えていることが読めると言ってきました。これが、最適合者という特別な人達を見つける発端でした。それからは、沙耶の行動からデータを収集したのです。ゼウスプログラムの発展は目紛しいものだと気付かされる研究に、私は心が躍りました」

 語る彼女の顔は、常に無表情。しかし、目にはどこか哀しみとそして、決意を感じさせるような光が宿っている。

 その光の意味を、彼女の言葉で知らされる。

「沙耶は、監視の目に耐えきれなくなったのでしょう。監視と言っても、あの子の脳を常にモニタリングしていただけ、プライベートな部分を晒すことには一切なっていませんでしたが」

 では、他にも理由があるはずだ。僕はそれを博士に求めた。彼女なら知っているはずだ。沙耶が何故、逃げ出してきたのかを。

 博士は、変わらぬ態度で答える。

「あの子のゼウスプログラムを取り出すことを決定した。それが、あの子の耳に何らかの形で入ったのでしょう」

 沙耶の脳から。プログラムを体に埋め込んでいる基板を取り除く。恐らくそれは、彼女の脳に入っていたプログラムがどのような成長を遂げたのかを計るためだろう。しかし、それには代償がいる。

「つまり、あなたは沙耶の命と引き替えに、彼女の中に入っていたゼウスがどう成長したかを調べようとしている訳ですね」

 プログラムは、脳と直結している。一度埋め込めば、もう外すことはできない。もし、外すことがあれば、それは死を意味する。

 沙耶が最適合者だとしても、それは変わらないだろう。

 更科博士は、実の叔母でありながら、沙耶の命よりも技術の革新を取ろうとしたのだ。

 僕の中には、怒りとも呼べない感情が渦巻いている。

 すると、彼女は一つ息を吐いて、言葉を付け足した。

「私も鬼ではありません。沙耶の命と引き替えにするのは、技術革新だけではあないのです。あの子とゼウスプログラムは、危険なのです」

 危険という言葉に反応した。

 博士は僕の反応に、気付いていませんでしたかと言う。それが、危険なのだと後から付足して。

「あの子の中にあるゼウスプログラムは、周囲に心理的変化を及ぼすのです。あの子と出会い、生活を共に過ごしてから、何か自分の変化に気付きませんでしたか」

 変化。その言葉で、僕は沙耶と過ごした五日間を振り返ってみる。

 そして、気付いた。

 最近、仕事に対してやる気というものを感じていることに。

 それは、沙耶の前では真っ当な大人として振る舞おうと考えていたから。

 ではなく、恐らく博士の言う、沙耶とゼウスがもたらす心理的変化の影響によるもの。無意識の内に行動していたのだ。そういうことだろうか。

 しかし、僕にとってはいいことだろう。仕事に真面目に打ち込むというのは。だが、そんな僕の考えを少しだけ読むことの出来る彼女は、口を開く。

、でしょう?」

 そうか、と思わされた。

 心理的変化が、いつも良い方に向く訳ではない。沙耶と過ごすことにより、悪い方にそれが向くこともある。

 博士は、その考えを強くさせるためか分からないが、僕の元にあの子が来る前のことを話し始めた。

 沙耶には男性の付き人がいた。僕にはいないと言っていたが、あれは噓だったのか。という考えは後回しにして、僕は博士の話に耳を傾ける。

 その付き人はいつも彼女を学校から家まで送り迎えしていた。

 ある日のこと、その人物が暴行事件を起こして捕まったという知らせが入った。付き人は、博士がしっかりと経歴から調べ上げ、素行調査まで行われた上で採用されたものだったでそうで、とてもそんな事件を起こすとは思えなかったそうだ。そこで彼女は、その付き人が沙耶と過ごした期間のことを調べることにした。送り迎えの車内にはカメラが設置されている。

 事件を起こす前日までの映像を全てチェックしていく作業を、研究員総出で行ったとか。

 そして、一日だけ不可思議な映像を見つけたそうだ。

 音声まで録音することができる高機能カメラなので、沙耶と付き人がたまに交わす会話も録音されていたのだが、その日だけ、沙耶の言動が不自然だった。

 メッセージの受信音がなったので、ゼウスに命令を出して開く。

 差出人は僕の目の前にいる博士だ。

 添付ファイルとして、動画が貼り付けられていた。用心してそれを開くと、約七分程の映像が流れ始める。車の中だ。

 運転席に座るのは男性。後部座席には、制服姿の沙耶。

 しかし、僕と会った時のとは別のもの。

 中学生の頃なのかと、心の隅で思っておく。

 その時、沙耶が話し始めたので、僕は映像に集中した。

 ――ねえ、ってどういうものだと思う

 中学生と思われる少女から出る言葉とは思えないものだった。

 問われた男性は、当然戸惑っている。誤魔化そうとする彼に、構うことなく沙耶は話を続ける。

 ――考えるという行為は、生きていく上で絶対につきまとうもの。影と一緒なの。日が当たらない場所だと見えなくなるけど、それでも影は常に一緒にいる。思考というのは、目に見えない。だから、暗闇にいる時の影と一緒」

 映像の彼女に引き込まれる気がした。見た目は少女なのに、話す内容は大人でも考えないようなことだ。

 昨日、リビングで話した時と雰囲気が似ている。

 ――もし、相手の考えていることが分かってしまうようになったらどうする? 自分の考えていることが、相手に知られるようになったら? 私達のプライバシーという観念は崩壊し、裸で生きているも同然になる。既に世の中には、態々自分の行動を常に発信するツールがあるけれど、あんなものは噓のオンパレード。でも、思考に噓はつけない。だから、私達の思考が公開されるようになれば、噓はつけない

 七分という時間が、こうも長く感じられたことはない。

 沙耶の話を理解しようとしながら聞いていくのは、僕でも頭を使うので、少々疲れる。

 ――だから、ゼウスプログラムなんてものを態々入れようと思う人間はおかしいと思うんだ。自分の思考が常に、コンピュータに見られている状態と変わらないんだよ。自分の中に作られた魂がもう一つ入り込む、私はそんな気分にさらされている。常日頃ね。だから、私はこんなものを開発した人が嫌い。とても、とても。

 立てた人差し指を頭に当て、沙耶は語り終えたと言わんばかりに、目を瞑り、体中の力が抜けたようにこうべを垂れる。

 昨日も、彼女は話し終えたであろう瞬間に、体中の力が抜けたように眠っていたなと思い出した。

 だから、映像の最後に映るそれは、同じく寝ている状態なのだろう。

 一つ深呼吸をした僕に博士が、男性が事件を起こす二日前の映像だと告げる。沙耶の思う、思考と人間の結びつきについて語ったことが、男性の心理に影響を及ぼしたのでは、と博士は考えている。

 けれど、僕はこの映像を見せられても、完全な同意は出来なかった。

 色々と情報を得ることができたので、もう帰ろうと席を立った時だ。

 博士に呼び止められる。彼女は相変わらずの無表情で僕に、沙耶を引き渡すように言ってきた。

「あの子の中にあるゼウスプログラムをこれ以上放置していては、周囲に及ぶ影響は予測できません。ですから、沙耶をお返し願いたい」

 しかし、僕はそれを拒否した。

 理由は何であれ、姪であるあの子を、殺そうということに変わりはない。

 すると、博士の目つきが鋭いものとなった。

 立ち上がった僕を真っ直ぐに見上げながら、言う。

「どうしてもあの子を返すつもりがないと言うのなら、私達も少々強引な手段を取るしかありません。必ずあの子は奪還してみせます」

 僕は部屋を去る際に一言だけ、

「僕があの子を返す気になったとしても、あの子自身に帰る意志がないなら無理な話でしょう」

 そう言い残して部屋を後にした。

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