全知全能のプログラム
滝川零
第1話 プログラム
今、僕達は人間という定義を試されている時だと思う。
そう語るのは、ホログラムディスプレイで作られたテレビに映る、コメンテーターだ。
よく色々な番組に出ているのを見かける。そんなことよりも、彼が言った人間の定義ということについて。
僕はそれを調べるために、「
すると、視界に幾つものネットでの検索結果が表示された。
宙に浮かぶ選択項目。それは、現代の”人間”なら大半の人が同じものを見ているだろう。
僕達の体の中に入っているもの、『ゼウス』。
全知全能とされる神の名を持つそれは、正しく何も知らないことはなく、僕達を最適な方へと導いてくれるとされている。
ところで、人間というものを検索して一番始めに出てきたものは、やはり『ヒト』という言葉であった。
僕達はちゃんとしたと言えるかは分からないが、人間であることに間違いはない。このコメンテーターは何を態々熱弁しているのだろうと思った。
視界の右上に映る時計に目をやると、もう既に九時を過ぎていた。仕事には完全に遅刻だ。
テレビを消し、仕方なく鞄を車に乗せて、運転席へと座る。
鍵は必要ない。指紋認証を済ませると、エンジンがかかった。
自動運転で、職場までの道のりを選択する。
僕は、視界に先程の番組の続きを投影した。
けれども内容は変わっていて、つまらないニュースが羅列され、それが読み上げられていくだけというものになっていた。
他の局も面白いと思える番組はない。
「
僕の言葉に従い、視界にはブックマークの中に保存されている、ネットの掲示板が表示された。
こちらの方が断然面白いニュースが多い。
と言っても、仕事に行くまでの暇つぶし程度になるかならないかの差。
二〇五〇年、
政府が管理している情報研究機関が、新たな人類の可能性を引き出すため、あるプログラムを作り出した。
『ゼウス』プログラム。
それが開発されたことにより、携帯端末を持つ人間は少なくなった。ゼウスがあれば、自分自 身の体でその機能を満たせるからだ。調べたいもの、やるべき事を教えてくれる、全知全能のプログラム。僕達の体は、コンピュータも同然の機械人間のようなもの。
でも、僕達はやはり人間であることに変わりはない。
この体は、まだ生身なのだから。
職場について、部下からの挨拶に返事をしながら、僕は自分のデスクがある個別の執務室の扉を開ける。
皆もう業務に取りかかっていたが、しっかりと挨拶をしてくれるあたり、しっかりしているなと思った。
そこで扉の閉まる音が聞こえないことに気付き、代わりにそれを阻止するかのような音が聞こえた。
振り返ると、下の方から足先が見えた。
そのまま扉が再び開かれる。そんな行儀の悪いこと、普通なら注意するところだが、僕にはそれが出来ない。
入ってきたのは紙の束であった。勿論、それを持っている人がいるわけだが。
僕の横を通り過ぎてそれを机に置いたのは、キャリアウーマンという言葉が綺麗に当てはまる、ビジネススーツを着こなした女性。
「閏部長、この書類全てに目を通して、判をお願いしますね」
冷酷で、厳しい目つき。子どもなら泣いているだろうと思う。
全てという部分を強調した彼女、
僕の監視役、言い方を変えると先程述べた秘書になるわけだ。
「何だか、機嫌が悪そうだね」
彼女は相変わらず冷酷な目つきて僕を見据えたまま、眉を少し動かした。
分かっていたが、原因は僕だ。
ただ、彼女のような年上の女性を少し怒らせると気分が高揚するという悪癖が出てしまった。
「セクハラで訴えましょうか?」
証拠がないでしょうと言うと、彼女からメッセージが届いたと視界に表示される。
開くと、内容は何もないが、音声データが添付されていた。
再生するまでもなく僕の発言が録音されたものだと、データの保存時間から分かる。
「すみませんでした」
謝らざるを得ない。今日は特に機嫌が悪いと察した僕は、とりあえず机に荷物を置いて、椅子に座る。
真面目に仕事に入ろうとしている僕を見てもまだ彼女が帰らないので、今度は本心から、他に何か用があるのか問う。
すると、彼女は右のこめかみに手を添えて何やら小声で呟く。
あの動きはゼウスに指示を出しているところだと分かる。
それが終わったのか、手を体側に戻した彼女からメッセージが届いた。
今度は僕がこめかみに手を当てて、
また添付ファイル付きであった。しかし、今度は音声データではない。
スキャンしてみると、文書ファイルだと判明したので、開いた。
内容は、何やら熱烈な愛の言葉を羅列したもの。口が悪いが、気持ち悪いと言うのがしっくりきてしまう。
「最近、よくそんな文章が送られてくるんです。相談しようにも、誰も出来る相手が見当たらなくて」
無表情だが、弱音を吐く彼女。
僕にだけ相談してくれているのかと思うと、力になってあげたいとも思う。
「分かった。僕も調べてみよう」
とりあえず、今は仕事に戻るよう彼女に言い聞かせて、部屋から退室させた。
メッセージ枠を閉じて、通常の視界に戻す。書類に目を通し始め、可否の判を押していく。
大体は可決だが、中には否決のものもある。終わりが近いところで休憩がてら、先程のメッセージを開く。
何度見ても慣れることはないであろう文章の気持ち悪さに耐えながら、送信経路を辿る。
「
発信経路を探し始める。まずは秋江君から僕に。そして、秋江君に対して送ってきた人物に該当しうる人物をゼウス管理局のサーバーから探し出す。
「
どうやって調べるかは簡単なこと、秋江君の受信時刻から逆算して送信時刻の近い人物を探し当てる。
該当した人物はかなりの数になったが、性別を男性に絞り、年齢を彼女と近い設定にする。
すると、一人だけ綺麗に残った。
僕の部署とは別の、この会社の人間。まだ犯人と確定した訳ではない。
その情報を保存しておいた僕は、残りの書類に目を通す。
僕の所属する会社、『テクニカルイノベーション』は、ゼウスプログラムの開発会社の提携企業。役職を持つ者にだけ与えられた権限が、今回行ったメールから人物を割り出す等の行為を許してくれる。
まずは秋江君を呼んだ。
そして、調べた情報を教える。彼に心当たりがないかと訪ねたが、特に面識はないと言う。
彼を呼び出そうと提案し、僕は通信の準備に入る。
「参照」
登録されている通信のための番号一覧が空中に表示される。見えるのは僕だけ。
その中から一人の名前をタップすると、通信が始まった。
三回のコールの後、通信が承諾されたようで、
「テクニカルイノベーション技術開発部門第二研究室室長、
長い役職と自分の名前を言い終えたからか、僕からの通信が嫌なのか最後の方は力のない声であった。
「すみません、お忙しいところ。そちらにいる男性の研究員に用がありまして」
僕の言葉に彼女は、何の用があるのか求めたので、秋江君のことを話した。
すると、少しの沈黙の後、そちらに連れて行くと言って通信を切られた。
およそ三分後、斎川さんが僕の執務室の扉をノックしたので招いた。
彼女に後ろに連れられていたのは、現時点で秋江君にメッセージを送りつけたと思われる男性の研究員がいた。
「話に入りましょうか」
応接用のソファに二人を座らせ、僕と秋江君も向かい合う形で席についた。
「話した内容はさっきの通り、そちらの方が、僕の部下に迷惑なメッセージを連日送りつけているという容疑がかかっています」
迷惑という部分を強調してみた。男性の研究員は戸惑いながら否定した。
彼の様子を視界に捉える。脈拍、呼吸、動揺しているのが伝わってくる。
ここまで否定するなら、彼ではないようにも思えてきた。
しかし、彼が犯人という線は濃いし、何より思考までは読み取れない。
余程演技が上手いのか、本当に心当たりがないのか。
「送信履歴を見れば分かる話でしょう」
斎川さんの言葉に、彼のメッセージ履歴を漁る。もちろん消去したということも想定して復元プログラムも実行している。
復元されたメッセージは一〇数件。内容は秋江君に送られていたものだと判明した。
けれど、僕はそこであるものを見つけた。
「成る程、僕はあなたに謝らなくてはならないようです」
僕の言葉にその場の全員が注目した。
「ウイルスにかかっています。あなたのメッセージアカウントは、ウイルスの作成者の手によって好きな時に、いつでも使えるよう細工されています」
そんな事が、入念な調査もなしに分かってしまうのが、この役職に与えられた権限の凄みでもあり、恐ろしさでもある。
彼のかかったウイルスは最近流行っているもの。感染した自覚がなく、症状というものが見えない。送られたメッセージは、勝手に消去される。
メッセージの送信履歴など、態々覗くことはない。その場でメッセージが何らかの影響で送信に失敗した場合等に、再編集して送ろうと思った時ぐらいであろう。
仕組み自体は簡単な物。昔から存在しているウイルス。なのに彼のように感染しているものが多いと騒がれている。
とにかく、彼と斎川さんに謝罪をした僕は、秋江君にも犯人は他にいることを話す。
あの男性研究員のアドレスをブロックでもしておけば送られてくることはないだろうと伝えておく。
もうすぐ業務終了の時刻だが、最後に一仕事ぐらいは何か済ませて帰ろうと思った時、秋江君は深々と頭を下げて、礼を述べた。
彼女のような女性を怒らせるのも、感謝されるのも気分がいい。
それは口に出さず、彼女が部屋を出たところで一枚の書類を見つける。
まだ判を押していない物だった。内容は代わり映えしないものなので、判を押してから、今日片付けた書類の山にそれを置いた。
これで、仕事は終わりだ。
帰る仕度を整え、部下達に挨拶をして会社を出た。
2
地下の駐車場にある自分の車に乗ると、メッセージが受信された。開いてみると、秋江君から、明日の仕事内容と今日のことに関するお礼が添えられていた。
律儀な人だと毎回思わされる。短い文で返信を済ませ、いざ走り出そうとした時。今度は通信が入った。相手は先程会った人。
「どうかしました、斎川さん?」
技術開発部門第二研究室室長の斎川さんからであった。
「その呼び方は止めて、仕事以外の連絡では名前でいいと言ったでしょう」
つまり、プライベートな話だということ。もっとも、最初からそうだと分かっていて、苗字を言ってみたのだった。
「今、仕事が終わったのだけど、この後会える?」
「問題ないです。というか、車の中にいるんで待ちましょうか?」
すると、彼女は自分の車があるからと断った。
待ち合わせはいつもの店だと言われたので、先に向かう。
自分の車があるというのは噓だ。本当は僕と一緒にいるのを見られたくないのが本心である。
彼女と交際を始めたのは一年前。僕が技術開発部門に赴いたとき。
初めて彼女を見た印象は、とても綺麗の一言だけであった。
しかし、話してみると怖い女性だと思い知らされた。
徐々に交流を重ねていく内にお互いに慣れ、そして今に至る。
ただ、彼女は職場内でこういった関係を持っていることを隠したがっているのだ。昼過ぎに電話をかけた時、嫌そうにしていたのもそういうこと。
別に年が離れ過ぎているという訳でもないし、彼女が交際していてもおかしいということもないだろう。
問題があるとすれば僕の方か。考えないことにしよう。
近くの駐車スペースに車を停めて、行きつけの店に入る。
彼女と会うときはほとんどこの店に来ている。
至って普通の居酒屋。紹介してくれたのは彼女の方だ。落ち着いた雰囲気と地元民で賑わうこの店は心地がいい。
「いらっしゃい、閏さん。この後、雪ちゃんも来るの?」
カウンター席に着いた僕へとすぐに水とおしぼりを渡してきたのは、この店の主人の娘さん、吉野奏。
常連である雪乃さんと来ているうちに僕まで顔を覚えられた。そして、どちらかが一人で来ると毎回後からもう一人が来るか聞かれる。
「当たりだよ。もう少ししたら来ると思う」
笑顔で答えると、彼女はやっぱりと同じように笑って言う。
「今日も繁盛してるね」
席は満席とまではいかなくとも、ほとんど埋まっている。
「お父さんは喜ぶけど、私は忙しくてしんどいかな」
今度は苦笑してみせる彼女。
父に呼ばれて厨房へと戻っていった。
雪乃さんが来るまで、ゼウスを使ってニュース記事、SNSへと目を通していく。
皆が考えたことを自由に投稿できるSNSサイト。
企業の公式アカウントもあるので、様々な情報を取得するのに役立つ。
普通のニュースを見るよりも情報の取得が容易いと思うときがある。
しかし、大半は自分がその人の投稿を見たいと思い、フォローした相手の投稿しか流れてこない。
だから、本当の暇つぶしの中にたまたま気になるニュースがあった、というぐらいの気持ちで活用している。
もっとも、僕は投稿を頻繁にすることはしない。たまに気まぐれで何気ないことを呟く形で投稿しているぐらい。
僕のことをフォローしてくれている人は、こんなに投稿の少ない人間なんて見ていて楽しいのかと思ったりもするが、考える程のことでもないと自己解決してしまう。
ニュース記事を一通り見終えた頃、店の扉が開く音が聞こえた。
目をやらなくても分かるので、僕は気にせず水を一口だけ口に含む。
そんな僕の隣に座る人物。
「ごめんね、仕事は終わってたんだけど片付けが中々終わらなくて」
雪乃さんだ。黒いコートを脱ぎながら、彼女は言う。
「気にしないでください。待つのは嫌いじゃないです」
彼女の方に顔は向けずに答える。
二人揃った所で、奏ちゃんが出てきた。
雪乃さんにお仕事お疲れ様です、と挨拶してから注文を取る。
今日はどちらも車なので、飲酒はできない。とりあえず、烏龍茶と料理を幾つか頼む。
「じゃあ、少し待っててくださいね」
注文の紙を持って奥へと戻っていく奏ちゃんを見届けた所で、雪乃さんが口を開く。
「今日はびっくりしたわよ。仕事中に電話かけてきたから」
それに関しては申し訳なく思う。実際、メールの送り主自身に罪がない訳ではないが、無実も同然であった。
「すみません、もう少し時間を置いて話し合うべきでしたね」
僕の言葉に、彼女は机に置かれた烏龍茶を少し飲んでから、言う。
「でも、良かったわ。彼のプログラムがウイルスに侵入されているのが分かって。もう少し発見が遅れていたら、更に被害は大きかったかもしれない」
そう言ってもらえるとありがたい。
この話はここで終えて、本題に入ろうと促す。
「今日は何の要件ですか?」
彼女が突然呼び出すなんて何かしらの用事がないと、おかしいとまでは言わないが、疑問がない訳でもない。
しかし、彼女は僕の言葉に驚いた表情を見せた後、不機嫌そうな顔へと変わった。
良くないことを言ってしまったかと、僕は彼女から不満を言われることを覚悟した。
僕の方を向きながら口を開く。
「伊織君、私があなたを呼ぶのは何かある時じゃないとダメかしら?」
その言葉で納得した。彼女は単に仕事が終わって僕と会いたかったのだろう。
だから、さっきの僕の言葉は交際している相手に対してというより、仕事仲間としてしか見ていないように捉えられてしまう。
非礼を詫びて、彼女の機嫌を戻してもらおうと考えた。
しかし、彼女は謝罪と、僕が何に対して彼女を不快にさせたのかを気付けただけで充分だと言ってくれた。
そう言われると、余計に申し訳ない気持ちになるが、しつこくしてはまた彼女の機嫌を損ねてしまうと思い、それ以上のことは言わなかった。
「ところで最近、仕事はどう?」
雪乃さんからの質問だ。どうと言われても僕のする仕事は、部下の皆が取ってきた仕事に対してOKを出すというのが主だ。
今日、秋江君に持ってこられたあの書類の山を見れば分かるだろう。だから、それが終わった後は、皆の仕事の様子を眺めてみたり、自作のプログラムを組んでみたりしているばかり。
そう言えば、新しいゲームを作ってみたのだった。簡単なパズルゲームだが、ゼウスに既存のものがないか確認を取った上で作成したので、新しいパズルゲーム。
彼女にそのことを話すと、積極的に仕事を見つけなさいという言葉と同時にそのゲームをプレイしてみたいと言われた。
問題は全部で一〇問程を予定しているが、まだ半分ぐらいしかできていない。
試作品ということで、できている段階で彼女にデータを送信する。左側頭部に手を当て、
「
と指示を出す。
ゼウスプログラムが彼女にデータを送る。
ファイルを開くと問題ごとに更にフォルダが別れていることを告げておいた。
まずは一問目。
四角形の中に複雑に入り組んでいる棒の山。その中に球体が一つある。これを四角形の下に空いている穴に落とすことができればクリアだ。
ちなみに棒は自由に動かせるが、回数は三回まで。
一見難しいように思えるだろうが、一番簡単なものだ。
現に彼女も、開いてから三分と経たない内に球体を下に落としていた。
二問目から少し難易度が上がる。
雪乃さんもこれには少し苦戦していたようだが、五分で解き終わった。
次の三問目には八分。そして四問目には一〇分。そして、五問目。
これにはとても悩んでいるようだ。彼女の視界、とリンクした僕の視界にもパズルを解いている様子が見れる。
困ったように顎に手を当てて考える彼女。
二〇分近く考えた所で、大きく息をつき、降参と述べた。
「悔しいけど分からないわ。こんなの考えつくなんて凄いわね」
素直に嬉しかったが、もう少し問題を改良してもいいかもしれないとも思った。
全部で一〇問あるとして、五問目の段階で博識の雪乃さんに解けなかったのであれば、そこに辿り着くまでに投げ出される気がしてしまう。
何より、ゲームというのはクリアできてこそ。
難しいのが好きなのは分かるが、クリアできないほどに難しいゲームでは、純粋に楽しむこともできない。
その後は、雪乃さんと色々な話をする。
この関係を続けて一年近く経つというのにお互いのことはまだまだ分かり得ないし、何より僕には女性の気持ちというものが理解できていないのだなと思い知らされる。
やはり、プログラムを体に埋め込んだコンピュータと化しても、人間であることには変わりない。
この体、この脳は生身のままなのだから、当然のことか。
というのを、彼女と別れて帰路に着く車の中で考えていた。
居酒屋の前で、別れ際に雪乃さんに言われた。
「伊織君、私のことどう思う?」
突如放たれたその問いの答えを、僕は必死で考えた。
ゼウスにこの答えを聞いても返ってこないだろう。これは、彼女の人としての気持ちの質問だ。
そんなものの答えを創り物のプログラムに分かる訳がない。
「素敵な人だと思います。一緒にいれて光栄だと」
嫌な答えではないだろうと思った。
彼女は軽く笑みを浮かべて、そう、と呟いた。
「ごめんなさい、変なこと訊いて。また明日ね」
僕の胸に少し顔を埋めるように抱きしめた後、彼女は自分の車へと歩いていった。
その後ろ姿に、お気を付けてと声をかけると、彼女は後ろ手に手を振った。
車に乗り込み、自動運転モードにして帰路に着く。
今日も彼女と話して色々と学んだ。
一年という期間、毎日ではないが、結構な頻度で会話するのに、彼女のことを意外だと思う場面が沢山ある。
仕事とプライベートであれほど変わる人もそういないだろう。彼女のことを考えている時間が増えた僕も多少は変わってきたのかもしれないが。
家は住宅街の一軒家。一人で住むには充分、少し広いと言ってもいいぐらいかもしれない。
車は自動で
車庫から出て、玄関へと向かう、その時であった。
背後に気配を感じて、ゆっくりと振り返った。
紺色のブレザーに、チェック柄のスカート。黒いローファーに黒のタイツ。
全身が暗い色で覆わていると思われたその人物の首には、対照的な
見た目からして高校生だろう。女子生徒。
彼女が何故僕の後ろに立っていたのかを確かめてみる。
「こんな時間にどうしたんだい? この近くに住んでる人かな?」
この近くでこんな少女を見たことはないが、もしかすると会ったことがないだけで、いたのかもしれない。
そんな思いを持ちながらで訊いてみたのだ。
しかし、返答はない。少し下に顔を向けているので、どのような顔かは伺えない。
これ以上待っても意味がないのではと思い、家の中へ入ろう玄関まで歩いた時、
「閏伊織さん」
名前を呼ばれた。
振り返ると、彼女もこちらを向いていた。
整然とした顔は、同年代の男子からはとても魅力的だと思われているだろう。
しっかりと顔を捉えたことで、彼女の情報が視界に表示される。本意ではないため、なるべく見ないようにする。
「見てくれていいですよ。私もあなたの情報を見ましたから、お互い様ということで」
言われて僕は気付いた。
彼女が何故僕の名前を知っているのか。ゼウスプログラムによる相手の情報表示は、同じ会社、同じ学校など決められた区分内の人間にしか行われない。
僕の場合は役職が役職なため、ほとんどの人の情報を見ることができてしまう。
しかし、彼女は? まだ学校に通っているような年齢の彼女に僕の情報が見れるというのはどうもおかしい。
事前に僕のことを調べていた可能性があるが、それなら見ましたというより調べてきましたと言った方が妥当だろう。
やはり、彼女には僕の名前や年齢などの情報が見えている。
ならばと、僕も彼女のことを真っ直ぐに見据える。
更新されていく情報。
名前を
齢一七、等の情報が表示されていく。
彼女の体の情報に関しては流石にシャットアウトした。
そんな僕の行為を知ってか知らずか、彼女は笑みをこちらに向ける。
「君は一体何者だ? そう思ってらっしゃるでしょう」
そして、放たれたその言葉。僕の思考を読んだとでも言うのか。少し恐ろしくなってきた。
「当たりだ。君は何者なんだ? 何故僕に接触してきた」
すると、折本沙耶は近寄ってきた。
僕は心の中では抵抗を考えているが、体ではそれが実行できないという状況に陥っている。
僕の目の前に立った彼女は、
「私は私。折本沙耶という一人の人間です。いえ、私自身は人間とは思っていませんが」
と、訳の分からないことを耳元で囁いた。
人間であるが、自分では人間と思っていない。
印象に残る言葉だ。
「もう少しお話したいのですが、お時間よろしいですか?」
問われて、僕は我に返った気がした。
辺りを見回す。住宅街では誰も出歩かないような時間帯なので、人はいない。
夜中に少女を自宅に連れ込むなど、やましいことがなくても危険だ。
分かったと、返事を返して家に招き入れた。
3
客人を招くことがあまりないので、とりあえず紅茶を出すことにした。すると、ミルクが欲しいというので、やはり子どもなんだなと思わされる。
外は寒かったので、彼女の顔は髪の色と同じように少し赤みを帯びている。
正座をして、顔を赤らめて、甘くした紅茶を飲む女子高生が家に来るなんて考えもしなかった。実際に見てみると少しいいものだなという考えは振り払った。
「閏さんって、面白いことを考えるんですね」
マグカップを手に笑う彼女。
彼女は僕の思考を読めるのだったと、改めて思い直した。
咳払いを一つして、笑う彼女を制した。
「それで、君は何者なんだ? 急に姿を現して、人の心を読んだり」
折本沙耶はマグカップを机に置き、同じように咳を一つした。
「まず、始めに私のことは沙耶と読んでください。フルネームででは呼び辛いでしょう。私が何者かという質問ですが、先程も言ったように人間です」
僕は溜め息を一つ吐いた。
抽象的にではなく、もっと具体的に誰なのかを答えてほしいと再度要求する。
「ただの女子高生です。ちょっと変わってるて言われますけど」
ちょっとどころではないな、と思いながら、読まれる可能性を思い出して考えるのを止めた。
「私はただの女子高生です。あなたにお願いがあって来ました」
お願い? と聞き返す。
沙耶のような少女と面識なんてないし、頼まれるようなことも当然思い付かない。
次の言葉で、彼女はそのお願いとやらを述べた。
「私を誘拐してほしいんです」
時が止まったような気がした。
いや、実際僕だけの時は止まっていたに違いない。
沙耶に名前を呼ばれて意識が戻る。
「君、自分が何を言っているのか分かっているのかい」
穏やかに告げる。
怒ろうにも頭が混乱していた。
それに対して彼女は、ええ、といつもの笑顔で答える。
自分を誘拐してくれという変わった女子高生。
何故僕を選んだのか訊いてみた。
「その理由は直に分かります。具体的には五日後ぐらいに」
随分と急だなと思う。思考が読めることについても、同じ日に分かりますと言われた。
しかし、僕は犯罪者になるつもりはない。
今すぐに帰った方がいいと、彼女に促す。
「もし私を帰したら、何を言うか分かりませんよ。閏さんに乱暴されました、とか」
不敵な笑みを浮かべる彼女。
「分かったよ。信じることにしよう。それで、僕が君を誘拐することで得られるメリットはあるのか?」
誘拐という犯罪を犯して得られるメリットなど、金銭的、性的欲求を満たすぐらいではないだろうか。
生憎、金銭的に困ってはいないし、性的な目で彼女を見るつもりもない。すると、彼女はメリットならある、と断言した。
「閏さんがもらえば、きっと嬉しいと思えるものが手に入ります」
僕がもらって嬉しいもの。それも思い付かない。元から物欲が高い訳ではないし、気まぐれな性格なので、欲しいと思うものが自分でも予測がつかないぐらいなのだ。
これ以上話しても、どうせ彼女は言うことを訊かないだろうし、答えてくれることも少ないだろうと思った僕は、とりあえず今日だけ彼女を泊めることにした。
本当にやましいことはしていないし、むしろ被害者は僕だと言ってもいいようなものだ。
鞄から服を取り出した彼女は、シャワーを貸してほしいと言った。後から僕のような男が入っても気にしないのだろうか。
娘は自分の父親の入った後、自分の後の風呂に入るを嫌がるというのを、よくドラマなんかで見た知識で持っていたので、彼女もそうなのかと思っていた。
会ったばかりの少女を勝手に自分の想像へと引き出すのは、我ながら気持ちの悪いことというのも理解した。
彼女がシャワーを浴びている間に、ゼウスプログラムを使って検索をかける。
「
ゼウスがネットを経由して沙耶に関する資料を探してくる。
すると、彼女の学校での情報が出てきた。
これは何も、誰にでも出来るわけではない。役職を持った人間にも同じく言えることだ。
沙耶が浴室に行く前に、僕のことを承認したことで、より詳細な情報検索を許してくれたのだ。
この『承認』という行為は、皆平等に与えられたステップなのだ。
その際、相手もこちらのことを詳細に調べることができるようになる。
もっとも、彼女の場合はそんなことをしなくても僕のことは色々と知っていそうな感じではあったが。
とにかく、学校での情報を開いてみた。
成績優秀、スポーツ万能と捉えることの出来る文章が飛び込んでくる。
正しく、文武両道という言葉が似合う女子だ。
好かれる性格でもあるようで、学校生活は良好。
特に見ていて気になる部分はなかったが、一つだけ。
家族構成について書かれている部分があった。
両親を早いうちに亡くしている。母親の妹である叔母に引き取られ、現在同居中。
保護者の欄に目をやると、そこには驚くべき人物の名前が書かれていた。
そこに丁度、浴室から出てきた沙耶がやってきた。
資料を閉じて、彼女の寝る部屋を用意する。
僕の仕事部屋の隣が使っていない部屋だったので、今日はそこに寝るように言った。
去り際の僕の背中に、声がかかる。
「ありがとう」
少し赤い顔で言った彼女は、扉を閉めた。
それが、シャワーを浴びたことによる体温の上昇から来ているものなのか、彼女自身の気持ちでそのようになっていたのかは分からなかった。
僕も明日からのことを考えて眠りに就いた。
翌朝、いつも通りゼウスが設定する体内アラームにより、脳内に直接目覚ましの音が響く。
勿論、大音量で響くことはない。その人が起きるであろうという最適な音量に、自動で設定されている。中にはそれによって大音量で響く人もいるだろうが。
きっかり七時。身を切るような冬の気温に耐えるため、ベッド横にかけているセーターを羽織る。
寝ることには寝たが、昨日は考え事をしていて中々寝付けなかった。
勿論、沙耶のこと。彼女を早く元の場所に帰さねばならない。
階段を下りている途中で、何かの音が聞こえてきた。
キッチンから聞こえてくるその音の正体は、自ら誘拐してほしいと言ってきた謎の多い少女、沙耶だった。
リビングと直結するキッチンなため、階段を下りて扉を開けると、彼女の後ろに立つ形になる。
後ろから様子を眺める僕に気付いた彼女は、笑顔でおはようと挨拶してくる。
「よく眠れた?」
あまり使わない、僕の大きめのエプロンを身に着けて料理をする彼女を見て、少し溜め息を吐いた。
「微妙かな」
そう答えて、コーヒーを入れようとすると、彼女が待ってと制した。
何とも手慣れた手つきでコーヒーを入れて、僕に手渡した。戸惑いながらも、ありがとうと礼を述べて、テーブルへと着いた。
ゼウスに向けて「
ニュースでは今の所、女子高生が行方不明などというニュースはないようだ。
まだ大事になっていない内に、彼女を家に帰そうと僕が考えていると、沙耶が皿に盛りつけた料理をテーブルへと置いた。それと同時に、
「私、帰らないよ」
という、少し不満を交えたような彼女の声がかかる。
少し驚いて見上げると、僕を見下ろす彼女の顔があった。
彼女には僕だけかは分からないが、思考が読めるのだ。
今も僕の考えていたことを読んだのだろう。
「とは言っても、君はやはり元の場所に帰るべきだ。僕もいつまで君をここに匿えるか分からないよ」
穏やかに、しかし諭すように言った。
沙耶は、小さくごめんなさいと呟く。何とも重苦しい空気が流れたが、沙耶が作った料理が冷めるからと言ったことで、お互いに気にしないようにして食卓へと着く。
半熟のベーコンエッグに、水水しいレタスとトマト。焼きたてのトーストに溶けるバターが食欲をそそる。
絵に描いたような朝食だが、それでいいと思わされるような出来だった。
いただきます、としっかり手を合わせてから、フォークでベーコンエッグの白身とベーコンを取り、黄身を点けて食べる。
「美味しい」
自然と口から出た言葉であった。
僕の様子を、目の前に座り両肘を着いた沙耶が笑顔で見つめる。
「料理、上手なんだね」
そう言うと、増々嬉しそうに笑ってみせる。
朝食を終えると、彼女は食器を洗い、服を着替える僕の元にやってきた。
ネクタイを締める際、彼女がさせてほしいと言うので任せてみた。すると、いつも自分でしている僕よりも上手く、そして早くに終わった。
全く非の打ち所がない少女だと思う。
「今日も仕事行くの?」
僕を見上げるように問うてくる彼女に、君も学校があるんじゃないのか? と問い返してみる。
すると、彼女は苦笑して見せた。
「だって、私誘拐されてるんだよ? 普通に学校なんて行ってたらおかしいじゃない」
誘拐されたという設定を通すつもりか、と納得しながら、やはりどこか腑に落ちない部分を持ちつつ、玄関に行く。
鞄を渡してくる彼女。その際、まるで夫婦みたいだね、と一言添えられた。
僕は聞き流すようにして、仕事へと向かう。
車に乗り込み、自動運転で行き先を会社へと設定する。
「夫婦か」
リクライニングシートを少し倒して、一人呟く。
もし今日のような朝を送る人物がいるとすれば、相手は雪乃さんになるだろう。
だから、沙耶との今日のやり取りは、その予行演習になった感じか。
そんなことを考えながら、僕は車の中で居眠りをした。
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