第8章/Escape Road

8-1

 深夜。父母が眠りに就くのを見計らって、あたしは自分の部屋を出た。


 そろそろと階段を下りて、癌細胞の住む部屋へと歩を進めると、扉越しにうっすらと光が漏れ出ているのがわかった。カタカタとパソコンのキーボードを叩く音も聞こえてくる。寝ていたら起こすのが手間だなと思っていたが、今日も今日とて昼夜逆転のだらしない生活を送っているようだ。


 あたしはゆっくりと息を吸い込んで肺に酸素を行き渡らせると、その部屋へと近づき、おもむろにドアを開いた。


「何ノックもせずに――」


 椅子ごとこちらを振り返って、罵声の言葉を浴びせようとした兄だったが、すぐに黙り込んだ。兄にしては珍しく賢明な判断だった。


「お前……何を考えている」


 あたしの手に握られたものを注視しながら、無様に口をぱくぱくさせて兄は言った。あたしは返答の代わりにアニメ雑誌を蹴り飛ばしながら兄へと近づき、その首筋に草刈り鎌を突きつけた。


「声出したら殺す。抵抗しても殺す。あたしをむかつかせるのもNG」


 鈍い光を放つ鎌の切れ味は、神社からの帰り道に立ち寄ったホームセンターの店員の折り紙付きだ。あのおっさん、冗談のつもりなんだろうけど『草どころか人間の身体だって切れますよ』なんて言ってたっけ。


「逆らおうだなんて馬鹿なこと考えないでね。今の腐りきったなが兄じゃ、コスプレ中学生一人押し倒せやしないわ」


 初芝先輩のビンタですら、翌日に清乃がそれと気づく程度の痕をあたしの頬に残したというのに。兄の怒りにまかせた殴打は――いきなりのことだったから倒れはしたけれど――あたしに何らの傷も負わせられなかった。少なくとも翌日に外村さんがそれと気づく程度の痕すらもあたしの頬に残せやしなかったのだ。


 もちろん傷が残るほどの暴行を受けたかったわけではない。だけど、その一方であの兄がここまで劣化してしまったのかと、少しも痛くない足蹴のさなかに絶望的な気持ちになったのもまた事実だった。


「……望みは何だ」


「夜の散歩に付き合って。車椅子はあたしが押すから」


 兄はしばらくの間、死んだ魚のような目でこちらを見ていたが、あたしが鎌の刃先でせかすと、のろのろした動作で立ち上がって、部屋の隅に置いてあった車椅子に移動した。


「片手じゃあ車椅子は押せないんじゃないか?」


「両手を頭の後ろに。そう。親指だけ突き出しなさい」


 兄の背後にまわったあたしは、針金で手早く両手の親指を緊縛した。指錠というやつだ。あえて身体までは縛らない。今の兄なら最低限の拘束で充分だ。


「用意周到だな」

 あたしがズボンのベルトに鎌を差し込むのを横目で見ながら、兄はどこか現実感のない声で言った。


「計画的犯行だからね」


 あたしはにこりともしないで応じると、乱暴な動作で車椅子の取っ手を掴んで、部屋の外へと押し出し始めた。

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