8-8
ばすんと、どこかで間の抜けた音がした。
え、何? と思うまもなく、それは弧を描いてあたしとなが兄の間に飛び込んできた。
白と黒のコントラストが鮮やかなスイカ大の球体。
あたしの凶行を阻止したのは、サッカーボールだった。
「練習さぼると……駄目だな。思い……通りに蹴れやし……ない」
振り返れば橋の先っぽに、胸の辺りを苦しげに押さえながら、こちらを見据えるシルエットがあった。小柄だけど引き締まっていて安定感のある体も、針金みたな短髪も、あたしが良く知っている少年のそれだった。
「しき……しま?」
あたしは両手を口元にあてて呟く。なんで。どうしてあいつがここにいるわけ?
「自分の落ち……度で……人に落ち込ま……れるのって……地味に腹立つ……な」
あたしの元相棒は、ぜえぜえと息をしながらゆっくりと歩きだした。ええい、くそ。苦しいんだったら喋るなよ。って言うかあんた、心臓に疾患があるんだろ? 何だってこんなことのために危険を冒すんだよ!
「川原」
懐かしい声でそう言われて、あたしは両手のこわばりがじんわりと和らいでいくのを感じた。
「……なにさ」
「電話にはでろ。留守電ぐらい聞け。自己完結して全部なかったことにするな……お前は……お前は、俺のパートナーだろうが」
敷島はこんな時でも敷島だった。
こっちの気持ちも知らないで、一番大事なことをしれっと言ってのける馬鹿。大馬鹿野郎。あたしはもう、自分の涙腺に土嚢を積み上げるので必死だった。
あたしが顔をくしゃくしゃにして立ち尽くしていると、敷島はあたしとなが兄の間に割って入った。
「あんたがサッカー部の伝説か」
あーもう、右手でさりげなくあたしを庇うなよ。
「過ぎたことだ」
「そのようだな」
いつも以上に冷ややかな態度で応じた後で、敷島はあたしの方を向いた。
「この男が一連の事件の黒幕――ジャッピング・ジャックってことで良いんだな?」
「なんだ、気づいてなくてここに来たのか」
あたしが口を開くより先に、なが兄は心底軽蔑するように言った。
「どいつもこいつもまるでまるでわかっちゃいない」
「あんたのせいで大勢の人間が死ぬことになった。俺の親友もだ」
敷島は再びなが兄の顔を真っ直ぐに見据えて、言った。
「泉田秀彦か」
「そうだ」
敷島がうなずくと、なが兄は煩わしそうに鼻を鳴らした。
「お前はあの男が初芝郁美にどういう仕打ちをしたのかを知らない。知らないからこそ正義漢を気取ることができるのだろう。初芝郁美には泉田秀彦を殺さねばならない理由があり、泉田秀彦はそのことに対してどこまでも鈍感であった。今のお前と同じにな。俺のせいではない。泉田秀彦は殺されるべくして殺されたのだ」
敷島の肩が、一度ぴくりと震えた。怒っている? 違う。今の敷島を支配しているのは激情ではなかった。
「確かに俺は秀彦が初芝先輩にどんなひどいことをしたのかを知らない。ずっと近くにいながらそれに気づくことができなかった俺に、秀彦の死について語る資格はないのかも知れないな」
気負いもなく、衒いもなく、敷島は言った。
「だが、そうであるなら尚のこと言っておかなくちゃならないことがある」
「ほう?」
挑発的な態度を見せるなが兄だったが、敷島はそれを無視しておもむろにあたしの方に振り返った。
「暴れるなよ」
短く言ってあたしの腰に手を伸ばす敷島。って、ちょっと、いきなり何を――。
敷島はあたしのズボンから草刈り鎌を抜き取ると、無言でそれを欄干の向こうに放り投げた。
ぼちゃん。
あたしが小遣いをはたいて購入した草刈り鎌は、結局一度も使われることなく、瀬名川に消えていった。
「俺はこれ以上誰も殺させはしないし、死なせもしない。あんたが妹のことをどう思ってるのかは知らないが、俺は川原鮎まであちら側の人間にするつもりはない」
敷島が力強く宣告すると、なが兄の体がわずかに傾いだ気がした。
「流さん、もちろんあんたもだ」
敷島は一歩前に足を踏み出して、がっしりとなが兄の腕を握り締める。
なが兄は動かない。動けない。ただ、のっぺらぼうのような表情で掴まれた腕を見下ろすだけだ。
「ばかどもが……」
――遠くでサイレンの音が鳴り始めたのは、それから程なくのことだった。
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