8-7

「どうしてなが兄がこんなことを――」


 長い沈黙の後で、あたしは鳩尾の辺りを撫でながら言った。まるでその部分にぽっかりと空洞ができていて、ひっきりなしに風が吹き込んでいるようだった。


「俺に答えを求めた五人は皆、理不尽に虐げられ、奪われ、辱められていた。彼らは生きることに苦しんでいた。それでいて、生きたいと強く願っていた。であれば彼らに残された選択肢は二つだけだった。死ぬように生きてか、殺してでも生きか、だ」


 呆然と立ち尽くすあたしをよそに、兄は淀みのない声で話し始めた。


「……もっとも彼らを取り巻く世界はあまりにも強固だった。二つ目の選択肢など初めから無いようなものだった。彼らにはが必要だった。だから俺は彼らに犯行計画を示した上で、問いかけたのだ。どちらを選ぶのかと」


 ――駄目だ。


 目眩に似た感覚がぐらりとあたしの立ち位置を揺るがした。


「俺の犯行計画は完全ではなく万全でもなく安全ですらなかったし、実行犯の五人もそのことは重々承知していた。にも関わらず、五人全員が犯行計画という武器を手にとって戦うことを選んだ。何故だと思う?」


 それは――そんなのは駄目だ。


「俺の犯行計画が自らの同胞を信じ、何より自分自身を信じ抜くことによって最大の効果を発揮する代物だったからだ。わかるか、鮎? 裏切りを恐れてのことではない。信じ合うというたったそれだけのことを武器としたからこその決断なのだ」


 殺害の動機があって、殺害のプランがあって、傍らにあのなが兄がいるのなら。


 誰だって自分を信じようと思うだろう。


 誰だって最善を尽くそうと思うだろう。


 誰だってなが兄の計画に身を委ねようと思うだろう。


 なが兄は選ばせたつもりなのかも知れないが――そんなのは選択でもなんでもない。


 なが兄と出会う前は二つ目の選択肢など初めから無いようなものだったのと同じように。


 なが兄と出会った彼ら五人には二つ目の選択肢以外初めから無いようなものだったに違いないのだから。


「わかんない」


 あたしはふらつく足に力を込めて、何とか体勢を立て直す。


「なが兄が言ってること、わかんない。なが兄の計画に乗っかる大馬鹿野郎共の気持ちも、ぜんっぜんわかんないよ。って言うかさ、あたしが聞きたいのはどうしてなが兄がそんな大馬鹿野郎共に手を貸したのかなんですけど!」


「――わからないのか?」


 すると兄は、肩越しにあたしを見ながら冷厳と尋ね返した。普段よりも心なしか大きく見開かれた瞳には、抑制しきれない怒りがにじみ出ていた。


「俺にとってはサッカーも学問も探偵小説も、強固で強大で凶悪な世界と戦うための武器だった。それらの武器があって、初めて俺はこの世界を生きことができたのだ。できることなら世界の強さに絶望し、戦うことさえ諦めてしまいがちな同胞たちにも、せめて武器があるということだけは伝えたい。いつだって俺はそう思っていた。昔からずっとな」


 そうだった。


 あたしが小学生の頃、探偵小説にはまったきっかけは。


 あたしが名探偵にあこがれたきっかけは。


 臆病だったあたしが、下を向くことをやめたのは。


 なが兄がいたから。なが兄が側にいて、あたしの行く道をずっと見守っていたからだ。


「俺が交通事故に遭った時、周りの人間は皆、憐れむ振りをしながらその実サッカー選手としての俺が失われたことをだけ嘆いていた。俺は少しも変わらず俺としていたのに、誰もが腫れ物に触るように接してきた。くだらない。あんなものは、俺にとってはたかが武器の一つだというのにな」


 要するに――要するになが兄は何一つ変わっていなかったのだ。


 家族に対する傲慢な振る舞いも、武器となるから。


 事実それは、あたしや両親がなが兄を弱者として憐れみ、軽侮し、過去にばかり目を向けている以上は有効な武器であり続けるだろう。


 おぞましいと言えばおぞましい。しかし、なが兄が変わっていなければ当然選ぶであろう戦術――。


 そこまで考えてから、あたしははっと息を飲んだ。


 あたしや両親が、なが兄としっかり向き合い、憐れみや軽蔑なしに昔と変わらない関係を築いていたのであれば、ひょっとしたらこんなひどい事態を招くことはなかったのではないかと、そう思ってしまったのだ。


「さて……俺の話はそろそろ終わりだ」


 呆然とするあたしをよそに、なが兄は静かに立ち上がった。いつの間にか、指を拘束していた針金が外れかかっている。


「あ……」


「指錠のやり方、間違ってたぞ? どこで調べたのか知らないが、これじゃあすぐに外れてしまう。ま、痕が残ってないのは、お前にとって良いことなんだろうが」


 なが兄は針金を完全に取り外して投げ捨すてると、あたしに近づき、ズボンのポケットから携帯電話を奪い取った。もちろん、白いジャンピング・ジャックの携帯電話だ。


「可愛らしくも愚かな妹のためだ。これくらいのサービスはしてやるさ」


 なが兄は素早い動きでボタンを連打すると、あたしに携帯電話を突っ返した。すぐにブルブルという振動音が兄のズボンのあたりから聞こえてくる。


「さぁ、お前の用事を済ますと良い」


 なが兄は世界の全てを嘲る様な笑みを浮かべて、丈の低い欄干に腰を預けた。


 なが兄の狙いは明らかだった。あたしの立ち位置もそうだった。


 あたしにはなが兄を殺す動機がある。


 あたしにはなが兄を殺すプランがある。


 そもそもあたしはなが兄を殺すためにここに来たのだ。


 なるほど。なが兄ならばジャンピング・ジャックたりうる。悩める高校生を殺人者に変えることができるだろう。


 何をすべきか。あたしという木がどのような木なのか。答えはもう、出ていた。


 あたしは自分自身に言い聞かせるように小さくうなずくと、兄のぶよぶよした胸を瀬名川の河原めがけて強く――。

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