8-3

 あたしにとっては幸いなことに、通りには人っ子一人見あたらなかった。道の両脇に並び立った住宅も、そのほとんどが灯りを落とし、眠りについているようだった。こんな星の綺麗な夜なのにもったいないな。そんなことをどこか他人事のように思いながら、あたしは兄に話しかける。


「さっきあたしは、泉田君の部屋に荒らされた形跡はなかったと言った。そのこと自体は嘘じゃないけど、事件後に一つだけ部屋から消えていたものがあったの」


「何が無くなっていたんだ?」


「使いかけのコンドームの箱」


 あたしは兄の問いに躊躇無くそう答えた。その単語を耳にしただけで取り乱してしまったのが、ずっと昔のことのように思えた。


「ま、偉そうに言ってるけこれはあたしの手柄じゃないんだ。この、ごくごくささやかな消失事件に気づくことができたのは、敷――泉田君の親友だけだった」


 彼の名前を言いかけた時、さざ波のように何かの感情があたしの心を揺らした。


「彼の話では、泉田君はコンドームをしてセックスするのが好きではなかったらしい。だから、部活の先輩から箱でもらったコンドームをほとんど使わずにベッドの小物入れにしまい込んでいた。事件の二日前までは間違いなくあったと、その彼が断言してくれた」


 あたしは車椅子の取っ手を軋む程に握りしめて、話すことに意識を集中させる。


「付け加えると、コンドームの箱は二十四個入りで、開封済みとは言え、かなり中身が残っていた。要するに、二日間で使い切れる量じゃあなかったんだ。使いかけの箱を欲しがる人間もいないだろうから、誰かにあげたってのも考えにくい。にも関わらずコンドームの箱は事件後に室内から消えて無くなっていた。何故か。今のあたしには、その問いに対する答えは一つしか考えられない」


「泉田を殺害した犯人が持ち去ったと言いたいのか? 何のために?」


「警察が駆けつけた時、泉田君の部屋の扉には鍵が掛かっていたの。これは、泉田君の部屋がだったということを意味するものではない。何故なら、泉田君には付き合ってる女の子に自分の部屋の鍵を貸し与えるという気障ったらしい習慣があったから。それともう一つ。泉田君は眠りが深くて、一度寝てしまうとよほどのことがない限り目を覚まさない体質だった。泉田君に近い人間でしか知り得ないこれらの情報を踏まえて、あの事件を見直せば、事故や自殺とは全く違う仮説を導き出せるとは思わない?」


「――泉田の交際相手による計画的な犯行、か」


「そういうこと」


 今のなが兄にしては冴えた答えじゃない。とは口に出さずに、あたしは説明を続ける。


「部屋で熟睡している泉田君を窓の外に突き落とすというのは、非力な犯人にとって、ほとんど唯一と言って良い現実的な殺害方法だった。しかしながら、泉田君の部屋を犯行現場に設定できる人間はそう多くはない。警察が殺人事件だと判断すれば、たちまち容疑者リストに名を連ねることになるだろう。だから犯人は、を作り上げたんだと思う」


 語尾に車輪が石を踏む鈍い音が重なり、その拍子に背中を熱い汗が伝った。


「犯人にとって計画の根幹となったのは、もちろんジャンピング・ジャックのメールだった。あのメールを泉田君のケータイに送信することで、彼がジャンピング・ジャックにそそのかされてマンションから飛び降りたように見せかけることが、犯人の狙いだったの」


 話している間にも、道路の幅が段々と広くなってきている。県道まであともう少しだ。


 あたしは車椅子を押す手に力を込める。


「事件当日の犯人の行動は、多分こんな風だったんじゃないかな。明け方、事件現場のマンションを訪れた犯人は、人目に付きやすい正面玄関を避けて、裏手にある非常階段を上り、泉田君の部屋に向かった」


 薄明の非常階段を静かに上っていく初芝先輩の姿を思い浮かべながら、あたしは強く下唇を噛む。一度は身体を許した相手を、殺したい――殺さねばならないと思うに至った理由は何だったのか。想像したくもない。けれどうっすらとならば想像できてしまうのは、あまりにも救いのないストーリーだった。


「合い鍵を使って泉田君の部屋に侵入した犯人は、まず始めに泉田君がベッドで熟睡しているのを確かめた。次に、泉田君をベッドから引っ張り出して、近くにあったキャスター付きの椅子に座らせると、ジャンピング・ジャックのメールを泉田君のケータイに送りつけた。そうして泉田君が履いていたジャージのズボンにそのケータイをしまい込むと、椅子ごと窓の所まで押していって、その勢いで彼の上半身を窓枠に引っかけた。後は下半身をくるんとすくい上げれば、それでおしまい」


 泉田は眠り続けたままだったのだろうか。最期まで痛みを知らずに死んでいったのだろうか。


「椅子を使うやり方は、体力的にも体格的にも泉田君に劣っている犯人が、どうにかして泉田君をマンションから転落死させるために考えたものだろうけど、犯人の姿を目撃されにくいという副次的な効果もあった。事実、たまたま近くに居合わせて転落の一部始終を目撃したあたしも、泉田君の背後に誰かがいたことにはまったく気がつかなかった」


 あのマンションにいかなければ気がつかないままだった。もしも敷島と一緒でなければ、ずっと気がつかないままだったろう。


「……泉田君を殺害した犯人は、来たときと同じように非常階段から外に出たわけだけど、その前に二つ、したことがあった。一つはベッドの小物入れからコンドームを取り出して、持ち去ったこと。もう一つは、泉田君の部屋に外から鍵を掛けて、来たときと同じ状態に戻したこと。どちらも危険な行動ではあった。コンドームを持ち去ったことが判明すれば、警察は他殺の可能性を検討することになるし、そうなれば、部屋に鍵が掛かっていたという事実も犯人にとって不利にはたらいてしまう。にも関わらず、犯人がコンドームを持ち出したのは、泉田君の人間関係――とりわけ女性関係に警察に興味関心が向かわないようにしたかったから。そして、泉田君が一人で死んだということの傍証を積み上げるために、リスクを承知で部屋に鍵をかけたの」


 口にするとやや剣呑な行為にも聞こえるが、結果的にはこうした隠蔽工作は犯人にとって有利にはたらいたと言えるだろう。なかなか結論を出さなかった警察ではあるが、泉田の交際相手に疑惑の目を向けたことはおそらく一度もないはずだ。


「わからないな」


 だが、事情を知らない兄は訝しげな声をあげる。


「そうまでして犯人が泉田の死を自分と無関係に見せかけようとした理由は何だ?」


 二秒。あたしは、呼吸を整えるのに、二秒だけの沈黙を得た。


「犯人――初芝先輩は中絶していたの。泉田君の子供をね」


 車椅子に座った兄が目を閉ざしたのが、気配でわかった。


「警察が本気で調べれば、産婦人科に通院していたことなんて容易に突き止められてしまう。先輩は、そのことと事件の関係について疑われることを、何よりも恐れていたの。だから、他殺はもちろん、自殺であると疑われるのも駄目だった。先輩にはジャンピング・ジャックのメールにあり金の全部をベットする以外、選択肢はなかったんだと思う」


 初芝先輩のことは嫌いだった。今でもそうだ。だけど、彼女のその選択肢の狭さについてだけは、同情を禁じ得ない。泉田秀彦を殺害すると決めたのであれば、そしてジャンピング・ジャックのメールという偽装の手段を手に入れたのであれば、彼女の進むべき道は一つしかありえなかった。


「つまり、初芝郁美が中絶していたというのが、お前の言う泉田が殺害された証拠というやつなのか?」


 ややあって、兄が低い声で尋ねた。どこかあたしを試しているような口調だった。


「いいえ」


 あたしは首を振って答えた。


「今までの話は全部状況証拠。初芝先輩が中絶していたのは事実だけど、それが本当に泉田君の子供なのかはわからない。わからない以上、決定的な証拠とは言えないでしょう?」


「それなら、他に決定的な証拠とは言えるものがあるのか?」


 やはり気づかなかったか。今の兄に期待しても無駄なことはわかっていたが、残念だという思いが心の中にじわりじわりと広がっていくのを抑えることはできそうになかった。


「……なが兄は、あたしがケータイを見せた時に何も気がつかなかったの?」


 あたしはズボンのポケットをまさぐりながら、詰るように言った。


「四年前になが兄が選んでくれたのは、メタリックブルーの折りたたみ式ケータイだった。扱いが悪いから今はもうボロボロだけど、それでもこんなダッサいケータイを選んでもらった覚えはない。少なくとも、あたしにはない」


 そうしてあたしは、昨日丘出山の神社で発見した決定的証拠――白いプリペイド式の携帯電話を、再び兄に突きつけた。

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