7-3
二分後――おそるおそる第二校舎の中に足を踏み入れたあたしは、辺りを警戒しつつ、一路保健室へと向かっていた。
幸いなことに、東高の保健室は第二校舎の一階にあった。
今のあたしには、もし外村さんが校内にいるなら、保健室にいるはずだという確信があった。
スタンドから初芝先輩が転落する一部始終を目撃した女子高生が、今現在どんな精神状態にあるか。少し前の自分を思い返せば、容易に想像できることだ。そんな女子高生の相手をするのに、トイレでろくに手も洗わないような警官たちではいささか荷が重すぎる。
ほどなく保健室の目の前まで来たあたしは、身を屈めて室内の様子をうかがうことにする。ぴったりと閉ざされた扉の向こうに誰かしら人がいるということは気配でわかったが、話し声は聞こえてこない。
事情聴衆は行われていないのだろうか。踏み込むのはためらわれるが、かといってここに留まっているだけでは意味がない。さて、どうしよう――。
あたしが無い知恵を絞ろうと、小さく首を捻った時だった。
すっと、ドアが滑らかに動いて、婦人警官が姿を現した。ころころと栗を連想させる丸顔は、間違いなく外村さんのものだった。何たる幸運。あたしは立ち上がると、ぴんと背筋を伸ばして外村さんと向かい合った。
「川原、さん?」
ドアの所で立ち止まったまま、外村さんは普段であれば理知的な印象を与える瞳を丸くして尋ねた。
「どうしてここに?」
「少し話をする時間をもらえませんか? 飲み物くらいはおごります」
背後を気にする外村さんには構わず、あたしはそう切り出した。
「……私に会うためにわざわざ校内に忍び込んだってこと?」
外村さんはさりげなく保健室の扉を閉めながら、尋ねた。
「ドアは開いてましたよ?」
「おいたをしないように、と忠告はしたわよね?」
「ドアに手を挟むような馬鹿な真似はまだしてませんが」
我ながら気の利いた台詞だとは思えなかったが、婦警はふっと微かにため息を漏らすと、保健室の隣にある製図室を指さした。
「いいわ。ちょうど第一発見者が眠ったところだし、少しだけならあなたに付き合ってあげられる。ただし、飲み物はいらないわ。高校生にたかるほどには不良警官ではないつもり」
製図室に入ると、外村さんは椅子に座ろうともせず「それで、聞きたいことと言うのは?」と尋ねてきた。
「今朝、学校の屋上から飛び降りたのは、サッカー部の初芝郁美さんだという話は本当ですか?」
「本当よ。あなたもサッカー部の応援に来ていたの?」
「いえ。応援に来てた友達から、どうもそうらしいと――先輩のケータイにも、ジャンピング・ジャックからのメールは届いていたんですか?」
「当然そこが気になるわよね。答えはイエス。彼女の携帯電話にも、あのメールは届いていたわ」
やっぱりか。あたしは一瞬だけ、メールの文面に誤植があったのかどうかを聞こうと思ったが、最早その質問にさしたる意味がないことに気づき、やめた。
「実はさっき、お巡りさんたちが『一連の事件はジャンピング・ジャックによる自殺教唆の線で確定した』と話していたのを偶然耳にしたんですが……それは何か根拠があってのことなんでしょうか?」
あるいは同業者の脇の甘さに対して不快感を抱いたのかもしれない。外村さんは一種鼻白んだ様子を見せた後で、警帽のつばを直しながら「簡単なことよ」と言った。
「初芝さんが転落した時、屋上への入り口は屋上側から封鎖されていたの」
「封鎖? 鍵でも掛かっていたんですか?」
「ううん。そうじゃないの」
外村さんによると、屋上に繋がる階段室のドアを封鎖していたものの正体は、布製の粘着テープだったらしい。ドアと壁の隙間を埋めるように、何重にも目張りされていたのだ。布テープによる封鎖は強固で、警察は四人がかりで十分近くドアと格闘する羽目になったのだと言う。
「布テープは校舎側ではなく、屋上側に貼ってあったんですね?」
「ええ、そうよ。そして、私たちがドアの封鎖をこじ開けた時、屋上には人っ子一人いなかったの」
「……何らかの方法で外から布テープを貼った可能性はありそうですか?」
「密室トリックというやつ? ありえないわ。テープの貼り痕はそれは綺麗なものだったし、屋上からガムテープの残りも見つかっている。何より、テープから初芝さんの指紋だけが残っていたのが決定打ね。疑問の余地はないわ。初芝郁美さんは自らの手でドアを封鎖して、自らの足で飛んだのよ」
「ジャンピング・ジャックのメールに唆されて、ですか?」
「ええ。ジャンピング・ジャックのメールに唆されて」
淡々と首肯しながら、しかし外村さんは理知的な目でじっとあたしを見つめてきた。本当にこれで良いのかと問いただすような視線だった。
「……自分の目撃したことがどういう意味を持っていたのか、ようやく、理解することができたように思います」
ややあって、あたしは言った。
「つまり、納得したってこと?」
「ええ。それはもう。骨の髄まで」
「そう。なら、良かった」
何かが決定的に変わったようだった。その証拠に、外村さんはすでにあたしに対しての興味を失ったように、露骨に腕時計を気にし始めた。
「すいません、外村さん。わがままついでにもう一つだけ聞いても良いですか?」
「……何?」
「ケータイがメールを受信した時刻ですけど、ひょっとして、事件が起きる結構前だったりしません?」
外村さんは一瞬煩わしげに顔をしかめたが、それでも手帳を開いてあたしのために答えを探すだけのことはしてくれた。
「あなたの言う通りね。メールは初芝さんが転落するおよそ十五分前に届いているわ」
「十五分、ですか」
「何か気になるの? 確かに他の事件に比べると、メールの受信時刻と事件の発生時刻がずれているようにも見えるけど……そもそも他の事件では、事件発生の正確な時刻がわからないことがほとんどだし、特におかしくはないと思うのだけど」
「ですよねー。ちょっとあたし、考え過ぎだったみたいっす」
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