5-11

 ぐう、と何かが鳴る音がして、あたしは目を覚ました。


 何のことはない。空っぽの胃が抗議行動をしているらしい。


 もぞもぞと半身を起こして壁の時計を見ると、まだ八時を回ったばかりだ。どうやら空腹で目が覚めたということらしい。


 ――こんなに惨めな気分の時でも、お腹は減るんだな。


 自分の胃袋の貪欲さにほとほと嫌気がさすが、あたしは立ち上がって居間へと向かう。


 帰宅したときもそうだったが、居間には明かりがついていなかった。両親ともまだ戻って来ていないらしい。父はともかく母がこんなに遅くなるのは珍しいなと思いつつ照明を点けた後で、あたしはがっかりした。


 テーブルの上に乗っているのは二人分のトレイと、小さな書き置き。読まなくてもその内容はわかりきっていたが、それでもあたしは書き置きに手を伸ばした。



鮎へ

 今日は役所の懇親会に出るので遅くなります。食事を作っておいたので暖めて食べてください(お父さんは外で食べてくるそうです)


追伸

 お兄ちゃんの分も作っておいたので、鮎が持っていてあげてください。今日はお兄ちゃんの大好きなハンバーグなので、部屋から出てきてくれるかもしれません。そしたら兄妹なかよく居間で食べてくださいね。



 でたよ母のごちそう大作戦。つーか追伸の方が長いっての。


 わが家の善良なる母は、しばしばこういう小細工をする。家族四人で仲良く食卓を囲んでいたときのことを思い出して欲しいということなのだろう。放っておくとカップラーメンやコンビニ弁当しか食べなくなる兄━━どうも深夜に家を抜け出して買いに行っているらしい━━の体調を心配しているということもあるのだろう。


 しかし、そうした母の善なる意志が兄に届くことはない。むしろ母の小細工は兄を不機嫌にし、川原家の罪なき柱や壁に新たな傷を増やす結果にしかなっていないような気さえする。


 実の所、母自身そのことを自覚しているような節もある。ここ最近、自分が兄の部屋に行かないで済む日を見計らったように作戦を決行するのはそういう理由だろう。


 あたしは深く溜息をはき出してから、それでも兄のトレイを手にとった。


 ハンバーグを温め直し、重い足取りで兄の部屋へと向かう。


「なが兄、いる?」


 ノックをするが返事はない。と言うかドアがちょっと開いてる。あたしはその隙間から部屋をのぞき込んで、中に誰もいないことに気がついた。


「……こんな雨の日にどこ行ってんだろ」


 まぁいないならいないで好都合だ。とりあえずトレイさえ部屋に置いてしまえば、あたしにとっての任務は完了なのだから。あたしはこそこそと兄の部屋に足を踏み入れると、アニメ雑誌やDVD、スナック菓子の袋などの有象無象を乗り越えて、奧のパソコン机へと向かう。あーくそ、あとで足だけもっかい洗おう。


 そうして、ディスプレイやキーボードに触れないように気をつけながら、トレイをそっと机に置く。よしよし、あとはこの部屋を退散するだけだ。そう思って安堵したあたしは、何気なくパソコンのディスプレイを見て、はっと息を飲んだ。


「え……なんで。なんでなが兄がこれを?」


 黒い背景の上に刻まれているのは『透明校舎』の四文字。間違いない。つい数時間前に学校のパソコンで見ていたあのサイトだ。あたしは予感めいた思いを抱きながら、画面の下段に視線を向けた。


 まだ書き途中なのだろう。投稿フォームには「距離」「同情でない」「何が大切かということから」といった単語が走り書きのように書いてある。兄がどんなことを書こうとしているのかは気になったが、それ以上にあたしの目を引いたのは投稿者名の欄だった。


 ――リュウ。


「な、な、な……なが兄ってば、なにやっちゃてんの?」


 S県I市出身の青年海外協力隊員という触れ込みで高校生向けの悩み相談サイトを解説していたのが、その実大学を中退して絶賛引きこもり中のわが兄だったなんて。


「アホだ……あいつ本当にアホだ……人を慰めるだとか励ますだとか、ことによってはアドバイスするだとか、そんなことできる立場かよ」


 つーかリュウってひょっとして名前の音読みなんすか? センスのかけらもないっつーか、もう色々とダメだよあの人。あたしはもう一度、深く溜息をつくと、忌まわしいパソコン机から離れようとした。


 その時だった。


「何をしている」


 扉の向こうから低い声が聞こえてきて、あたしの背筋は一瞬で凍り付いた。


「なが……兄?」


 兄は、Tシャツにトランクスという実にだらしない格好で扉の前に立っていた。髪が濡れているところをみると何日かぶりに風呂に入っていたらしい。


「誰に断って部屋に入った!」


 叫びながら、兄はずかずかと室内に足を踏み入れた。そうして、あたしとパソコンの画面を交互に見た後で、いきなりあたしの顔を殴りつけた。


 まともに衝撃をくらったあたしは、ごみまみれの床に無様に転がった。


「ごめんなさい! あたしはお母さんに頼まれて夕ご飯を持ってきただけだから! まさかなが兄がいないなんて思わなくて!」


 倒れたあたしを何度も踏みつけようとする兄に、それでもあたしはすがるように謝り倒す。


「見てない。何にも見てないから! 怒らないで!」


 顔をかばいつつ、それでも謝っていると、ふいに攻撃がやんだ。かと思うと、首筋をぐいっと捕まれて、ずるずると部屋の外に引きずり出される。そのまま兄は玄関先まであたしを引きずって行き、最後に「出て行け」と言って、あたしを三和土に転がした。


 あたしは一度だけ兄の顔を見たが、その表情に交渉の余地など少しもありはしなかった。


 そうして家から追い出されたあたしは、母親が帰ってくるまでの間ずっと、ガレージの隅でガチガチと歯を鳴らしながら震えていた。

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