5-9
「わかったぞ、川原!」
あたしが敷島の携帯電話を鞄に入れ直し、どうにかこうにか立ち上がったところで、当の本人が飛び込むようにして戻ってきた。
「やはり秀彦が窓から転落した直後、この部屋には鍵が掛かっていたらしい。管理人の爺さん、警察に頼まれて自分がマスターキーでドアを開けたんだと」
「じゃあ、事件当時この部屋には誰もいなかったってこと?」
内心の動揺を隠しつつ、あたしは聞き返した。
「いや。そうとは限らない」
「でも」
「確かにチェーンが掛かっていたなら川原の考えている通りだろう。秀彦以外の何者もこの部屋には存在しなかったに違いない。だが、実際には鍵こそ掛かっていたものの、チェーンは掛かっていなかったんだ」
敷島が呼吸を乱した様子もなく言った。おかげでこちらも少しだけ平常心を取り戻すことができる。
「どっちにせよ施錠されていたことには違いないと思うけど」
「違う。チェーンは内側からしか掛けられないが、扉の錠は外からでも掛けられる。合い鍵さえあればな。さっきはあえて反論しなかったが、扉に錠が掛かっていただけなら、犯人の不在証明にはならない」
「そりゃあ理屈はそうだけど、犯人がたまたま偶然合い鍵を持ってました、だなんてちょっとご都合主義すぎやしませんか?」
「……前にも話したと思うが、東高サッカー部には女関係にだらしない人間が結構いてな。秀彦もその一人だったんだ」
「泉田君、モテただろうしね」
「この通りマンションで一人暮らしだろう? 割合頻繁に女を連れ込んでいたようだ。付き合い出すと合い鍵を渡すのがいつものパターンでな。別れる時には返してもらっていたらしいが、返す前にコピーを取られていたとしても、秀彦には確かめようがない。まったく……そういう方面ではどうしようもないヤツだったよ」
そう言って嘆息する敷島が、いつもよりくたびれて見えるのは錯覚だろうか。あたしは何となく彼から視線を逸らして、自分の足下を見つめてしまう。
「犯人が実在するのであれば、そいつは間違いなく合い鍵を持っている人物だ。そして、何より熟睡状態の秀彦が容易に目を覚まさないという性質を知悉している人物━━つまり、秀彦が過去に付き合っていた女か、現在進行形で付き合っている女が容疑者ということになる」
「敷島の言うことはわかる。百パーセント同意する」
しばらくして、あたしは言った。
「だけど、『犯人が実在するのであれば』っていう仮説が仮説のままなら、単なる可能性の議論になっちゃうんじゃない?」
「ああ。しかし、その仮説が正しいことは既に証明済みだ。秀彦の死は間違いなく他殺だよ」
「……敷島の脳内では証明済みかも知らないけど、あたしはまだ説明されてない」
「あるべきはずのものがないんだよ。ありそうなところは一通り探したんだがな」
「あるべきはずのものって?」
「いや、その、あれだ」
それまで淡々と説明を続けてきた敷島が、ここにきて何故だか言葉を詰まらせた。
「この期に及んでもったいつけないで」
泉田他殺説の論拠について、これまで全く説明がなかったことへの苛立ちも手伝って、あたしは思わず強い口調になる。
「待て待て。別にもったいつけているつもりはないんだが……年頃の女に対して軽々しく言って良い単語なのかどうか微妙でな」
「敷島、前から思ってたんだけどひょっとしてアンタ、昭和一桁生まれだったりする?」
「……コンドームだよ」
ベッドのチェストに入るくらいのもの。人目につかないところに隠しておくようなもの。けれど、卑猥な本などではないもの――。
すうっと顔が朱色に染まっていくのを自覚しながら、あたしは睨むように敷島を見た。
「俺が最後にこの部屋を訪れたのは事件の二日前だが、その時には宮の小物入れに24個入りの箱が一つ、確かに入っていたはずだ。部活の先輩にもらったものだと言っていたな。開封済みだったが、持った感じではかなり残っていたと思う」
「わざわざ持って確かめたのかよ」
「平成生まれの高校生なんでな」
仏頂面でそうに言ってから、敷島は天井を見上げた。
「いくら欲求不満の高校生でも、二日間で一箱使い切るなんてことは考えにくい。そもそもあいつはあんまりコンドームが好きじゃなかったしな」
「どういうこと?」
「その……生派って言うのか? つけないのが良いんだそうだ。俺にはよくわからん世界
だが」
「あたしだってわかんねーよ!」
頬が発火寸前なのをごまかすために、あたしは叫ぶ。
「……ともかく、この部屋からコンドームが消えた理由は一つしか考えられない。警察が泉田の女性関係について余計な勘ぐりをせぬように、秀彦を殺害した犯人が持ち去ったんだ」
「でも、そんなことをしたって調べればわかっちゃうわけだし、かえって他殺説の補強材料になっちゃうんじゃない?」
「そうか? 俺の見立てでは、警察はまだこの部屋からコンドームがなくなっているということに気づいてはいないと思う。彼らは秀彦の部屋にコンドームがないという事実に違和感を覚えない。事件後にここを訪れた秀彦の家族にしたってそうだ。俺たちでなければ、俺たちが現場に足を踏み入れなければ、この状況がおかしいということには気づきえないんだ」
確かに事件後にこの部屋を訪れるのは警察と遺族くらいのものだ――本来ならば。敷島が異常と言って良いほどの執着を見せなければ、避妊具の消失は永遠に気づかれなかったことだろう。
「でも待って。泉田君はその……アレをつけずにするのが好きだったんでしょ? だったら、三日のうちに友達とかサッカー部の誰かにあげちゃった可能性もあるんじゃない?」
「開封済みのコンドームの箱を嬉々として受け取るやつがいるとも思えんが。川原はそういうの、気にしないのか?」
再び発熱。ヘモグロビンがあたしの頭を内側からガンガンと殴りつける。
「すまん。少々配慮が足りなかった」
それがトドメだった。
「く……せして」
喉から絞りでるのは、まるで自分のものではないような声。
「好きでもないくせして、一々気を使うな!」
強かに壁を殴りつけてから、あたしは自分の両目に熱いものがこみ上げてくるのを知覚した。
「……川原?」
「べ、別にあんたのことが好きってわけじゃあないんだからな! あんたは親友の死の真相を知りたいと思った。あたしは自分の目撃した事件の結末を知りたいと願った。だから、一時的にパートナーになって、共同戦線を張ることにした。あたしたちの関係は徹頭徹尾そうだったはずでしょ! なのに、なのになんであんたはそうやって、思い出したように優しくしようとするんだ! 少しは気を使えよ、この大馬鹿野郎!」
叫ぶ度に、ぽたりぽたりと小さな雫が床を汚す。それが嫌で、あたしは無理矢理に顔をあげて、両の掌で顔をぐしゃぐしゃに拭った。
「ごめん」
涙が止まったのを確認したところで、あたしは敷島の顔をまともに見た。多分敷島の目には、いつも以上に見苦しいあたしの顔が写っていることだろう。
「さっきあたし、敷島に対してフェアじゃないことをしたんだ。そりゃああたしにだって言い訳とか言い分とか弁解とか色々あるけど、それは良い。言わない。ひどいことをしたのは事実だから」
震える指で敷島の鞄をさしながら、あたしは続けた。
「見たんだ。敷島のケータイの待ち受け画面。そして、多分あたしはその解釈を間違えていない」
敷島は黙ったままわずかにその瞳を大きくさせた。
「ごめん。本当に、ごめん」
そう言って頭を下げると、あたしはついさっきまでパートナーだった男の隣をすり抜けて、部屋の外に向かった。
雨は再び豪雨に変わりつつあった。
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