5-8
マンションのエントランスにナンバーロックの類はついていなかった。あたしたちは足早に扉をくぐり抜けて、ロビーへと歩を進めた。コンクリートそのままの内壁に、天井の蛍光灯がちょっと暗い。
「待ってろ」
エレベータの前まで来ると、敷島はあたしにそう言い置いて奥の管理人室に向かう。
ガラス戸の向こうに人の気配はしなかったが、敷島が呼び鈴を押すと、程なく人の良さそうな白髪頭の老人が姿を見せた。敷島を見ても特段訝しむ様子がない所を見ると、どうやら顔見知り程度の仲ではあるらしい。
「泉田君のことでちょっと――」
あたしの相棒はものの五分と掛からずに小さな鍵を持って戻って来た。
「短時間なら構わないそうだ」
「よしきた」
あたしは制服についた水滴を払うと――既にかなり濡れていたから気休め程度にしかならなかったが――エレベータのボタンを押した。五、四、三、二……何となく、心の中でカウントダウン。程なく電子音と共にドアが開き、あたしたちはエレベータに乗り込んだ。
「何階?」
「九階。九○六号室だ」
答えながら敷島は自分でボタンを押した。
「……それにしても、よく許可してもらえたね」
エレベータが上昇を始めると、あたしは階数表示を見上げながらそう切り出した。
「サッカー部の備品を回収しに来たと言ったんだ。あの爺さん、俺が退部したことはまだ知らないからな」
そういうことをさらりと言われると、聞いているこちらがいたたまれなくなる。
「警察の調べは済んでいるそうだ」
「押収物とかは戻ってきてるのかなあ?」
「五日ほど前に警察が返却に来たらしい。律儀に事件当時の状態まで戻してくれたかどうかまではわからないが」
「なるほど」
九階に着くと、敷島は一足先にエレベータを出て、西側の通路に向かった。
「待ってよ!」
そう言えば、泉田は西側の角部屋から飛び降りたんだっけ。あたしは事件当時のことを思いだしながら、敷島を追いかける。
果たして敷島は、通路の最奥――九○六号室の前で足を止めた。
「ここだ」
黒く塗装された金属製のドアを数度小突くと、敷島は鍵を取り出してロックを外した。
「うわ……広い。泉田君、こんな良いトコに住んでたの?」
玄関を抜けて直ぐの居間で、あたしは思わず溜息を漏らす。超高級マンションとまでは言わないが、その気になれば数人で共同生活することもできそうな1LDKは、一介の高校生にはどう考えても不釣り合いな代物だった。
「オーナーが東高サッカー部のファンらしくて、かなり割引してくれたと聞いている」
それにしたって、居間に置いてある四十インチの液晶テレビや、高級そうなガラス張りのテーブルは、親が買い与えたものでしょうに。ったく、これが格差社会ってやつですか。あたしは少々やさぐれた気分で、敷島を睨み付ける。
「そう言うあんたはどうなのさ」
「俺は母方の祖父母に厄介になっている」
いつもより少し声に硬さがある気がした。『厄介になっている』という縁者に気がねしているのかも知れない。あたしは何となく悪いことを聞いたような気がして、そっぽを向いた。
「何か前来た時と違うことはない?」
「どうだろうな。家具なんかは動かされていないようだが」
露骨に話を変えたあたしに対して、敷島は憎まれ口の一つも叩くことなく応じた。
「エアコンがコンセントに繋がっていないな」
「ほんとだ。テレビもそうだね。ひょっとして、電化製品全部?」
「そのようだ」
警察が捜査の過程でそうしたのか、あるいは泉田の死後にここを訪れた彼の家族がそうしたのか。いずれにせよこの部屋の主がもう二度と戻ってこないという事実を突きつけられている気がして、あたしは軽く身震いをした。
「飛び降りたのはこの部屋からじゃなさそうだね」
あたしは部屋の奥の窓を横目に言った。大きな掃き出し窓からはベランダに出ることができるようになっていたが、あの日あたしが見たのは、もっと小さな窓から直に落下する泉田の姿だ。
「西側の窓から落ちたんだろ? だったらこっちだ」
敷島は半開きになっていたテレビの脇の扉を抜けて、奧の部屋へと向かった。すぐに追いかけると、そこは六畳ほどの絨毯敷きの部屋だった。正面左手にベッドが置かれ、その反対側にこれまた高級そうな書斎机が置いてある。寝室兼、勉強部屋といったところか。
「多分、あの窓じゃないか?」
あたしがひとしきり室内を観察したのを見計らって、敷島はベッド脇━━西側の引き違い窓を指さした。
あたしはすたすたと窓に近づくと、ベージュ色のブラインドを開けた。空には相変わらず雨雲が居座り続けていたが、構わずにクレセント錠を下ろし、窓を開ける。雨交じりの風。そこに見えるのは、あの日とは違う雨で濡れそぼった道。けれど見間違えるはずもない。あの日あたしは確かにあの交差点にいたのだ。
ゆっくり、ゆっくりと窓枠に太股をつけると、あたしは窓の真下の地面に視線を向けた。あの日の名残はどこにもない。肉片も、血の痕も、何もかもがなくなっている。けれどあたしははっきりとイメージする。ここから転落した泉田の姿を。
「間違いない。泉田君はこの窓から落ちたんだと思う」
ゆらりと窓枠が歪んだ気がした。違う。膝の力が抜けているのだ。
「大丈夫か、川原」
敷島があたしに手を差し出しながら言った。大丈夫だから、と返事をするよりも先に彼の手を握っていた。くそ、想像していたよりもダメージが深いようだ。
「やはりここに連れてくるべきじゃなかったか」
「そういう気の使われ方は好きじゃないけど……ごめん。少しだけ休ませてもらって良い?」
「ああ。居間のソファにでも座っていてくれ」
そう言って、持っていた鞄を部屋の隅に奥と、敷島は室内の探索を始めた。
あたしはと言えば、居間で一人待ちぼうけを食らうのも嫌だなと思い、ベッドに腰掛けて、敷島の背中を見守ることにした。
「前は良く来てたの?」
「部活の帰りとかに、時々な」
「ふーん」
勝手知ったる友人宅なのだろう。敷島は、書斎机にマガジンラック、クローゼットと、実に手際よく調べていく。
「枕元、見るぞ。少し寄ってくれ」
「あ、うん」
あたしが体をずらすと、敷島はぬっと上体を伸ばして、宮のチェストを開け広げた。
泉田はチェストを薬箱として使っていたようで、湿布や風邪薬、綿棒などが雑多に詰め込まれていた。
「ないな」
チェストの隅々まで念入りに調べた後で、敷島は呟くように言った。そうして、再び書斎机の引き出しや、クローゼットの収納をごそごそやり始める。
「何か探しているものがあるの?」
「ちょっとな」
敷島の返事はそれだけだった。むう。一体何を探しているんだろう? ベッドのチェストに入るくらいだから、それほど大きいものではないはずだ。日記とか、本とか。でも、クローゼットの収納が選択肢に入っているのはどうしてだろう。人目につかないところに隠しておくようなものなのだろうか。例えば、例えば……えっちい本とか。
と、敷島が収納と収納の間に手を突っ込んだはずみに、かかとでマガジンラックを蹴倒した。
「っと、すまん」
床に飛び散った雑誌のうちサッカー選手が表紙になっているものは二、三冊で、残りはあられもない格好をした女性が表紙になっているものばかりだった。
妙にしかつめらしい顔つきで雑誌をマガジンラックに戻すパートナーの様子から察するに、えっちい本を探していたわけではないらしい。
「ねぇ、敷島――前に学校の屋上で話したことを覚えてる?」
捜しもののことについて重ねて聞くのも癪だったので、あたしは書斎机と合わせになっているキャスター付きの椅子に視線を向けながら、別の話題を振ることにした。
「事件当時、泉田君はこの部屋にいた。そして、窓の方に近づいてきたかと思うと、次の瞬間には窓から大きく身を乗り出し、頭から階下へと落ちていった。あたしはその一部始終を見ていた」
敷島が手を止めてこちらを見た。続きを話せ、ということらしい。
「もし仮にこの部屋に泉田君以外の誰かがいて、その誰かが泉田君をそこの窓から落としたのだとしたら、具体的にはどんな風にやったんだと思う?」
敷島はマガジンラックを元に戻した後で、ゆっくりと口を開いた。
「大柄な秀彦を放り投げるのは簡単なことじゃない。だから犯人は、はじめに秀彦の腹を窓枠にひっかけて、上体だけを外に出すようにした。その後で、腹を支点にして下半身を回転させて突き落としたんだろう」
「後半についてはあたしもそれしかないと思う。でも、問題は前半でさ」
「と言うと?」
「今敷島は、泉田君を外に放り投げるのは簡単じゃないって言ったけど、担ぎ上げるのだってなかなかだよね。あたしが犯人なら、うまいこと窓の近くに誘い出してから、隙を突いて背中を押すことを考える」
敷島につられてあたしもつい『犯人』という言葉を使ってしまった。まだこの部屋に泉田以外の誰かがいたという確証はないというのに。
「特に問題はないと思うが」
「ううん。そうだったなら、あたしが気づくでしょ。泉田君の後ろに誰かがいるって」
「咄嗟に窓枠の下に身を隠したというのはどうだ?」
「泉田君の上半身を窓枠の外まで押し出すんだから、余程強い力で押さないと駄目だよね。そしたら、体勢を整えるのいくらかでも時間が必要だったと思うの」
あたしも泉田が転落する一部始終を、瞬きもせずに見ていたわけではないけれど、泉田の上半身が窓の外に出た時までならばすぐ後ろに立っていた人物を見逃すことはありえない。
「なら、秀彦を手にかけた人間なんてものは存在しないというのが川原の結論なのか?」
「ついさっきまではね」
そう言って、長めに息を吸い込んだ。
「敷島、ちょっと窓の側に立ってみてくれない?」
あたしのパートナーは小さくうなずいて、言うとおりにしてくれた。うん。やっぱり思ったとおりだ。
「さっき窓の外を見たときに気づいたんだけどさ。その窓枠、あたしたちの太股に触れるくらいの高さなんだよね」
「それがどうかしたのか?」
「事件当時、泉田君はこの部屋にいた。そして、窓の方に近づいてきたかと思うと、次の瞬間には窓から大きく身を乗り出し、頭から階下へと落ちていった。あたしはその一部始終を見ていた」
さっき言ったことを再び繰り返した後で、あたしは続ける。
「ただし、泉田君がこの部屋にいる間、あたしから見えていたのは、彼の上半身だけだった」
「何だと?」
敷島はすぐにあたしがおかしなことを言っているのに気づいたようだ。
「その窓枠はあたしたちの太股の高さまでしかない。なのに、あたしたちよりも背の高い泉田君の上半身だけしか見えなかったのは何故か。答えはひとつしか考えられない。泉田君は椅子に座っていたの」
あたしの視線がキャスター付の椅子を捉えた。きっと、敷島も同じものを見ていることだろう。
「座っている泉田君を、椅子ごと押したらどうなるか。勢いをつけて窓の方に押し出したらどうなるか――泉田君の下半身は窓下の壁にぶつかるけれど、上半身はそのまま窓の外に飛び出していく。いわゆる慣性の法則ってやつだね」
あたしはその光景を脳裏に思い浮かべながら続ける。
「もし仮に誰かが泉田君を手にかけたのだとしたら、具体的にはそんな風に泉田君の身体を窓枠に引っかけてから、足をすくい上げるようにして落としたんだと思う」
「椅子を後ろから押すなら体勢も低くできるし、椅子自体も壁や秀彦の身体の死角になって、外からは見えにくい。川原の証言とも矛盾しないな!」
いつの間にかあたしの隣に戻っていた敷島が、興奮を隠しきれない様子で何度もうなずいた。
「もっとも、この仮説には二つの問題があるんだけどね」
「そうなのか?」
「うん。ひとつめは、泉田君がまったくの無抵抗だったのは何故かという問題。脅されたのか、欺されたのか、どういう経緯で椅子に座らされたにせよ、抵抗する素振りすら見せなかったのは不自然だと思わない?」
「一般論としてはそうだが、秀彦の場合は不思議でもなんでもないな。あいつは寝ていたんだよ」
「寝てた? いや、仮にそうだとしてもさすがにあの状況なら起きるでしょ」
「起きない。秀彦は熟睡していると余程のことがない限り目を覚まさない
敷島は目を細めた。ちょっと場違いですらある懐かしげな表情。きっとサッカー部の合宿か何かでの実体験を元にした発言なのだろう。それだけに、にわかには反論しがたい説得力があった。
「わかった。それじゃ次、ふたつめ。これまでの議論の大前提になっている、事件当時この部屋に泉田君以外の誰かが潜んでいたとしたら、という部分がまだ事実であると証明されたわけではないということ。こっちの方がより根本的な問題だよね」
「そのことだが――」
敷島が何かを言いかけたのと、あたしの頭に何かが閃いたのは同時だった。
「そうだ! 鍵、鍵はどうだったのかな!」
あたしの声量に気勢を削がれたのか、敷島は一端口をつぐんだ後で「鍵? 何の鍵だ」
と尋ねてきた。
「事件が起きた直後、この九○六号室に鍵が掛かっていたのかどうかだよ。この部屋に泉田君以外の誰かが潜んでいた可能性を検討するなら、施錠の有無を確認するのが先決じゃない?」
「鍵が掛かっていたなら秀彦は一人で死んだということになるし、鍵が開いていたなら、秀彦が死んだ時誰かがこの部屋にいた公算が高くなると、そういうことを言いたいんだな?」
あたしがこくりとうなずくと、敷島は少し考え込んだ後で、小さく首を横に振り「確認してみるか」とだけ言った。
「どうやって確かめる?」
「管理人の爺さんなら何か知っているかもしれない。聞いてくるから川原はここで待っていてくれ」
「あ、ちょっと!」
敷島はあたしの抗議を聞かずに駆け足で出て行ってしまった。くそ、そういう気の使われ方は好きじゃないっての。事件のことについて議論しているうちに気分も落ち着いてきていて、さぁそろそろ立ち上がって部屋の探索に協力しようかと思っていた矢先だったので、余計に腹立たしい。
あたしは脳内で敷島を数回蹴り倒した後で、ふとあることを思いついて部屋を出ることにした。敷島の後を追うのではない。今のあたしの関心事はこのマンションの構造だった。
幸い九○六号室は西側の角部屋だから、廊下を真っ直ぐ歩くだけで良かった。
「なるほどね」
しばらくして東側の端で足を止めたあたしは、したり顔でうなずいた。
泉田のマンションには、あたしたちが九階に上がるのに使ったエレベータとは別にもう二つ、地上へと降りる経路があった。一つはエレベータのすぐ隣にある階段室。広々した作りで、四人ぐらいまでなら並んで歩けそう。エレベータと同じく、平時に利用されるものなのだろう。
もう一つの経路は、あたしのすぐ目の前━━『非常時以外立ち入り禁止』という看板が引っかけてある鉄柵扉のすぐ向こうにあった。
あたしは鉄柵扉をそっと押して、奥の狭いスペースへと歩を進めた。コンクリートむきだしの階段が、下層へと静かに延びている。手すりを兼ねた分厚い壁もついていて、結構しっかりした造り。
あたしは身を屈めて壁の内側に身を隠せるかどうかを確認した後で、そっと壁の外側に身を乗り出してみる。またも膝の力が抜けそうになるのを無理矢理にこらえて下の方を覗くと、この階段から直接マンションを出られるということが確認できる。
泉田が地べたに脳漿をぶちまけてから警察がくるまで、正面玄関から外に出て行った人間はおそらくいない。しかし、そうだとしても、このマンションから外に出る経路はもうひとつあった。平時には使われていない、管理人室の前を通らずに外に出ることができる逃走経路。
であれば、仮に誰かが泉田を手にかけたのだとして、その誰かは必ずしもマンションの住人である必要はないわけだ。
泉田他殺説は相変わらず仮説の地点を脱していないのだけど、今のところはこれで良い。ひとまずはパートナーが戻って来るのをまとう。あたしはそう結論して、泉田の部屋へと戻ることにする。
玄関で靴を脱いだところで、居間の方からけたたましい電子音が聞こえてきた。訝しく思いながら音の鳴る方へ向かうと、敷島が置いていった鞄がある。なんだ携帯電話の着信音か。雨で濡れないように鞄の中に入れといたんだろうな。あたしはやれやれと呟きながら、ソファに腰掛けた。うお、超やわらけー。
しばらくの間、高級家具の座り心地に心を奪われていたあたしだったが、次第に眉間に皺が寄り始めた。着信音が一向に鳴り止まないのだ。
「あーもう、ピーピーうるせー!」
あたしはずかずかと敷島の鞄のある方へと駆け寄り、中に手を伸ばした。この不快な音だけでも止めようと思ったのだ。
――この時は、本当にそう思っていた。
小一時間前に初芝先輩から言われたことなんて、すっかり忘れていたのだ。
「何これ……ただの携帯の料金請求メールじゃん。何だってこんな馬鹿でかい音量で……」
あたしは敷島の携帯電話を開き、見るでもなく見てしまった画面に毒づきつつ、メール通知をキャンセルしてマナーモードに切り替えようとする。
――川原さん、敷島君のケータイの待ち受け、見たことある?
思い出していれば良かったのか。
――その様子では見たことがないみたいね。ご愁傷様。
それとも、思い出していれば、自覚的に罪深い選択をしていたのか。
ともあれあたしは敷島の携帯電話に表示された待ち受け画面をまじまじと見つめることになる。
――川原鮎は敷島君と付き合っていないし、付き合う気もない。そういうことで良いんだよね?
思い出される友の言葉。ああ、そうだ。あの時清乃は確かにあたしへの善意に突き動かされてそう言っていたのだ。
何とも言い難い気持ちが押し寄せてきて、あたしはその場にへたり込んだ。
携帯電話の画面に映っていたのは、ユニフォーム姿でさわやかに笑う泉田秀彦だった。
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