2-2
その日の放課後。新校舎の屋上に登ったあたしは、フェンス越しに広がる退屈な青空をぼんやりと眺めながら、敷島哲が来るのを待っていた。
事件のことについてはまだ何も話していない。あの男の態度の悪さに端を発したあのゴタゴタのせいで休み時間を使い切ってしまったため、放課後にここで落ち合うことにしたのだ。
グラマーの授業について付け加えるなら、あたしは五パーセントの確率をしっかり引き当てて、やってもいない宿題の答えを板書させられる羽目になった。くそう。
あたしは胸の前で右の拳を左の掌にばちんとぶち当てて、敷島のことを考える。
今でこそサッカー部唯一の男子マネージャとして知られている敷島だが、入学当初は選手としてサッカー部に所属していた。泉田と同じ中学の出身らしいから、多分サッカー推薦組なのだろう。泉田程のスター性は無いにせよ、パスコントロールが巧みな良い選手だったよと、さっき清乃が教えてくれた。
しかし敷島の選手生命はレギュラーの座を獲得することなく絶たれた。高校一年の秋、体育の授業中に突如ひっくり返って病院に担ぎ込まれた敷島は、医師から心臓に先天的な疾患があるという事実を告げられたのだ。それは、日常生活にはさして支障がないものの敷島からサッカーを奪うのには充分すぎる程重たい疾患だったという。
サッカーの神様は敷島に微笑まなかった。しかし、敷島はサッカーに留まった。男子マネージャとして部活に残り、選手たちのサポートをする道を選んだのだ。
以上は東高の二年生なら誰でも知っている話だ。
――そう。あたしに限らず、誰だって。
心のうちで呟いてから、あたしは自分がひどく険しい顔をしていることに気がつく。身体に裏切られようとも決して屈しない精神に対して羨望する自分を、どう繕っても否定できないからだ。それがサッカー部の関係者であるなら尚更だ。
時計を見ると、既に四時二十分を回っていたので、あたしは更に眉間の皺を深くする。四時十五分にここで会おうといったのはあの三白眼だ。
くそ、これがデートなら回し蹴りでお出迎えするシチュだぞ。と言うかなんであの男とデートとか意味不明な仮定をするんだ。死ね。自分死ね。
「すまない、待たせた」
と、最悪なタイミングであたしの背中に声が掛かった。
「おそい!」
振り返るなりそう叫んだあたしだが、次の瞬間に思わず息を飲んでしまう。
「どうしたの。そのシャツ」
「別に」
気のない声で返事をする敷島だが、Yシャツのボタンが上から三つ目までなくなっているのをごまかすのには無理がある。屋上に来るまでの間に何かあまり愉快でない出来事があったと考えるのが自然だろう。
「そんなことより秀彦のことだ」
敷島はあたしがあれこれ想像を巡らすことを良しとはせず、早く本題に入るよう急かした。仕方がない。あたしは一度小さくうなずくと、あの日の朝に見たことについて話し始めた。
さすがに何度も警察の事情聴取を受けただけあって、我ながら要点をかいつまんで説明することができた。ま、大して話せる内容がないとも言えるけど。
「……もう一度確認するが、秀彦は飛び降りる直前、窓側に大きく身を乗り出していたんだな?」
「うん。もちろん足は見えなかったけど、多分こんな風に……くの字形に体を曲げていたんだと思う」
「なるほど。その時秀彦は、どんな顔をしていたんだ?」
「ごめん、それはわからない。泉田君、壁側を向いていたから」
「そうか……」
敷島はしばらくの間腕を組んで、考え込んだ。小柄だがしっかり筋肉がついているせいか、中々さまになっていると、あたしは場違いなことを思った。
「秀彦の部屋に誰かがいた可能性はあるか?」
やがて、特徴的な三白眼であたしの顔を覗き込みながら、敷島は尋ねた。
「どうだろう。少なくともあたしの立っていた位置からは、泉田君の姿しか見えなかったよ」
「ということは、誰かがいた可能性も否定できないんだな?」
「その言い方はちょっと恣意的だけど、うん。まぁ、イエスだね」
あたしの言葉を批判と取ったのか、敷島は視線を頭上に逸らした。
「飛び降りる瞬間に、秀彦は何か叫んでいなかったか?」
「ううん、何も。少なくともあたしの耳には聞こえなかった」
あたしの耳に届いたのは、泉田が地面と衝突する音だけだ。とはさすがに言わなかった。
それから敷島は、泉田が転落してからのことについてあたしにあれこれの質問をしてきた。もちろん警察が来るまで始終地べたにへたり込んでいただけのあたしに話せることはほどんどなかったわけだが。
「……警察に通報したのは川原じゃないのか?」
「うん。近所の人が気づいて通報したみたい」
「秀彦が転落してから警察が来るまでの間に、誰かがマンションから出て行くのを見てはいないか?」
「見てない」
あのマンションの玄関は道路に面していた。もし誰かが玄関から出て行ったなら、道路脇にいたあたしの目に留まらないはずがない。ぐったりしていたから、断言はできないけど、多分。
「転落した秀彦に誰かが近づくのを見てはいないか?」
「見てないと思う」
ぐったりしていたから、断言はできないけど、多分。
「他に怪しげな人物だとか、不審なものを見たりはしなかったか?」
「してないんじゃないかなあ」
「じゃないかなあって」
「あの時はショックでぐったりしていたから、断言はできないってこと。正直、かなり注意力散漫になってたと思う」
ついに敷島はため息をついた。
「これでデコピン一発分か……高い情報代だな」
「おあいにく様。あたしだって別に見たくて見たわけじゃあありませんから」
「そうだな。替われるものなら俺が替わってやりたかった」
てっきりあたしの憎まれ口に反撃してくると思ったのだが、敷島の口から出たのは端々に悔しさを滲ませた言葉だった。
がしゃん、と金属質な音がした。敷島がフェンスを掴んだ音だった。
「川原は秀彦とは面識があったのか?」
フェンスの下に広がるグラウンドを見下ろしながら、敷島は言った。
「顔ぐらいは知っていたよ。でも話をしたことはほとんどない」
「そうか」
短い返答の後、敷島は再び黙り込んだ。あたしはさりげなく敷島の隣に立つと、背中をフェンスに押しつけた。
「事件の朝はどうしてあそこにいたんだ? 登校には随分早い時間帯だと思うんだが」
「警察にも同じことを聞かれたけど、あたしはいつもあのくらいの時間に登校している。嘘だと思うなら、クラスのみんなに聞いてみたら?」
原因が兄だということはもちろん口にしない。清乃ですら、私の家に癌細胞が住んでいることは知らない。
「いや、信じるさ」
妙に力強い声でそう言うと、敷島はフェンスから手を離して、こちらを見た。
「ありがとう。さっきは皮肉も言ったが、色々教えてくれて助かったと思っている」
「あ、えっと……どういたしまして」
何となく意表を突かれた気がして、あたしはどぎまぎしながら応じる。
「時間を取らせた。俺はもう行く」
「待って」
そのままあっさりと屋上から立ち去ろうとする敷島の背中に、あたしは言った。
「敷島はなんで泉田君のことを調べているの? もしかして、何か考えがあるの?」
それは午前中に敷島が2-A教室に来た時からずっと気になっていたことだった。
「いや。まとまった考えがあるってわけじゃない。ただ、知りたいんだ。秀彦が死ななければならなかった理由を」
顔だけをこちらに向けて、敷島は答える。その瞳に微かに覗ける苛立ちの感情。嘘だ。敷島は嘘をついている。
「もう、良いか?」
「まだ。あと一つだけ」
少し息を吸い込んで、あたしはフェンスに預けていた体をぐっと前に起こした。
「敷島は『ジャンピング・ジャック』って言葉に聞き覚えがあったりしない?」
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