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 部屋に戻ったあたしは、鞄をその辺に投げ捨てると、服を着替える気力もなくベッドに倒れ込んだ。


 あたしは枕に顔をうずめながら、ぐすりと鼻をすする。どうにかこうにか涙腺の決壊は防いだけれど、あたしに守れたものは本当にそれだけだった。何より、醜くも情けないあの兄の言葉にいつもいつも取り乱してしまう自分が許せなかった。


「ああそうですまったくもってあんたの言う通りですあたしはあんたが死ねば良いと思ってます全力で思ってますさあ死ね今日死ねさっさと死ね今すぐ死ね」


 面と向かって言いたかった台詞を枕に吸い込ませたところで、惨めな気持ちは消えない。むしろ倍増するだけだ。でも、あたしはそれを止めることができなかった。


 兄は端的に言ってクズだった。付言するなら人間のクズだ。


 足が不自由なことを言い訳にして――そう、あれは言い訳としか思えない――、学校にも行かず働こうともしない社会不適合者。いわゆるヒキコモリ。


 日がな一日自室のパソコンでネット三昧。たまに家族に話しかけることがあるとすれば、それはさっきみたいに何か気にくわないことがある時で、被害妄想みたいな恨み節を延々語って聞かせるのだ。


 もっとも兄が昔からああだったかと言えばそんなことは全くない。それどころか、つい一年前まで兄は近所でも評判の優等生だった。何しろあたしの四期前の東高の入学式で主席合格者として新入生式辞を読み上げたのは紛れもなくあの兄なのだ。


 入学してからも高成績を維持し続けた兄は、あたしが合格ラインすれすれで東高に滑り込むのに一年先だち、東都の有名私大に合格したのだった。


 しかしながら、くずになる以前の兄の真骨頂は学業成績ではなかった。兄が本当にすごかったのは、東高サッカー部でスタメンとして活躍し続けたということだとあたしは思う。


 この感覚は東高に在籍していない者には実感しにくいかも知れないが、東高サッカー部は部員の半数以上がサッカー推薦組という実に特別な部なのだ。兄のような一般入試組が、サッカーが上手いというただそれだけの理由で東高に招かれた推薦組を押しのけてスタメンに選ばれるというのは生半可なことではない。しかも兄はそれを学年トップクラスの成績を維持しつつやったのだ。


 兄はまた、改革者でもあった。東高サッカー部は伝統的に試験の成績が悪く『赤点を取らなければ部内では優等生』とさえ言われていた程で、部活の顧問すらそれで良いと思っていた節があったそうだが、兄はその風潮にノーを突きつけた。東高が公立の進学校である以上、必要最低限の成績は修めるべきだとして、部活休みの日などに勉強会を開催し、部員の成績向上に努めたのだ。


 初めは兄のやり方に反感を持つ者もいたようだが、兄が三年生になる頃には、同学年の部員のほとんどが勉強会に出席するようになり、その年の前期末試験で赤点ゼロの偉業を達成したことは、今でも伝説となっていると聞く。


 おそらく兄は勉強会を通じて、東高サッカー部にはびこる歪んだプライドを叩き潰そうとしたんだと思う。何せ、全国から集められていることもあって、サッカー部員たちの中には自分たちが特別な人間だと思っている者が少なくない。それに頭と股のネジが緩みきった女子共の声援も拍車をかける。だが、そうやって醸成されたエリート意識こそが、東高サッカー部の弱点だと兄は考えたのだ。


 兄の思想が当時のサッカー部員にどの程度浸透していたのかはわからない。どの程度サッカー部の実績と結びついていたのかも、あたしには判断しようもない。


 ただ、あたしは知っている。二年半前の冬。兄にとって最後となる選手権大会で、東高サッカー部が十五年ぶりの全国大会出場を成し遂げたということを。


 今となっては到底信じがたいことだけど、全ては事実。それは、兄がもっとも光り輝いていた時代の、確かな足跡――。


 けれど兄の黄金時代は大学二年生の秋までだった。


 中秋の名月が夜空に輝くある日のこと、兄はアパート近くの県道で軽トラックと衝突し大けがを負ってしまう。


 兄がどうしてそんな目に遭ってしまったのかはわからない。その場に大学サッカーの元部員と女子マネージャが居合わせたことがどんな影響を及ぼしたかについても、兄が黙して語らないため、不確かな噂以上のことは知るよすがもなかった。


 兄が遭遇した奇禍のことで、はっきりとわかっていることがあるとすればそれは、軽トラックが道路に倒れ込んだ兄の利き足をぐしゃぐしゃにめちゃくちゃに完膚無きままに踏みつぶしたということだ。


 足関節損傷。脛骨開放骨折。中足骨陥没。捻挫箇所多数。最早兄の足は二度と元のように動くことはない。兄の担当医は風邪の処方箋を出す時のように淡々とそう告げた。


 医師の見立ては間違っていた。元に戻らないほど変形してしまったのは足だけではなかったのだ。


 十一月になったばかりのある夕べ、兄は何の予告もなく五十海市に戻って来た。不安げに迎えるあたしに兄は背中を丸めて「もう疲れた」と言い捨て、荷物部屋になっていた自室に直行した。


 以来、兄はずっとこの家に留まり続けている。一応のこと大学に籍だけは残してあるようだが、アパートはとっくに解約している。兄が大学に戻ることは金輪際ないと思う。


 ずっとこの家に巣を張り、家族に寄生しつつ苛立ちをぶつける生活を続けていく。それが兄の選択だった。


 両親はそんな兄を腫れ物に触るような態度で遇した。はたから見ていると単にビビっているようにしか見えないのだけど、おそらく両親は未だに信じられないのだろう。自分たちの誇りであった兄が最低のくず野郎に変貌してしまったということを。


 偉そうに分析しているあたしも、半分はそうだ。悪い夢でも見てるんじゃないかって思わない日はない。あの日から。今日だって。


 ――俺なんて死ねば良いと思っているんだろう。


 唐突にさっき兄が吐き捨てた言葉が蘇る。この世界の全てを呪うかのような表情を浮かべる兄。その顔に何故か見てもいない泉田秀彦の死に顔が重なった。


「死にたいのはこっちだっつーの!」


 あたしはガバっと上体を起こすと、罪なき枕を快楽殺人者のごとくに殴りつけた。

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