1-5

 せいぜいゆっくり歩いたつもりだったが、家の前に着いたときにはまだ二時にもなっていなかった。父はもちろん、市役所の非常勤職員をやっている母も、まだ家に戻ってはいない時間だ。


 あたしは深くため息をついた後、意を決して玄関に近づくと、そろそろと扉を開いた。


 よし、誰もいない! あたしは焦る気持ちを抑えて靴を脱ぎ、自室へと急いだ。


 その時だった。


「遅かったな」


 低い、地の底から響くような声。あたしはだから、無様なくらいぎこちなく振り返って、兄のながると向かい合うことになる。


「警察が来た」


 兄は車椅子を器用に操って、あたしの目の前まで来ると、そう言って充血した目であたしを睨んだ。つんと、くさった牛乳のような臭いがあたしの鼻を刺激する。今日も風呂に入らなかったのか。あたしはぐったりした気分で兄の寝癖だらけの髪の毛を見る。


「車庫に自転車を置いていったぞ」


「あ、はい。すいません。お騒がせしました」


 あたしは早口で答えると、すぐに自分の部屋に向かおうとする。だが、それを兄は許さない。


「学校からも電話があった!」


 再びあたしは足を止めてしまう。車椅子の暴君など無視して、自分の部屋に上がってしまえばいいはずなのに。あたしがそうしてしまえば、今の兄に制止する力なんてないはずなのに。


「お前、なんですぐに帰ってこなかった? 家に来た警官も学校の教師も、事情聴取が終わったらまっすぐ家に帰らせると言っていたぞ」


「なんでって……そりゃあ、万全な体調とは言えなかったけど、授業を受けられないほどじゃあなかったし。なが兄、あたしの英語の成績が末期状態なのは知ってるっしょ?」


 我ながら情けないほどの卑屈な笑みであたしは言うが、そんなんで兄の苛立ちが消えるわけがない。


「嘘だな」


 ぞっとするような声で、心臓まで突き刺さるような声で、兄は囁く。


「人一人死んでいるんだぞ、鮎。授業なんかやってる場合じゃないことぐらい、わかっていたはずだ。お前は家に帰りたくなかった。足の不自由な兄のいるこの家にな!」


 バン、という衝撃音が語尾に重なった。兄が壁を掌で叩いた音だった。


「薄情者」


 いたたまれなくなってあたしは耳をふさぐが、兄の怨嗟は塞いだ手の隙間から容赦なくあたしの耳底へと進入してくる。


「薄情者薄情者薄情者薄情者薄情者薄情者薄情者。俺なんて死ねば良いと思っているんだろう」


「そんなこと思ってません!」


 あたしは耳を塞いだまま叫んだ。ええいくそ、なんであたしがこんな目に遭わなくちゃならないんだ。つか、自分こそ大事件に巻き込まれた哀れな妹に対する情はないのかよ。


「暖かい家族愛だなあ! 俺は震えるほど嬉しいよ!」


 嘲るようにそう言うと、ガショガショと嫌な音を発てて車椅子を玄関先へと動かした。


 それからいかにも億劫そうに立ち上がると、たっぷり時間をかけて、乗っていた車椅子を玄関に下ろした。バリアフリーとはほど遠い古い木造家屋では、そうするしかないのだ。


「……どこに行くの?」


 こっちが話しかけてくるまでは、ずっとそこにいるつもりなのだろう。あたしは両手を力なく下ろすと、低い声で尋ねた。


「でかけてくる。夕ご飯はいらない。母さんには気分が悪くてとても食べる気がしないと伝えてくれ!」


 もう、限界だった。あたしは目の奥がツンとなるのを感じながら、二階の自分の部屋を目指して、階段を駆け上がって行った。

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