1-3

 そんなこんなであたしが東高の正門をくぐる頃にはもう、時計の針は十二時を回っていた。


 2-A教室のドアを開けると、クラスメイトが一斉にこちらを見た。多い。いつもなら昼休みになると出て行くはずの連中も、今日は残っている。ってことはやっぱり。


「あ、鮎!」


「先生から聞いたよ~。大変だったね~」


「ってか、学校に来て大丈夫なのか?」


 あたしを囲んで、口々に心配そうな声を上げる級友たち。やっぱり今朝の事件のことは、クラス中――否、おそらくは学校中に知れ渡っているのだろう。何しろ、マンションから転落したのはうちの高校の生徒だったのだから。


 幸いなことに、2-Aには良いヤツが多かった。うるさい男子やうざい女子がいないわけではないが、我慢できないわけじゃない。家にいるのに比べて学校にいる時間の方が数百倍マシなのは、彼らによるところが多いと思う。


 とは言えクラスメイトたちも純然たる善意だけであたしを囲むほどにはお人好しではない。


 だからあたしは程度の差こそあれ一様に好奇心のまなざしを向けてくる彼らの顔をぐるりと見回してから、いかにもしんどそうに「心配してくれてありがと」と言うことにする。ついでにちょっと訳ありっぽい微苦笑も浮かべてみたりして。


「でも、ごめん。とりあえず座って良い?」


 級友たちの反応は早かった。すぐにあたしを囲む円陣の一角が崩れ、愛すべき窓側の席までの道が出現する。やっぱり良いヤツらだ。あたしは顔面の緊張を維持しつつ自分の席まで歩を進めると、鞄とお弁当箱を机の脇に引っかけた。


「食べられないのん?」


 隣の席の山辺やまべ清乃きよのがうさぎのようにくりっとした目であたしの動作をめざとく見つけて、尋ねてきた。


「今はちょっとね」


 清乃の机の上にいつも通り置かれたキングサイズの弁当箱を見ながら、あたしは肩をすくめるしかない。


「良かったらあげるよ」


「いらないいらない。ダイエット中」


 そう言って、清乃は自分の弁当まで片付け始めた。もちろん嘘だ。未だかつて彼女がダイエットを志したことはないし、これだけ食べても腹にはいかず全て胸にいくことについては、2-A女子一同の羨望の的となっているのだ。


 要するに気をつかわれたということらしい。あたしは妙な気恥ずかしさを覚えつつ、教室の前方に視線を向けて「こっちはこっちでバタバタしてたみたいだね」と言った。


 黒板には荒々しい筆致で『午前の授業は全て自習。静かに自己学習すること』と書かれてあった。


「今日の一限、大畑おおはたさんの数学だったじゃん? それが校内放送で呼び出されたっきり、いつまでも戻ってこなくってさ。おかしいなーって思ってたら、教頭が来て『実はみなさんに話さなければいけないことが』なんつって一席ぶち始めたもんだからびっくりしたよ、ホント」


「その大畑さんは今どこにいるの?」


「2-Bの八木やぎセンセーと一緒に警察に呼ばれて出て行ったみたい。鮎、会ってないの?」


「現場の方に行ったのかな。あたしはすぐに交番に連れてかれちゃったから、先生たちとは会ってないよ」


「そうなんだ……でもびっくりだよね。あの泉田いずみだ君が死んじゃうなんて」


「もう知ってるんだ」


「うん。教頭から聞いた」


 泉田――泉田秀彦ひでひこというのは、あたしの平凡で平穏な登校時間を台無しにしたあの馬鹿野郎の名前だ。ついでに言えば、あたしたちと同じ東高の二年生で、八木さんのクラス――つまりB組に所属していた。


「飛び降りって聞いたけど」


「かぞくのふれあい大橋を越えてすぐのところにおっきなマンションがあるっしょ。あそこから」


「あ、知ってる。泉田君、確かそこで一人暮らししてたんじゃなかったっけ?」


 いやいやあたしは知らないし。そもそも泉田とはほとんど話をしたことがない。


「地元じゃないんだ。やっぱサッカー推薦だったのかな」


「そうだよ。確か、出身は東都とうとって言ってたような」


「へぇ。結構遠くから来てたんだね」


 あたしたちの通う県立五十海東高校はごくごくフツーの進学校なのだけれど、一方でサッカーの名門校としてもそこそこ名が通っている。そのため、公立高校のくせしてサッカー推薦枠なんてものまであり、毎年全国各地から有力選手を募って戦力強化に取り組んでいるのだ。あの泉田なら、サッカー推薦で県外から招かれたとしても何ら不思議はなかった。


「親御さん可哀想」


 清乃が前下がりボブの後ろ頭を押さえつけて、切なそうに言った。


「そう、だね」


 泉田の親がどういう思いで彼を五十海に送り出したのかは知らないが、少なくともこんなことになるとは思っていなかったはずだ。あたしは彼らが息子の最期を知らされる瞬間を想像して、ぎゅっと拳を握りしめた。


「……やっぱり事故だったの?」


 しばらくして、また清乃があたしに尋ねた。何気ない口調ではあった。でも、両の瞳が鋭くなってることを隠し切れていなかった。


「ごめん、清乃。あたしにはわからない。気づいた次の瞬間にはもう、彼は飛んでいたんだ」


 清乃だけでなくクラスメイト全員があたしの言葉に注目しているのを肌で感じながら、あたしは俯いて言った。


 みんなには悪いけど、あたしが泉田の死について語れることはほとんどない。大体あたしは交番で婦警から教えられるまで、転落したのが自分と同じ東高の生徒だということさえ知らなかったのだ。


 そりゃあ地面に転落した彼の死体の惨たらしさについてなら、いくらでも語れるけど、みんなが聞きたいのはそういうことじゃない。


「泉田君がなんであんな危ないことをしたのか、だからあたしには全然わからない」


「ごめん、鮎。あたし、無神経なことを聞いた」


 清乃が神妙な顔で言うと、他の生徒たちも気まずそうにあさっての方向を見た。


 あれ? なんでみんなそんな反応なの? ってか、さっきの清乃の質問、そんな無神経だった? ぼんやりとそんなことを考えてから、あたしは両手がじんわりと痛いことに気がついた。さっきから握りっぱなしの掌に、のばしてないはずの爪が食い込んでいたのだ。


 どうやらあたしは、さして親しくもなかった男子生徒の死に少なからず動揺しているらしい。

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