妄想少女と彼岸花

人夢木瞬

第1章 妄想少女は嘘を吐く

第1話

俺とぼく──上木理望


 俺の目の前には幼い少年と少女がいた。

 歳は二人とも五、六歳程度だろうか。二人の顔はまるで鏡写しであるかのような瓜二つ。それなのに俺が二人を少年と少女だと気がつけたのは髪の長さや服装の違いからだろうか。いや、もっと別の理由がある気がする。自分のことだというのによく分からない。

 だから考えて、そして気がついた。少年は幼い頃の俺──ぼくであり、少女は同じように幼い頃の妹なのだ。あまりにも非現実な状況において俺は至って冷静だった。

 俺は夢を見ているんだ。そのことをすぐに理解できたからだ。

 向い合ってテーブルに付く二人の目の前にはサンタクロースとトナカイの形をした砂糖菓子が乗っかったホールケーキがあった。どうやら俺は十三年前のクリスマスイブの出来事を夢として想起しているらしい。つまりこの夢における俺の役割は演者ではなく観客ということだ。ただ見守り、そして懐かしむことしかできない。

 母がケーキを切り分けるために砂糖菓子を一度皿に移した。それを見た妹はぼくに尋ねる。

「おにいちゃんはサンタさんとトナカイさん、どっちをたべるの?」

「どっちもまきなにあげる! きょねんはびょういんにいてたべられなかったでしょ。だからあげる」

「えへへー、ありがと」

 ぼくは妹に砂糖菓子を二つとも差し出した。そこには今、口にした通りの妹に対する優しさの心もあった。けれども俺はもう一つの理由を知っている。俺は昔からこの砂糖菓子があまり好きではなかったのだ。口に入れると、まるで魔法が解けるように溶けていく、幻みたいな砂糖菓子が。

 今思えば、俺はぼくだった頃から『現実主義者』としての素質を兼ね備えていたのかもしれない。けれどもこの頃のぼくはまだサンタクロースを信じるような純真無垢さを備えていた。

 切り分けられたケーキが目の前に運ばれると、二人はまさに鏡写しだと言わんばかりに同じタイミングでフォークを握った。そして同じタイミングでケーキを口に運び、同じリズムで咀嚼する。ジュースの入ったコップに手を伸ばすのさえ同時だ。

 しかし突如としてその鏡は砕け散った。

 妹が咳き込んだのだ。それにぼくどころか、観客の立場である俺も慌ててしまう。我ながら間抜けな話だが、かといって仕方ないことでもあった。

 妹は生まれつき体が弱かったのだ。その原因は俺と妹が一卵性の双子であることが原因らしい。

 通常、それぞれの性別が異なった一卵性双生児というのはありえない。だが、極稀に男児として生まれてくるはずの子の性染色体が一本欠落することで女児として生まれることがあるのだ。その場合、何らかの影響が現れることがある。

 それが妹だった。

 だからぼくは妹が心配でテーブルの向こうに駆け寄った。

「まきな、だいじょうぶ?」

「うん、へいき。ちょっとあわててジュースのんじゃっただけだから」

「おかあさんがいつもいってるよ。たべものはにげないからおちついてたべなさいって」

「でも……たべものはにげなくても、おにいちゃんはどこかにいっちゃうかもしれないでしょ」

 幼児特有のどこか言葉足らずな理由を妹は口にした。しかし双子の兄であるぼくはその言葉の意味を容易に理解していた。要するにぼくが先に食べ終えて、自分のそばから離れるのが嫌だということだ。

「どこにもいかないよ。ずっとまきなのそばにいるから」

 ぼくがそう答えると妹は満面の笑みで返す。

「ほんと? やくそくだよ」

「うん。やくそくだ」

 二人の間には指切りなんて必要ない。これだけで充分だった。


◇◇◇


「──みき。おい、上木!」

 誰かが俺のことを呼ぶ声が聞こえる。その声の主が俺のクラスの担任を務める英語教師だと気づくのに一秒の時間を要した。そしてその一秒が過ぎた瞬間、俺はバネのような勢いで身体を起こす。

 視界に映るのは高校の教室。黒板にはいくつかの英文が並んでおり、周りの机にはクラスメイトたちがきっちりと収まっていた。念の為に時計を確認するも、どう見間違えたところで授業中であることに変わりはなかった。

「どうした上木。お前が居眠りだなんて初めてじゃないのか?」

「す、すみません」

 怒られるだろうか。

 そう考えていたが、担任の口から現れたのは別の言葉だった。

「そんなことはどうでもいいんだ。まただそうだ。早く保健室に行ってやれ」

 その言葉に俺の心臓が早鐘を打つ。恐怖に似た感情が一瞬だけ心を満たすが、なんとか平静を取り繕う。

「そう、ですか。わざわざすみません」

「オレに謝ってる暇があったらさっさと行け」

「すみません」

 三度目の謝罪にクラスから笑いが漏れる。俺は半ば追い出されるような形で教室を後にした。先生もクラスメイトも、このことにはもう慣れっこだった。いや、彼らだけじゃない。他のクラスの生徒や用務員だって俺の行動を気にも留めない。

 対して俺は慣れることはできない。いや、慣れてはいけないのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は誰もいない廊下を駆け抜けた。


◇◇◇


 昼休み、とはいっても残り十分しかない。そこまできて俺はようやく昼食にありついていた。さっきのさっきまで妹のことを心配するやつらが俺のところに現れて、食事どころではなかったのだ。妹が倒れるのは夏休みが開けてから初めてだったので、心配する人数も多く、結局こんな時間まで拘束されてしまった。

 俺が今いるのは教室ではなく、学校の屋上だ。雨で洗い流されたタイルに、少し錆びついた金網。そして使われなくなった巨大な貯水タンク。それらに囲まれながら上を見上げると、空はいつも違った様子を示してくれる。

 ここを訪れる人間は俺を除いてまずいない。だから一人になりたいときはここを訪れていた。別の学校の友達に話を聞くと、学校の屋上というのは基本的には開放されているものではないらしい。思えば小中学校だって屋上は立ち入り禁止だった。きっと学校の屋上イコール立ち入り禁止とでもいう固定概念が染み付いているのだろう。

 俺はこの場所が大好きだった。ひどく現実的で、幻想の入り込む余地のなく、素晴らしくて敵うものなどない──素敵な場所だ。

 素敵という言葉はこの通り、素晴らしくて敵わないの略だそうだ。妹が教えてくれた。妹は頭のいい子だ。この頭がいいというのは、勉強ができるだとか記憶力が優れているというものではなく、知識量が豊富という意味合いだ。妹は幼い頃から入退院を繰り返しており、病室で一人っきりになるとよく本を読んでいた。それが豊富な知識を持つ理由だろう。

 そんな妹ならば、いま俺が背後に感じている気配の正体を振り向くこと無く言い当てることができたのだろうか。

 誰かが屋上と校舎内を繋ぐ唯一の出入り口である扉の前に立っているのが分かる。そちらは俺からちょうど風上の位置であり、風にのって花の蜜のような淡く甘い香りが漂ってきた。

 振り向くとそこには一人の少女が立っていた。この学校の制服、黒のプリーツスカートにセーラー服、そして胸元には赤いスカーフが結ばれていた。服の裾は風に凪いでゆらゆら揺れているというのに、長い栗色の髪の毛はというと酷く落ち着いていた。そしてそれらが妙に似合っている。セーラー服と栗色の長髪という存在そのものがまるで彼女のために生まれたものだと言わんばかりだ。

 一目見て思った。この少女と俺は相容れないと。

 俺が振り向いたのを認めると、少女はニコリと笑いながら近づき、俺の右側に腰を下ろした。

「あなたが上木理望くんですか?」

「だとしたら何だ」

 俺は素っ気ない言葉を返す。理由は単純だ。この少女に一刻でも早くこの場を立ち去って貰いたかったからだ。先ほど俺が彼女と相容れないと感じた理由、それは彼女があまりにも幻想的過ぎたからだ。

 酷く幻想的な少女は酷く現実的な屋上とは不釣り合いだった。それでいて相性が良すぎた。まるでまっさらな水に墨汁を一滴垂らしたかのように、現実的な屋上が幻想的に染まっていく。それが心を侵されたようでたまらなかった。

「ぼくは璃梳璃子です。一度、『現実主義者』の方とお話がしてみたかったんです」

 上木理望は現実主義者。

 その言葉はこの学校に通うものなら半数程度は知っているのではないだろうか。その理由は単純だ。授業中、ことあるごとに廊下を走っている生徒がいれば誰だって気になるだろう。「アイツはどこのどいつだ」「どうしてあんなことをしているんだ」そんな疑問を持った者たちが上木理望という解答にたどり着く。それを元に俺に関する情報がまとめられ、疑問を持った他の者たちに伝播していく。

 その過程で必要過多な情報は削ぎ落とされていき、最終的には「名前は上木理望。病弱な双子の妹が倒れる度に保健室に急いでいる。それと『現実主義者』らしい」という情報だけが伝えられるようになった。明らかに最後の一つも必要過多な情報の一つだと思うのだが、どういうわけか一緒に伝わっているそうだ。

「悪いけど、現実主義者と話がしたいなら他をあたれ。俺は世間一般に言われるような現実主義者じゃないぞ」

 本来の現実主義の意味合いは起きた出来事をあるがままに受け止めるだとか、理想を追い求めないといったものらしい。しかし俺の場合は違っている。俺の性質を表すのに最も字面が一致している言葉が現実主義者だというだけの話だ。

 俺の性質、それはひとえに幻想嫌いだということだ。幻想的なものは信じない。幽霊なんていなければ、UFOなんてありはしない。そしてこの世界にはカミサマなんてものは存在し得ない。それが俺の考えである。つまり俺を表すための『現実主義者』の前には『幻想嫌いの』という形容詞がついているのだ。

「じゃあ訂正します。理望くんとお話がしてみたいんです」

 お前とは話がしたくない。という気持ちを込めた俺の言葉は、いともたやすく踏みにじられてしまった。こうなってしまっては下手に逃げて追い回されるよりも、一度話をしたほうが楽かもしれない。

 俺は苦虫を噛み潰した表情を浮かべないように気をつけつつ、璃梳に尋ねる。

「分かった分かった。で? どんな話がしたいっていうんだよ」

「そうですね。ええっと……」

 璃梳は視線を宙に浮かべながら思案する。まさかコイツ、ノープランか。

「帰っていいか?」

「ま、待ってください! いま考えますから!」

 弁当はまだ残っているものの、この場を立ち去りたい衝動に狩られる。仕方なく俺はその弁当をつまみながら璃梳の考えがまとまるのを待った。

「そうだ、理望くんって恋をしたことはありますか?」

「どんな答えを期待してるかは知らないが、正直言うと皆無だ」

 人によっては見栄を張るところなのかもしれないが、俺にとっては違う。たとえそうだとしても、俺は嘘を吐くのが苦手というか嫌いな人間だ。結局のところは今のように答えていただろう。

「えー、勿体無いですよ」

「そんなこと言われても恋の価値が分からないんだからな」

「まあぼくも恋とかしたことないんですけどね」

 じゃあなぜそんなこと言った。いちいち癇に障る少女だ。幻想的とか関係なしに相容れない気がする。

「でもきっと、理望くんに恋してる女の子もどこかにいるんでしょうね。それについてはどう思いますか?」

「他人の感情を気にしていられるほど、余裕のある生き方なんてできてない。だからそれについての解答は『知った事か』だ」

「そうですかそうですか。へぇ~」

 なぜか璃梳はニコニコと笑いながらそんなことを口にする。本当に何がしたいんだコイツは。

 俺が一つため息をついて空を見上げると、それに釣られたのか璃梳も同じように視線を上に向けた。空は青く澄み渡り、白い雲がゆっくりと風に流されている。

「それにしてもいい天気ですね。神様のおかげでしょうか」

「……カミサマ、ね」

 カミサマなんてものが本当にいるのだとしたら、どうして世界はこんなにも理不尽で不条理なのだろうか。もしいたとしてもそれは全知全能の主神ではないのだろう。決して人間には干渉せず、何かを司るだけの存在だ。

 カミサマなんて現実的じゃない。だから嫌いだ。

「理望くんは神様とお知り合いですか?」

「それだったらどんなによかったか」

 璃梳のトンチンカンな問いかけに、俺は皮肉を込めて答える。

「そうでしたか。ぼくはですね、神様と友達なんですよ」

「は?」

 いくら現実主義者の俺とはいえ、他人の信仰に口出しするつもりは毛頭ない。しかし神様と友達というのは流石に言い過ぎではないだろうか。思わず俺の口からは呆れた声が漏れ出していた。

「その顔、信じてませんね?」

「当たり前だ。第一お前は俺がどんな人間か知ってて話しかけてきたんだろ」

「それもそうでした。でも理望くんにだって神様に叶えてもらいたい願いの一つや二つあるんじゃないですか?」

「っ! ……そうだな。お前に今すぐにでもここを立ち去ってもらいたいさ」

 動揺を隠しきれたとは思えない。だというのに璃梳はそこを追求しようとはしなかった。

「さっきから思ってたんですけど、理望くんってぼくに対してやたら攻撃的ですよね。一体何が気に入らないっていうんですか? 容姿ですか? 口調ですか? はたまた体臭ですか?」

「雰囲気」

 一言で言ってやった。

「残念ですけど、それだけはどうしようもありません。理望くんに現実主義者をやめろって言うのと一緒ですよ。なんてったってぼくは妄想主義者ですからね」

「ハッ。妄想っていうのは現実と区別がつかないから妄想なんだよ。妄想主義者なんて名乗っている時点で妄想が妄想だって分かってるじゃないか」

「理望くんの現実主義者と一緒です。本来の意味とは別物ってこと何卒おねがいしますよ」

「それにしたって主義者は言い過ぎだ。お前はせいぜい妄想少女だよ」

「妄想少女。妄想少女……うん、なんだか妄想主義者よりはしっくりきますね」

「そうかい」

 璃梳は満足気な表情を浮かべていた。一体何がそんなに楽しいんだか。

 俺は呆れた顔でまた食事を再開する。すると璃梳は俺のことをひとしきりじっと見つめたあとでこう言った。

「理望くんって左利きなんですね」

「ああ。双子のうち片方は結構な確率で左利きになるんだそうだ」

 ミラーツインズと呼ばれる現象であり、さらに正しく言うのであれば一卵性双生児にだけ現れるものだ。そのことは璃梳も把握しているようだった。

「へぇ、ということは一卵性なんですね。となるとお兄さんか弟さんがいるんですね」

「いや、妹だ。たまにあるんだよ。一卵性なのに性別の違う双子ってヤツがさ」

 璃梳は俺が現実主義者であることを知りながら、俺の双子の妹に関しては知らなかったようだ。逆ならば納得はいくのだが、やはりこいつは変わった人間だ。

「でもそれってかなり確率が低いですよね。現実主義者である理望くんからしてみたらどうなんですか?」

「バカ言え。どんなに確率が低かろうが、実際に起こりえる出来事ならそれは現実的な出来事なんだよ」

「そういうものなんですか?」

「そういうものだ」

 その時だった。校舎に設置されたスピーカーが一斉に時刻を告げる鐘の音を響かせた。それに俺は顔をしかめる。

「ったく。お前のせいでろくに弁当も食べられないまま昼休みが終わっちまった」

「ぼくがここに来たのはつい十数分前のことじゃないですか。それまで何をしてたんですか?」

 俺は一瞬、妹のことを口走りかけ、そして踏みとどまった。

 璃梳は妹のことを知らないのだ。なら言って下手に興味を持たれて再び話しかけられてしまうよりは、黙っておいたほうがいいだろう。

「お前には関係ないよ」

 だから俺はこう答えた。本当ならば適当な嘘を吐いて誤魔化した方がいいのかもしれない。けれども俺は嘘を吐くのが下手で苦手な人間だ。結果、突き放すような言葉を璃梳にかけた。

「そうですか。それじゃあ最後に──」

 璃梳が立ち上がり、何かを言おうとするが俺は視線をそちらに向けないまま弁当箱を片付ける。


「──彼岸花には気をつけて」


 その瞬間、俺は全身の血液が毒に変わったかのような錯覚に陥った。現実的に考えて有り得ないことだというのに、そうとしか思えなかった。身体の芯から寒気立ち、呼吸が止まりそうになる。脳が思考を停止して、指先一つ動かせなくなりかけた。

 それをなんとか振り払い、後ろを振り返ったときには既に璃梳の姿はなかった。ただ現実的な屋上と、この場所を外界と繋ぐ鉄の扉だけが目に入った。

「最後の最後に何だって言うんだよ」

 俺の頭の中では璃梳の言葉がリフレインを続けていた。この言葉の真意を知らなければとの思いが駆け巡っていた。

 あれほど再開したくないと思っていたはずなのに、今の俺は璃梳に会って言葉の意味を問いかけることしか考えられなくなっていた。

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