第一章(5)


 雪山は雄大だった。ガイドブックで知ってはいたが、実際に足を踏み入れると、その壮大さに圧倒される。引き換え自分の体が急に小さくなったように思え、ジェイド=ラクエル・マヌエルは、何だか自分探しにきたアウトドア初心者みたいな感想だな俺、と思いながら、辺りを見回した。木、木、木、どこもかしこも色づいた落葉樹と、深緑の常緑樹でいっぱいだ。

 午後になって雪はかなり溶けている。

 今ジェイドは、エスメラルダの北東付近、雪山の中腹辺りにいた。

 仮魔女試験監督官のお爺さんは、椅子に腰掛けて居眠りをしていた。地面に置かれたスピーカーも沈黙している。その横にある大きな置き時計は、四時五分前を指している。

 ダスティン=ラクエル・マヌエルは、傍から見て分かるくらいピリピリしていた。何度も時計を見て、険しい顔だ。もうひとりの参加者であるフェルド――フェルディナント=ラクエル・マヌエルは、対照的にのんびりと、ぶらぶら歩き回っている。ダスティンはフェルドが視界に入るたびに噛みつきそうな顔で睨むのだが、フェルドは気にしていないようだった。気づいているのかいないのか。

 出発まであと五分。

 ジェイドはじりじりする気持ちで待っていた。

 早く始まって、早く終わればいい。

 もううんざりだった。ダスティンの苛立ちにも、ついその顔色を窺ってしまう自分にも。

 ここ最近、ダスティンはいつもピリピリしていた。仮魔女試験が近づくにつれ、その苛立ちは益々増してくるようだった。今度試験に挑む仮魔女は、十六歳だ。だから苛立っているのだろうとジェイドは思う。ジェイドは彼女と同じ十六歳、フェルドは二歳年上の十八歳、ダスティンは二十二歳。だから心配せずにはいられないのだろう。〈アスタ〉は様々な条件を勘案してマリアラの相棒を選出するそうだけれど、年齢の釣り合いが条件に入るのだとすれば、真っ先に除外されるのはダスティンだからだ。

 ――明日の試験で、俺を手伝ってくれよ。

 昨日、そう言われた。気にするべきじゃないと思うが、その言葉は、実際の重さを伴ってのしかかってくるようだった。

 そんな要求をしても構わない、与しやすい相手なのだと、面と向かって言われた気がした。確約はしないで済んだが、きっぱりと拒否することもできなかった。

 どうせ仮魔女試験など、ジェイドにとっては大した意味などない。棄権してもよかったのだが、マリアラの【親】であるダニエルに様々な面で恩義を感じているジェイドには、ダニエルの【娘】の『ゲーム』に参加しないなど、到底言えることではなかった。ダニエルは面倒見がよく親切な割に、怒らせたら怖いし、がっかりさせるのは怒らせる以上に避けたい。

 といって、万一ゲームに勝ったとしたら、ダスティンに『譲れ』と強要されることは目に見えている。それを今後ずっと突っぱね続ける気力も根性も自分にはないし、マリアラも可哀想だ。左巻きは人のケガや病気を治すことができる、右巻きからすれば奇跡みたいな力の持ち主なのだ。左巻きを様々な危険から守るのが相棒の右巻きの仕事なのに、マリアラを本気で守る覚悟のない自分なんかが相棒になったら、マリアラがあまりに気の毒だ。



 ピガッ、と、スピーカーが音を立てた。

 見ると、出発時刻の二分前になっていた。〈アスタ〉の優しい声にそろそろ準備をしろと言われるものだとばかり思っていたジェイドは、そこから流れ出たのが男の声だったことと、その声の緊迫具合に、同じくらい驚いた。

『ラクエルの右巻き三人! 揃ってるか!』

 んがっ、という声をあげて監督官が目を覚ました。まだ半分寝ぼけたようにあわあわしながら、マイクのスイッチを入れた。寝ぼけ眼でこちらを見て、

「あ……揃ってま、ええ!? おい、フェルディナントは!」

「ちっ、あいつ――」

 ダスティンが早速毒づこうとし、ジェイドは急いで木立を見回した。騒ぎを聞き付けたのか、フェルドの顔がひょいっと覗いた。

「います、いますあそこ!」

 ジェイドが指さし、同時に監督官が声をあげた。

「います、揃ってます、開始しま――」

『中止だ!!』

 スピーカーががなる。ダスティンが息を飲み、ジェイドは硬直し、そこへ足早にフェルドがやってきた。

「なんでですか」

『緊急事態だ。南の大島に魔物が出た。至急出動を要請する。既にかなりの被害が出ている、少なくとも五人が死傷、二百七十名以上がいまだ所在不明、駐在のペアは三組ともイリエルだ』

 何だそれ、と、ジェイドは思った。

 意味がさっぱり分からない。

 でも現実らしい。スピーカーは緊迫した男の声を流し続ける。

『至急ラクエルの出動を要請する。繰り返す、試験は中止、大至急その場を離れ南大島へ来てくれ。仮魔女にも緊急措置を適用して出動を要請する』

 ブツッ、と音を立ててスピーカーが沈黙した。一瞬の静寂を、一番先に破ったのはダスティンだった。

「……何だ今の。ジョークか?」

「そんなわけないだろう」窘めたのは試験官だ。「ギュンター警備隊長直々の通信だぞ。あの人は、こんな冗談を言う人じゃない。試験は中止だ。南大島に、魔物が出た」

 ダスティンが、唾を飲み込む音が聞こえた。緊急だ、と言われたのに、すぐに動き出すことができなかった。魔物。全く現実感がない。まさかエスメラルダで、こんなことが起こるなんて。

 エスメラルダは【壁】に囲まれた楽園だと習った。狩人も魔物も絶対に入り込めない、安全で快適な箱庭なのだと。

 それが、なんで?

「行こう……」

 ダスティンが言う。ジェイドは身震いをした。

 魔物、だ。

 確かに魔物が相手なら、ラクエルでないと太刀打ちできない。他のマヌエル、イリエルもレイエルも、魔物のそばに近寄ることもできない。【毒の世界】への扉を開くだけで昏倒するのが普通の魔女だ。魔物に息を吐きかけられただけで抵抗することもできなくなる。

 魔物のそばへ近寄って攻撃し、排除できるのは、エスメラルダに二十人ほどしか存在しない、ごく一握りのラクエルたちだけなのだ。

 ――でも魔物だなんて。

 千年近いはずのエスメラルダの歴史の中で、魔物が乱入したなんて、初めての事態ではないだろうか?

「日が暮れたら厄介だ。急ごう」

 恐れを振り切るように、ダスティンは箒に飛び乗った。

 フェルドが言った。

「マリアラは」

 監督官がフェルドを見た。

「マリアラ? ――仮魔女か? さっきギュンター警備隊長が、出動を要請するって……」

「連絡取ってみてください。南の大島に向かうなら、一緒に行くべきだ」

「何言ってんだよ、一刻を争う――」

「昨日狩人が入り込んだって話があったんだよ」

 ダスティンの声を遮るようにフェルドは言った。ジェイドはギョッとした。

「何それ……!?」

「仮魔女を狙って入り込んだらしいって情報があったんだ。本当かどうかはわからない、でも昨日、確かにそう聞いた。今日の試験ももう少しで中止になるところだったんだって。

 でも結局、狩人はすぐ捕まったって聞いた。だから試験も、通常どおり実施することになったんだ。何かの間違いだったんだって、さっきまで思ってた、でも……一応、連絡取ってくれませんか」

 監督官は頷き、無線機を取り出した。手が震えたのか、落としそうになった。ボタンを押し始めるのを見ながら、フェルドが言った。

「先に行ってていーよ」

「そうはいくか。抜け駆けする気なんだろ」

 ダスティンが吐き捨て、ジェイドはもじもじと足踏みをした。試験は中止、とはっきり言われた。冗談でも訓練でもない、と。論理的に考えれば、マリアラはフェルドに任せて先に行くのが一番だ。でもダスティンは行く気は無さそうだし、ジェイド一人で魔物が待ち受けるという場所に先に行くなんて。

 おとぎ話でも、夢でもない。

 【毒の世界】の毒と同じ成分を体に含んだ、ラクエルしか近づくことのできない、魔物。

 じわじわと、その情報が体に染みてくる。ジェイドは理解が進むのと同時に、体から血の気が引いていくのを感じた。

 もし、人家の密集した場所に、毒をまき散らしながら魔物が乱入したとしたら……

 ――大惨事だ。

 監督官はなかなか話し出さない。無線機を耳に当てたまま眉をしかめている。話し中ならすぐ切るだろうから、まさか出ないのだろうか。監督官は頷き、無言で一度切り、別の番号を押した。難しい顔をして、耳に当てる。

 と。

 ぴるるるるる、と近くで電子音が鳴った。

 フェルドのものだった。

 急いで取り出し、フェルドがボタンを押すと、流れ出たのはダニエルの声。

『フェルドか』

 ダニエルの周辺はかなり騒がしかった。呼び子の音や怒鳴り声、指示を飛ばす声が聞こえるから、多分既に南大島にいるのだろう。どうやら現実らしいと、もう一度思った。どうやら現実に、大混乱が起こっていて、ダニエルは既にそこにいるらしい。

 魔物が乱入したという場所はどんなだろうとジェイドは思った。五人が死傷、二百七十名以上が所在不明――

 ダニエルの声がみんなにもよく聞こえるよう、フェルドがスピーカーボタンを押した。

『聞こえるか、フェルド?』

 ダニエルの声は落ち着いていて、ほっとする。フェルドが答えた。

「ダニエル、無事なのか」

『そりゃそうだろ。もう聞いたか? 試験は中止だ、人手が足りない』

「うん」

『特に治療者が足りない。悪いがマリアラを捜して、連れてきてくれ。海が時化始めてる。こっちに来るまで余計な魔力を使わせたくない』

 方便だ、と、ジェイドは考えた。

 ダニエルもマリアラが心配なのだろう。

 ――仮魔女を狙って入り込んだ。

 フェルドは頷いた。

「了解。今連絡取ってもらってる」

『頼んだぞ』

「ダニエル、試験は中止なんだろ!」

 ダスティンが割り込んだ。

「フェルドが会話しても、『ゲーム』は成立しないんだろ! なあ!」

「もう切れてるよ」

 フェルドが呆れたように言い、ダスティンがフェルドを睨みあげた。

「俺は認めないからな、絶対――」

「出ない」

 監督官の沈鬱な声が、ぽつりと言った。

 三人は同時に振り返った。小柄なしわしわの監督官は、まるでそれが自分の罪ででもあるかのように、俯いて呻いた。

「仮魔女が出ない。受験者の無線機にもかけてみたが、どちらも出ない。ハウスの固定電話にもかけたが、そこも出ない」

 ジェイドは何だか、ぞっとした。

 フェルドが地図を広げた。さっき支給されたばかりの、雪山全域の地図だ。ジェイドは監督官に訊ねた。

「固定電話の電波から、ハウスの位置を特定できないんですか」

「依頼はするが、難しかろうな。〈アスタ〉は南大島の対応で手一杯だろう。すぐには無理だ」

 監督官は、よっこらせ、と地図をのぞき込んだ。

「試験は終了だ。手掛かりを開示しよう。受験者の学生はリン=アリエノール。十六歳、社会学専攻。昨年度の専攻必須単位を落としてな」

「げっ」

 ダスティンが呻いた。孵化してからエスメラルダに来たジェイドにはピンとこなかったが、専攻必須単位というのはかなり重要な単位らしい。

「ケアレスミスでな。受験者確保のために、ミスを最大限に利用されたってところだろう」

「気の毒に……」

「救済措置として、仮魔女試験の受験が指定された。レポートの内容は『魔物の生態』だそうだ。はっきりした場所は私もわからんが、【壁】沿いで魔物が見える場所に向かった可能性が高い」

「スタート地点は」

「ここだ」

 びしっ、と、地図の一点が指された。無言のままフェルドが、続いてダスティンが、箒に乗って飛び出していった。ジェイドはそわそわした。マリアラを迎えに行くのは重要だとしても、どう考えても三人は多すぎる、のでは、ないだろうか。

「ジェイド、だったな」

 しわしわの監督官は、先程までとはうってかわってきびきびしていた。一線を退いて久しい風情だったが、今は現役の保護局員にも負けないくらいの気迫を感じる。

「仮魔女はあのふたりに任せておけ。大丈夫、試験は中止だ。あのどちらかが仮魔女と会話をしても、それが相棒選出に大きな影響を及ぼすことはない」

「はあ……」

 ジェイドは少しもじもじした。

「南大島の方が心配だ。君だけでも――」

「わかりました。南大島へ向かいます」

 ジェイドなりに悲壮な決意を固めての言葉だったが、監督官はジェイドの袖をはしっと掴んだ。

「待て、慌てるな。君に頼みがある」

「は?」

「雪山詰め所のひとつにガストンという男がいる。ちょうどこの近辺にいるはずなんだ」

「ガス――ジルグ=ガストンですか!?」

 ジェイドは思わず叫んだ。大変な有名人だ。

 監督官は頷いた。

「昔の教え子でね。しっとるかね」

「ももももちろん! 伝説の警備隊長ですよね! あの!」

「今はしがない保護局員指導官だがね。ギュンターとガストンは友人同士だから、この危機に、きっと協力を要請されているはずだ」

「は、はあ……?」

 監督官は、地図の一点を指さした。

「ここだ。まず、ここに向かってくれ。誰もいなければそのまま南の大島に向かってくれて構わない。だが、……奴はな、変に嗅覚の鋭い男なんだよ」

 監督官は、深々と頭を下げた。

「奴に力を貸してやってくれ。南の大島に駆けつけるには、マヌエルの箒に乗せてもらうのが一番速い」

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