第一章(4)

 ミフとマリアラは必要に応じて思念で連絡を取り合えるのだそうで、ミフは真っすぐに、マリアラのところへ案内してくれた。

 マリアラはぽかりと開けた森の空隙にいた。そこで、斜面にいくつかの大きな板を並べているところだった。緑と焦げ茶に塗られた板は、かなり大きい。四メートル四方はあるだろう。

『少し離れていてください。組み立てます』

 ミフはそう言い残し、ひゅうん、とマリアラのところへ飛んで行った。マリアラはこちらを見て、にこっと笑う。

「ちょっと待っててね」

 そしてマリアラとミフは、ハウスを組み上げた。

 それは瞬く間と言ってもいいほど、迅速な動きだった。箒は力持ちだ。何メートルもの鉄骨を吊り上げ、地面に突き刺し、固定し、床をはめ込み、壁を組み上げるのは、専らミフの役目だった。そもそも箒が作るように設計されているのだろう。鉄骨や壁のいたるところに柄を差し込むための穴や引っかけるためのフックが用意されていて、マリアラがしていたのは、溝や穴に部品を合わせて支えるということだけだ。

 緑と焦げ茶に彩られたハウスが、あっと言う間にできあがった。

 斜面を補うために鉄骨で足場が組まれてい、その上にサイコロみたいなハウスがちょこんと載っている。森林に溶け込む色彩だが、どことなくポップな印象で可愛らしい。一仕事終えたミフはひとりでに小指サイズに縮んでマリアラの首元に飛んで行った。そこにかけられた鎖に、ペンダントのように収まる。

 中に入るのかと思ったが、マリアラは、頂上側の開けたスペースに、また何やら設置し始めた。魔女の巾着袋の中から次々と小さく縮められた道具を取り出して、元の大きさに戻していく。

 まず、床、が出てきた。斜面に並べて、大きな――それこそミフの柄程もある――自動ドライバーで、頂上側の穴にボルトを差し込んで固定し、麓側の穴に差し込んだボルトで、平らになるように角度を調節して固定する。ウィーン、カチリ。ウィーウィーウィー、カチリ。それでもう、十分な広さのある平らな床のできあがりだ。その上にタープを張って屋根を作り、床の上にテーブルと、座り心地の良さそうな肘掛け椅子がふたつ。リンはその作業を、うっとりと眺めていた。

 魔女に救出してもらう醍醐味の一つがこれだ。

 さまざまな魔法道具で、遭難中でも出来る限り居心地よく過ごせるよう心を配ってもらえること。

 ちょうどお昼時だ。リンはうきうきした。

 今日のリンは『遭難中』だから、気兼ねなく、魔女に食事も用意してもらえる。

「どうぞ、座って」

 促され、リンはいそいそと肘掛け椅子に腰をかけた。

 魔女の巾着袋には、小さく縮められた様々な道具が入っている。マリアラはリンの向かいに腰をかけ、正にその巾着袋の中から、白い布袋をひとつ、取り出した。口をくつろげ、取り出したのは、まず鍋だ。それから小さな簡易炉と籐で編まれた蓋付きの籠、プラスチックのケース、お皿。

「何食べたい?」

 問われてリンは、即答した。

「ホットサンド!」

 マリアラはにっこり笑った。お待ちください、と言って、準備を始める。

 魔女は、遭難者のために様々な食べ物を持ってくる、と言われている。

 どのメニューもとても美味しいと評判だ。ダリアの愛読誌『月刊マヌエル通信』には、魔女の巾着袋に新たに加えられたメニューは絶対に載るし、半年に一度は『絶対食べたい魔女料理ランキング』が特集される、らしい。この研修に備え、ダリアがコピーしてくれた冬用メニュー一覧を吟味して、食べたいものを決めてきた。そう言うところには抜かりがないのがリン=アリエノールである。

 おでんもいい(たまごが絶品、と記事にあった)。クリームシチューも悪くない。ポトフはソーセージが『ものすごくジューシー』だそうで捨てがたい。さんざん悩んだ末、リンは夜ご飯にはスパゲッティドリア、昼食はホットサンド、朝食はとろとろオムレツとソーセージ、と決めた。ダリアには、『メニューの希望を聞いてくれる仮魔女だといいねえ』と不吉なことを言われたけれど、その点リンは本当に運が良かった。

 何しろ、リンの仮魔女はマリアラだ。

 ダリアの『遭難者研修』の感想を思い出し、本当につくづく、運が良かったと思う。

 もちろん魔女は人気商売などではないし、こちらは救助される側なのだから、わがままなど言うべきではない。ないのだが、やはり、親切な魔女に助けてほしいと思うのは人情だ。

 黒い鋳鉄でできた二枚揃いのフライパンを取り出しながら、マリアラが訊ねた。

「リン、チーズ大丈夫だったよね」

「大好きだよ! あ! あの、あのね、あたしゴルゴンゾーラも大丈夫だからね!」

 言うとマリアラは笑った。

「通だね」

 へへへ、とリンも笑う。

「マヌエルに詳しい友達がいるんだよ。同室のね、ダリアって子なんだけど」

「ふうん」

「『月刊マヌエル通信』って雑誌を定期購読しててね、メニュー一覧をコピーしてくれたんだ。どれもこれも美味しそうですっごく迷ったんだけど、ホットサンドがさくさくで熱々で、魔女によっては中の具材を色々選ばせてくれるってあって、やっぱこれでしょ! って」

「ふふ」

 マリアラが笑って、リンは身を縮める。

「……ごめん、やっぱ図々しいよね」

「そんなことないよ。昔からそうだったなって思って、懐かしくなっただけ。前からリンは、美味しい食べ物に詳しかったなあって」

「そ、そうだった?」

「うん、あそこのパン屋さん、今も行ってる? あそこの新商品、わたしが気がついたときにはもう絶対リンが食べてて」

「そ、そうだった?」

「リンはいつも、美味しいときだけすごく話すんだよね。普通だったときは口数が少ないの」

「そ、そうだった!?」

「わたし、リンが、好きなものの話をしてくれるのが楽しみだった。嫌いなものの話を聞くより、好きなものの話を聞く方が何倍も楽しいもの。リンに教えてもらった食べ物って、いつも本当に美味しくって、すごいなって」

 言いながらマリアラは向かい合わせになった鋳鉄の焼き型を開いた。そこにスライスしたパンをのせ、さて、と言う。

「何のせる? ゴルゴンゾーラの他に」

「コンビーフ!」

「美味しそう。じゃあ、タマネギのスライスも入れよう」

 マリアラはパックをいくつか取り出した。既に切られた野菜が種類別に入っている。リンは感嘆した。やっぱり、魔女は違う。

 コンビーフとタマネギのスライスを混ぜ合わせてパンにのせ、その上にゴルゴンゾーラチーズをのせ、さらに普通のとろけるチーズものせて、パンを重ね、焼き型を合わせてしっかり閉じる。簡易炉にのせて、マリアラが炉に両手をかざすとぽっと火が灯った。

 リンは居住まいを正した。いよいよ夢にまで見たあのホットサンドが……!

 するとマリアラは、驚くべきことをあっさりと言った。

「もうひとつは何にしよう。やっぱたまごかな?」

「も、もうひとついいの!?」

「もちろん。何個か作って、半分こしよ」

「わーい!」

 歓声を上げるとマリアラはまた嬉しそうに笑った。


 程なく、食卓が調った。ホットサンドが三種類(コンビーフ+チーズ、スクランブルエッグ、ベーコン+トマト)、コンソメスープと、レタスのサラダ。『月刊マヌエル通信』の記者の書いていたとおり、魔女のホットサンドはとても美味しかった。パンがさくさくで、中身はとろとろ熱々で、材料も器具も市販のものとは違うのではないか、と、思わずにはいられない。どれも本当に美味しかったが、特にスクランブルエッグのホットサンドが絶品で、リンはしばらく真剣に悩んだ。明日の朝ご飯のリクエストを考え直すべきか――できるだけたくさんのメニューを食べたい――いやここはやっぱり決めたとおり、とろとろオムレツのままにすべきか――こんなに美味しいならもう一度食べたい――いやいや、トーストととろとろオムレツの組み合わせでは、ほとんど今食べているものと同じだ。どうしよう。

「あー! もう! 悩ましい!」

「えっ」

 突然のリンの大声にマリアラが驚き、リンは悶えた。

「ああどうしよう……どうしてあたしの胃袋はひとつしかないんだろう……悔しい……」

「落ち着いて、リン。みんな胃袋はひとつだよ」

「わかってるよ! ねえ魔女の道具の中に、胃袋を大きくする道具とかない? 今お腹いっぱい食べてさあ、数日食べなくていいみたいなそんな道具……」

「ないと思うよ」

 マリアラが笑う。その反応が孵化する前のマリアラと本当に同じで、リンも嬉しくなった。明日の朝ご飯のメニューは明日の朝また改めて考えよう、と思う。マリアラと一緒に決めればいい。ランキングに載ってなかった隠しメニューなども教えてくれるかも知れないし。

「すごいねえ……もうすっかり、ちゃんとした魔女だね、マリアラ」

 リンは心からそう言ったが、それを聞いたマリアラは、ちょっと、沈んだ顔をした。

 リンが驚くと、マリアラは言った。

「……ありがと」

 そしてマリアラは、微笑んだ。何かを押し殺すように。

「試験に合格して、ちゃんとした魔女になれるように、頑張らなくちゃね。ね、リン、さっきはどうだった? 魔物見えた? レポート書けそう?」

「……はう」

 とたんに思い出してリンはよろめく。

「見えた……けど……」

 何も閃かなかった。

 困った、と、リンは思う。そう、こんなところで暢気にホットサンドに舌鼓を打っている場合ではないのだ。

「も、もう一度、見に行ってみない? 大丈夫、時間はたっぷりあるよ!」

「うう……」

 そうだろうかとリンは思う。本当に、『たっぷり』あるだろうか。

 このまま何時間過ごそうとも、何も書けそうもない。『たっぷり』あるはずの時間を、ただひたすら無為に消費する未来が見える。

「何か手掛かりが閃けば、するする進むものだよね」

 あっという間に片付けを終えたマリアラは、首もとからまたミフを外して、元の大きさに戻しながら、励ますように言った。

「魔物を見ながら、一緒に考えようよ。誰かと話してるうちに閃くこともあるって、モーガン先生もよくおっしゃっていたよ」

「うん……」

 そうだ。食休みなどと悠長なことをしていられる場合でもない。

 マリアラの後ろにまた乗せてもらいながら、リンは、モーガンという、マリアラの指導教官だった人のことを考えた。確かフルネームは、アルフレッド=モーガン。歴史学ではとても人気のある先生だった。二年くらい前、進路が決まった時の、マリアラの喜びようは今でもまだよく思い出せる。

 ――モーガン先生のクラスに入れたの! わたし歴史学大好きになったの、モーガン先生の授業があんまり面白かったからで……憧れだったの、ああ、もう、どうしよう!!

 感極まったようにマリアラは叫んでくるくる回った。リンは、マリアラの、嬉しい時には素直に大喜びするところが大好きだった。リンも嬉しくて、一緒にくるくる回ってしまったほどだ。

 マリアラはこの一年、モーガン先生に会ったのだろうか。ふと、そんなことを考えた。

 教え子の孵化を嘆いたという先生は――今、マリアラを、どう思っているのだろうか、と。


   *


 リン=アリエノールは、とても華やかな世界にいる人だ。

 何しろとてもとても美人で、背も高くてスタイルもよく、面倒見のよい明るく朗らかな性格、とくれば、モテない方が不思議というものだ。幼年組だった時、同じクラスの男の子たちの中で、リンに告白したことのない子の方が少ないくらいだったろう。一般学生に上がって寮も専攻も別れたが、そのせいか、会うたびに綺麗になっていくような気がしていた。マリアラは、リンが大好きだった。リンは強くて明るくて、一緒にいてとても楽しかった。

 今はレポートに少々てこずっているようだけれど、マリアラはあまり心配していなかった。リンには根性もスタミナも真摯な心根もあるし、専攻必須単位を落としたというのも、仮魔女試験に必要な受験者を確保するための、教師の手心ではないかという気がする。

 昔から、リンは綺麗だった。

 今はもっとだ。

 【壁】の近くに設置したテーブルの向かい側で、ペンを齧ってうんうん唸るリンを見ているうちに、自分も、一般学生に戻ったような気がしてきた。そのせいか、ふと、いい考えが浮かんだ。

「そうだ。ね、リン、カード式思考整理法、やってみない?」

 言うとリンは目を丸くした。

「カード式――って、何?」

「モーガン先生が教えてくださったんだよ。最近やってなかったけど、レポート書く時にはよくやったんだ。やってみよっか」

「うわあ、お願いします!」

 リンは叫んだ。リンはすごいとマリアラは思う。リンは本当に屈託のない人だ。知識をひけらかす、という非難を受けがちだったマリアラにとって、リンという存在はとても眩しい。

 また会えてよかった。

 心底、そう思った。

 そして、自分が今まで、どんなに、屈託のないお喋りに飢えていたのか、ということに気づいた。

 仮魔女は忙しい。休日などほとんど無い。一年間で、マヌエルとしてのさまざまな心得や職務について学ばなければならないのだから、当然、なのだろう。リンとよく鉢合わせしたあのパン屋にも、孵化して以来一度も行けていない。研修に次ぐ研修、その合間に、薬の効能を暗記して、魔力の行使のトレーニングもこなさなければならない。おまけに、【親】以外のマヌエルとは言葉を交わしてはいけない、という、謎の伝統もある。気軽におしゃべりできた相手は【親】であるダニエルとララだけ、それも研修の合間にちょっと話せるだけだ。寮に戻ったらへとへとで、他の仮魔女と話す余裕もなかった。気が付くと一年間があっと言う間だった。

 友達と、研修やトレーニング以外のことで話すなんて、気づいてみれば一年ぶりだ。まるで、おいしい水を飲み始めてから、初めて自分が渇いていたことに気づいたような気分だった。

 マリアラはメモ用紙とペンを出した。メモ用紙を一枚ちぎり、そこに、魔物、と書く。

「ええとね、レポートで書きたいキイワードを、ここに書いていくの。一枚につき、キイワードはひとつだけ。余白は後で使うかもしれないから、空けておいてね。このメモ帳、あげるから、何枚でも使っていいよ。あとで絞るから、とりあえず思いついたの全部書いてみて」

「わ、ありがとう……遠慮なくいただきます」

 リンはメモ帳を伏し拝むようにしてから、ぺり、ともう一枚ちぎって、そこに、軍事利用、と書いた。続いて、『捕獲の方法』『軍事利用の効果』『維持費』『対象?』。走り書きは止まらず、ぺり、ぺり、ぺり、とメモ用紙をちぎる音がしばらく続いた。

 十数枚ほどメモ用紙がたまったところでペンが止まり、マリアラは、指で、記入済みのメモ用紙をリンの前に広げて見せた。

「まず、結論を探す。落としどころ、とでも言うのかな。今すぐ見つけられなくても構わないよ。この紙を全部眺めて、書きたいことを考えながら、順番を入れ替えたりして、どれが使えそうか、どれが余分なのか、考えていくの。今リンの頭の中にある材料はこれだけ。これを眺めているうちに、何が足りないのかも見えてくると思うから、足りないものが分かったら調べてメモ用紙を増やせばいい。余分なものは退けて、骨組みを作る」

「ふうん……」

 リンは感心したらしい。そのうち一枚のメモ用紙にリンの目が止まった。じっとそれを見て、呟く。

「捕獲の方法って、どうやるんだろうね。【壁】は誰にも通れない、はず。だよね? だから、こんなに近くで見えているのに、魔物はここに来ない。なのに、どうやって捕まえるんだろう……?」

「文献持ってきたの?」

「うん、いくつかね。ああ、ありがとう、マリアラ。なんか、なんとかなりそうな気がしてきたよ。少なくとも、何が悪かったのかは分かった。漠然とし過ぎてるって思ってたけど、本当に漠然とし過ぎてたんだ……。ちょっと、考えてみる」

「うん、頑張って、リン」

「ありがとう! 頑張るね!」

 リンはにこっと笑い、猛然と、文献をめくり始めた。マリアラは小石をいくつか拾って汚れを落とし、広げたメモ用紙が飛ばないように押さえた。そうしてから、自分も単語帳を広げた。リンが頑張っているのに、ひとりだけのんびりしているわけにはいかない。



 十数分ほど経っただろうか。

 ふと視線を感じて顔を上げると、机に顎を乗せたリンが、ペンを噛みながらマリアラを見ていた。リンの目の前のメモ用紙は、もう何枚か増えていた。開いた文献に左手を乗せている。

 リンは本当に綺麗な子だ、と、マリアラは思った。

 明るい茶色の髪は短い。ショートカットがリンのトレードマークだ。背も高い。なのに、絶対に男の子に間違えられたりはしない。目も瞳も大きくて、長い睫が自然なカールを描いている。眉も、顎も、額も、鼻筋もすべてが整っていて、肌の内側から光を放っているかのように綺麗だ。机の上に直接顎を乗せるという、窮屈そうな、『だらしない』と寮母に咎められそうな姿勢でも、本当に綺麗で、可愛い。

 外見だけでなく、内面までも。

 かつてのクラスメイトや友人たちは、リンとマリアラの間に友好関係が成立していたことをあまり知らない。知られると必ず、驚かれた。タイプもポジションも、全く違うからだ。

 マリアラ自身にとっても、実際のところ、自分たちの関係は謎だった。二人の間にあったのは『友情』だったのだろうか、実際のところマリアラにはそれがよくわからなかった。少なくとも、同じグループではなかった。誘い合って会うような間柄ではなかったから、自分の一方的な好意だっただろうと、孵化したマリアラのことなどリンはとっくに忘れているだろうと、ほんのついさっきまでそう思っていた。

 ずっと気にかけてくれていたことが、嬉しくてありがたくて、同時に不思議だった。

 でもリンは、今間違いなくマリアラの目の前にいて。

 ペンを噛みながら、感心しきったようにマリアラを見ている。

「……ど、どしたの?」

 訊ねるとリンは、ううん、と唸った。

「マリアラは真面目だねえ……」

「真面目」

 少しだけ、身構えずにはいられなかった。マリアラは、真面目だ、と、本当にごく幼い頃から言われ続けてきた。成長した今も、たまに言われる。字面だけ見るとほめ言葉のようだが、その実、さまざまなニュアンスが込められていた。揶揄だとか呆れだとか、諦念だとか。

 自分が真面目だということは、我ながら疑いようのない事実で、同時にひそかなコンプレックスになっていた。

 要するに、頑固で融通が利かない、四角四面で面白みがない、ということなのだ。

 でもリンは、本当に屈託が無さそうだった。心の底からマリアラを『真面目』だと思い、感嘆しているのだ、ということがよく分かる。

「それって何の勉強なの? 孵化した後も勉強するなんてさ……マリアラは偉いよ。あたし、孵化したら後はもう生涯安泰なんだと思ってたよ」

 ぎくりとした。心に秘めてきた恐れを、怯えを、見透かされたのではないかと思った。強ばりそうになった体を、なんとか動かして平静を装った。

 リンは体を起こし、マリアラの持つ単語帳を覗き込んだ。

「ちょっと見ていい? ……んー? あ、これ、薬……?」

「そ、そう。薬の効能、ちゃんと覚えておかないと……って」

「偉いねえ……」

 リンは感嘆し切った口調で言う。

「ダリアがね、あ、さっき話した同室の子ね。さっきも言ったけど、ダリアはマヌエルが好きなの。付き合う男の子はみーんなマヌエルだよ、どこで知り合うんだろうなあ……。でもダリアの彼氏たちはさ、みんなよく遊んでるよ。仕事して、遊んで、仕事して。勉強なんてしてる子の話、聞いたことない」

「きっと右巻きだからだよ」少し早口になってしまった。「右巻きは治療に携わらないから……だから」

「でもさ、右巻きには右巻きの職務が………………って、そういえば! 〈ゲーム〉ってもう、始まってんの!?」

「!!」

 マリアラは今度こそ硬直した。話題が早く終わればいいと思っていた矢先に、まさかそっちに飛び火するとは。

「は、始まって……る、の、かな……?」

 どうなのだろう、開始は、マリアラの出発より数時間後になると聞いているけれど。

 マリアラは左巻きのラクエルだ。だから、相棒は右巻きのラクエルになる。

 現在、右巻きのラクエルは三人いる、と聞いている。その三人の中で、誰が一番初めにマリアラと言葉を交わすかが競われる。それが〈ゲーム〉と言われるものだ。仮魔女試験に合わせて行われる、つまり、今、まさに行われているか、始まろうとしているか、そのどちらかだ。

 儀礼的な意味合いの強いものだ、そんなに気にすることじゃない、と、ダニエルからもララからも、〈アスタ〉からも再々言われている、のだけれど。

「全員男の子なんでしょ? いいなあー、なんか、憧れちゃうなあ、相棒の座を巡ってバトルだなんて!」

 人の気も知らず、リンはうきうきと言った。マリアラも務めて軽い口調を心がける。

「そんなんじゃないよ、ただ、誰が一番始めに言葉を交わすかって、競走するだけだよ。それにリンに言われたくないよ、幼年組の頃からいろんな男の子に取りあいされてきたでしょう」

「それとこれとは話が別だよー」

 リンはあっけらかんと言う。どう別なのだ、とマリアラは思う。

 マリアラの表情を見て、リンは雲行きの怪しさを悟ったらしい。少し身をかがめた。

「……ひょっとして、乗り気じゃない?」

「会ったことない人なんだよ。三人とも」

 我ながら、隠しようもなく、言葉が堅かった。

 ここでリンのように『ゲーム』を楽しめないところが、自分の欠点なのだろう、と、マリアラは思う。

 リンは体を起こした。

「いーじゃん、あたし、今までに何人も、会ったことない人に告白されて付き合ったよ? その内の何人かは、すごくいい人だったし、今も友達だよ? きっかけは何であれ、人と出会うのはそう悪いことじゃないでしょう。知り合ってから、すこーしずつ分かっていってもいいんじゃない?」

「……」

「大丈夫だよー。恋人にならなきゃってわけじゃないんだしさ、嫌な人だったら、仕事だけの付き合いにすればいいわけだしさ。それに、明日すぐ決めなきゃいけないってわけじゃないんでしょ」

「えっ」

 マリアラは目を見張り、リンは首を傾げた。

「聞いてないの? いや、あたしもそんな詳しく知ってるわけじゃないんだけど……ダリア情報によると、言葉を交わしたらそこでゲームは成立する、だけど、『賞品』側には後日意思確認がされるらしい。ゲームの勝者は○○さんだけど、相棒にするなら誰がいいか、誰と合いそうだったかって」

「……そうなの……?」

 初耳だ。〈アスタ〉はそんなこと、一言も言わなかった。

 リンは笑った。

「じゃあ、抜け道みたいなものなのかなあ。最初から選べるってわかってたら、真剣にゲームに取り組めなくなるかもしれないもんね。だから、そう深刻に考えなくても大丈夫だよ。気楽に取り組んでみたらどう?」

「ありがと……」

 マリアラはほっとした。心の底から。

「マリアラは昔から、いろいろ考えちゃうところがあるからさ。でも大丈夫、きっとうまくいくよ」

 リンはそう言って微笑んで、また文献に目を落とした。

「うん」

 マリアラは頷いた。リンは忙しくページをめくって、線を引いたり、メモ用紙に書き込んだりしている。マリアラも単語帳に目を落として、そして、言いそびれてしまったことに気づいた。

 なぜこんなに必死になって、薬の効能を覚えなければならないのか。

 真面目だからでも、勤勉だからでもない。

 やむにやまれぬ事情があるからだ。

「……」

 話そうとして、リンの忙しそうな様子に、もう一度口を噤んだ。リンは今大変なのだ。マリアラがお喋りに飢えていたからといって、リンをつきあわせるわけにはいかない。それにこんなことを話したって、リンにはどうしようもないことだし、ただの愚痴になってしまいそうだし。

 マリアラはまた単語帳に目を落とした。リンの剥き出しの手が、寒さに赤く染まっている。昨日、ララが抜けることを快く了承してくれたあの人だったら、と、ふと考えた。リンの周囲の空気を暖めてあげることなどきっと簡単なのだろう。鼻の頭や頬や手の甲をこんなに真っ赤にさせずに、リンが勉強に集中できるようにしてあげることなんて、朝飯前なのだろう……

 熱い香茶を入れることにした。クッキーとチョコレートも添えることにした。

 魔力が弱いマリアラは、魔力以外のことで頑張るしかない。ハウスの壁を建てて風よけにしたらどうだろう、でもそれでは魔物の様子を見ることができなくなる。ぐるぐるぐるぐる考えて、ため息をついた。

 孵化しても、全然、成長できたような気がしない。

 昔からこうだった。様々なことをぐるぐるぐるぐる考えて、結局初めの一歩が踏み出せず、後悔したまま終わるのだ。孵化して一度『生まれ変わった』というのに、頑固な点も、意固地なくせに優柔不断な点も、直したい部分は全部そのままだ。

 その点でもリンは眩しかった。リンは本当に屈託がない。考えても仕方のないことに気を取られたりせずに、自分にとっての最善の道をすぐに見つけ出せる人だった。

 しばらく経って我に返ったリンは、香茶とお菓子をとても喜んでくれた。優しい人だと、マリアラは思った。

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