第一章(3)

 【壁】の近くまで近づいたのは、三年前の環境学実習以来のことだ。

 雪山の頂上を少し越えた辺りに【壁】はある。なだらかに続いていた深緑のじゅうたんが、そこで唐突に断ち切られていた。向こう側は草原だ。どこまでもどこまでも、青々と茂った豊かな牧草地帯が続いている。風が吹くたびに揺れるその地は、まるで楽園のように見えた。あそこに裸足で駆け出して行ったら、どんなに気持ちがいいだろう。いかにも柔らかそうな草。ごろごろ転がって青空を見上げたら、どんなに素敵だろう。

 目に見えるのに、手で触れそうなのに、あそこに行くには大変な手間とお金と時間がかかる。その事実が、不思議だ。

 背後から、マリアラが言った。

「リン、気を付けてね。触ったら、危ないよ」

「……そ、だ、ね」

 リンは一歩下がった。【壁】に触れてはいけない。【壁】は空間の歪みが寄り集まって固定されたものだ。触ったら最後、どこか別の場所にすっ飛ばされてしまう。出口がどこに通じているのか、判明している歪みはごく一握りだ。どこか遠くの国に飛ばされるならまだいい――マヌエルが助けに来てくれる――が、出口が宇宙空間や、大地の底や、火山の中や、海の底だったりしたら?

 【壁】を通った瞬間に、即死だ。


 と。

 はるか向こうに、ちら、と動いたものがいる。

 リンは息を止めた。漆黒の影が、遥かかなたで動いた。思わず【壁】に顔を押し当てそうになったリンを、危ない所で止めてくれたのはミフだった。物言わぬ箒は柄でリンの肩に触れてリンを止めた後、すうっと動いて地面と水平になった。リンの腰の高さに。まるで、乗れ、とでも、言ってくれているかのように。

「え……ま、マリアラ」

 リンは慌て、マリアラを見た。彼女は少し離れた場所にいたが、リンの声に気づいて、ひょこっ、と木立から顔を出した。

「乗せてくれるって。高いとこから見た方が、良く見えるでしょ? ミフ、リンをお願いね。わたし、場所を探してくる」

「え、……えー!」

 マリアラは木立の中に戻って行った。何の場所を探すというのだろう? リンはミフを見た。先程と同じ場所で、辛抱強くリンを待っている。

 魔女の箒は、エスメラルダ国民みんなの憧れだ。

 それも、魔女なしで、乗せてもらえるだなんて――

「お、……お邪魔します」

『どうぞ』

 流暢な返事が聞こえてリンは、飛びのいた。またぎかけていた足が柄に引っ掛かって転びそうになった。マリアラと良く似た声が、平然と言う。

『気を付けて』

「え――えええ!? しゃべったあ!」

『会話の回路もあります。普段は、あまり利用しません』

「そ、そう、なの?」

『必要な時はマリアラが話しますから、必要ありません。今はマリアラが離れているので、意志疎通に不便でしょう。どうぞ、お乗りください』

「あ……ど、どうも……」

 リンはおずおずと穂に跨がった。と、ふわり、体が浮いた。急いで柄にしがみつくと、ミフの優しい声がする。

『怖いですか?』

「ぜっ、ぜんぜん!」

 それは本当のことだった。怖いわけじゃない。なんというか、――ぞくぞくするのだ。マリアラの背がないぶん、さっきより視界が遥かに広い。しずしずと上って行くにつれ、景色はどんどん開けていく。さっきちらりと見えた漆黒の影が、今やはっきりと見えてきた。

 ――魔物だ。

「わあ……っ」

『写真を撮りますか』

「と、撮る撮る、でもっ手っ、」

『私のカメラで撮って、ハウスに戻った時に現像してもいいですよ』

「わあそんな、そんなことまで! すみません!」

『お気遣いなく。マリアラのお友達は、私にとっても大事な人です』

 パシャ、と、どこからともなく音が響いた。

『落第になって国外追放になったら、マリアラが哀しみますから』

「……」

 いかにも魔法道具らしい、歯に衣着せぬ物言いだった。リンは気を取り直して、再び【壁】の向こうに目をやった。

 魔物はまだ、そこにいた。

 先程より近づいていた。魔物の体躯は、まるで、真夏の日差しに照りつけられひび割れた地面に空いた穴のように、黒かった。光を浴びても輝きそうもない、吸い込まれそうな漆黒だ。

 大きさは、牛くらいはあるだろう。体のそこここからうねうねとうごめく触手が生えている。開いた口から牙が覗いていた。その牙まで黒い。周囲すべてを蝕みそうな、禍々しい毒の色。

 ――【毒の世界】の、毒の色だ。

「もしあれが入ってきたら……大変だね」

 めまいを覚えて、リンは、ミフの柄に掴まり直した。大変、どころの騒ぎではない。大惨事だ。

『そうですね』

 ミフは軽く言った。丸っきり世間話の言い方だった。

 距離は近くても、あの魔物が【壁】を越えて入ってくることは絶対にない、と、分かっているからなのだろう。リンも分かっていた。魔物にも【壁】を越えることはできない。見えていても、あの魔物との距離は何千キロも離れているに等しいと、頭では分かっている。でも、魔物が、禍々しい毒を宿した存在が、ゆるゆると近づいてくるのを見ると、おののかずにはいられない。

 リンの不安が分かったのか、ミフは軽く言った。

『だいじょうぶ。マリアラはラクエルです。魔物の毒は効きません』

 ――そうだ。それも一因だ……

 リンは一瞬だけ、唇を噛み締めた。

 マリアラはラクエルだ。光を媒介に魔力を奮う、ごく一握りしかいない、特別な魔女だ。光がなければ魔力を使うことができないという制約の代わり、ラクエルには毒が――少なくとも他のマヌエルたちほどには――効かないのだ。だから【毒の世界】へ落ちた人を助けに行くこともできる。他のマヌエルは近づくことさえできないあの世界に。

 担当教官が孵化を嘆いたほどの優等生で。

 誰もが羨むマヌエルで。

 その上、エスメラルダ国内にも二十人程度しか存在しない、ごく特別な、ラクエルで――。

 ――あたしって、醜い。

 リンは顔を伏せた。さっき、マリアラに会えて嬉しかった、それは本当のことだ。リンの真実の一面だ。でももう一面で、確かにリンは、孵化した後のマリアラに会うのが嫌だった。孵化の直後、マリアラが一番辛かった時に、助けてあげなかったという負い目もあるが、なにより、確実にリンの心を蝕むものがあったのだ。

 嫉妬だ。

 同じ寮の、同じ専攻の、マリアラと特に親しかった三人の少女たちを、リンは一年前からずっと、嫌悪していた。醜いと、思っていた。孵化したくらいで、友達を阻害していいはずがない。孵化を迎えたのはマリアラのせいではないし、みんなで結託して無視するなんて、一番卑劣な裏切り行為だ。

 でも、リンも同じだ。リンも、マリアラがいきなり手に入れた、極上の幸運に嫉妬して、出せたはずの救いの手をしまい込んでいた。仲のいい友人たちから突然無視されるあの絶望と、その絶望の淵で差し伸べられる救いの手がどれほど貴重なものかを、ありがたいものかを、リンはちゃんと知っていたのに。

 わかっていたのに、見過ごしにした。

 ――あたしだって、あの子達と同じだ。

『アリエノールさん?』

 ミフに声をかけられ、リンは、咳払いをした。喉の奥に詰まった何かを飲み下そうと努力して、なんとか、成功した。

「……ちょっと、怖くなっちゃった」

『ああ。すみません、気が付かなくて』

 ミフは速やかに下降して、リンを地面に降ろした。



 森の中は静かだった。マリアラはどこへ行ったのだろう。

『近くにいますよ。あまり【壁】の近くだと、ハウスを建てるのに支障がありますから』

 リンの疑問を見透かしたかのようにミフが言い、リンは、ミフを見た。そうだ、と思った。

「そっか、場所を探すって、ハウスを建てる場所のことか!」

『そうです。ある程度の広さがないと――』

 ミフが急に言葉を止めた。

 その理由はすぐに分かった。リンの背後から、若い男の声が、聞こえた。

「あの……ちょっとすみません」

 リンは振り返り、一瞬、目を見張った。

 ぱっと目を引いたのは、その頭髪だ。染めているのか地の色なのかわからないが、赤茶というよりもっと鮮やかな赤だった。色白の、優男と言える風貌の男に、その色はとてもよく似合っていた。

 リンより年上だろう――たぶん。二十歳にはなっていると思うが、人懐っこい笑顔が彼を幼く見せている。なかなか良さそうな人だと、リンは思った。優しそうだし、瞳も赤みがかっていて、ミステリアスでかっこいい。

「この辺りで、他に、登山客を見ませんでしたか」

 赤い髪の男は汗を拭き拭きそう言った。彼自身も登山客らしく、リンと同じような登山服を着ていた。足に履いた登山靴も服も真新しくて、初心者ぶりを窺わせる。

「いやー、ちょっとキノコ見に出たらはぐれちゃって」

「いえ、見ませんでしたけど……」

「そうですか。いやあ、参ったなあ……合流地点が分からなくなっちゃってね」

 若い男は面目無さそうに笑う。リンは少し彼に近寄った。

「地図、ないんですか」

「ないんですよ……いやね、休憩中にちょっとふらっとキノコ取りに出ただけなんです、リュックとか全部、仲間のところにおいてきちゃって。この近くのはずなんです。すぐ見つかるはずなんです。だって十分も歩いてないんですから」

「そ、それは」

 本当に初心者だぞこの人、と、リンは思った。雪山登山の心得を、全部教科書の中に忘れて来たに違いない。

「無線機も?」

 訊ねると男は、てへ、と笑う。リンは苦笑して、はい、と貸与品の無線機を差し出した。

「これ使って、責任者の人に連絡取ったらどうですか」

「えええ! いやあ、いいんですか? すみませんどうも……」

 若い男はいかにも嬉しそうに無線機を受け取った。ぴっ、ぴっ、ぴっ、とボタンを操作して、耳に当てる。

「………………あー、もしもし? 僕です僕、グールド……ひっ」

 無線機から盛大に怒鳴り声が流れ出たのがリンにまで聞こえた。かん高い女性の声だ。このぐず、のろま、などという悪口雑言をわめき立てる無線機を押さえて、男はリンを見て苦笑して見せる。リンも苦笑して、後ろを向いた。散々叱られるところを、人に見られるのは嫌だろう。特にリンのように年下の子には。

 すぐに男の通話は終わった。彼はガサガサ下生えを踏み鳴らしながら足早に近づいてくると、リンに無線機を返して、情け無さそうに笑った。

「どうもありがとうございます。おかげで場所がわかりました。反対方向に歩いちゃったみたいで……どうもご迷惑をおかけしました」

「いえ、大丈夫ですか? 見つかりそうですか」

「そこ動くな! って厳命されましたよ」

 とほほ、と言いたげに彼は肩を落としている。

「でももう、大丈夫。本当に助かりました」

「仲間の人が来るまで、一緒にいましょうか?」

 万一見つけられなかったら、また激怒されてしまうに違いない。リンの申し出を、しかし、今度は彼は固辞した。

「いえ、いえ、もう、これ以上ご迷惑をおかけするわけには。大丈夫です、ほんと、すぐそばなんで……それにその、すっごく怒ってたんで……仮魔女の試験を邪魔したなんてばれたら僕」

「ああ、はい」リンは苦笑した。「わかりました。じゃあ、お気をつけて」

「本当に、どうもありがとうございました」

 若い男は律義に頭を下げる。リンはマリアラを捜すことにした。ざくざくと斜面を下って行くと、若い男がまた声をかけた。

「あの、僕、グールド、と言います。グールド=ヘンリヴェント」

「あたし、リン=アリエノールです。また会えるといいですね」

「本当にね」

 グールドは笑う。蕩けるような笑みだった。山の上では初心者でおどおどしているが、町では結構モテそうな人だ、と、リンは思った。少なくともリンの好みではある。

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