第一章(2)
*
マリアラの方も、『遭難者』がリンだと、知らされていなかったらしい。
箒に乗って舞い降りて来たマリアラは、地面に降り立ってからも、目を丸くしてリンを見ていた。そして――一瞬、身構えるような顔をした。そうだろうなとリンは思う。
リンは、マリアラが孵化をした後、同じ寮の友人たちが手のひらを返したようにマリアラを阻害したことをよく知っていた。孵化で四日眠った後、目を覚ましたマリアラを待ち構えていたのは、かつて仲間で友人で家族だった子たちからの、冷たく陰湿な態度だった。
――そうだ。あたしは知っていたのだ……
「ひさっ」「ひ、さ、」
あげた声は同時だった。リンとマリアラはまた同時に口をつぐんだ。気詰まりな沈黙が落ちそうになり、リンは慌てた。
「しぶりっ」「ひさしっ」
また同時に言ってしまい、見つめ合う。マリアラの頬が赤く染まっているのを見て、リンは、
「……『しぶり』ってなにあたし!」
思わず叫んだ。マリアラと目が合った瞬間、驚くほど強い笑いの塊が腹から込み上げ、リンは吹き出した。マリアラもだ。
「『しぶり』だって……! やだもー何言ってんだろ、あはははははははっ」
「わたしも噛んじゃった……『ひさシっ』ってなっちゃった」
マリアラが言うのでまた笑った。孵化して魔女になったのに、それでもマリアラはマリアラだった。ちっとも変わっていなかった。笑いの発作は数分は続き、リンは笑いながら、それならば言わねばならない、と思った。言わねばならない、言わねばならない、言わねば……
「……ごめんマリアラ!」
笑いの発作が収まった一瞬にリンは勢いよく頭を下げる。マリアラが息を飲み、リンは頭を下げたまま呻いた。
「一年前……ほんとごめん。会いに行けばよかった。行けなかったんだ……マリアラが仲間外れにされてるって、あたし、知ってたの、なのに、」
「やだ……リン」
マリアラは慌てたようにリンの腕に手をかけた。
「そんなの、あの、気にしないで……寮が違うんだし、リンに冷たくされたわけじゃないんだし、たったの二日間だったんだし、あの」
「ずっと気になってて……気になってたのに、謝りに行くこともできなかった。さっきまで、あたし、仮魔女がマリアラだったらどうしようって思ってた」
「リン……」
「ごめん。本当にごめん。ごめんなさい」
うつむけた視界の中に、マリアラの手が見えた。少しだけ挙げられた手は、マリアラの内心を表しているようにリンには思えた。リンの腕に触れようかどうしようか、迷うようなその動きに、リンは唐突に、ああ本当にこの仮魔女はマリアラなのだ、と思った。孵化したって、性格まで変わるわけじゃない。学校で教わるその知識が、本当なのだと実感した。
この子はリンの大好きだった――大好きな、友達の。
マリアラに、間違いなかった。
「でも今は嬉しい」
顔を上げてリンは言った。
前からずっとそうだった。マリアラはリンが自分の気持ちを打ち明けても、絶対に笑ったり茶化したりしない子だ。
だから言える。
「また会えて、今は、ほんとに嬉しい」
「……わたしも嬉しい」
泣きそうな顔でマリアラは言った。その言葉にはひどく重い、真摯な、心情がこもっていた。
「本当に嬉しいよ、リン……」
マリアラは照れたように笑った。リンも笑顔になった。一年間抱え続けた心の重荷が急にふうっと取り払われて、何だかすごく、ほっとした。
それから二人は、決められたルールに則って、一連の手続きをこなすことにした。
リンはまず、発信機を止めた。『遭難者』はマヌエルに保護されたら、発信機を停止させる義務がある。もう救出の必要がなくなったことを、〈アスタ〉に知らせるためだ。
マリアラの方はもう少しやることがあるらしい。書類挟みを取り出して、ペンを片手にのぞき込んだ。
「えっと、それでは、質問をしますので答えてください。お名前は」
「えっ! あっ! リン=アリエノールですよろしくお願いします!」
「あ、こちらこそ、マリアラ=ラクエル・ダ・マヌエルです。よろしくお願いします。……ええっと、発信機番号をお願いします」
リンは首にかけたペンダント型発信機を引っ繰り返し、そこに彫られた認識番号を読み上げた。
「Cの、601の、Gの、2」
「ご所属の寮は」
「ウルク地区の女子寮三十二番」
「遭難の目的は」
「……遭難したくてしたわけじゃないよ!」
「だってここにそう書いてあるんだもん」
マリアラは笑い、リンはのぞき込んだ。確かに、遭難の目的、とはっきり書いてある。これはユーモアなのか、それとも本気なのか。
「あのね、課題に来たんだけど、道に迷ったんです」
「はい。課題ってどんな?」
「【壁】の向こうにさ、魔物がいるって聞いてさ。一度見てみたかったんだよね……」
リンは告白して、へへへ、と笑った。マリアラは目を丸くしている。
「話には聞いたけど……見えるかな」
「だからこの機会にぜひ……その……。ほ、箒に乗せてもらえれば、遠くまで見えるかなって……」
「ああー」
マリアラは納得したようだった。リンはもじもじした。魔女の箒は、一般学生みんなの憧れだった。親族や友人の中に魔女がいれば乗せてもらえるが、リンにはいなかった。今までつきあってきた男の子の中にも。ダリアに頼めば乗せてもらえるように誰かに頼んでくれたと思うが、それはなんだか、ずるいような気がして頼めなかった。
「じゃあ、ちょっと待ってね。〈アスタ〉に連絡したら、一緒に行こ」
マリアラはあっさりとそう言った。リンはちょっと震えた。マリアラは本当に箒を持っているのだと、思って少し気後れがした。孵化しても性格まで変わるわけじゃないけれど、それでも環境はがらりと変わる。一年前のマリアラに、どんなに頼んでも、箒に乗せてもらうことはできなかった。
でもそんなの、当たり前のことだ。リンだってこの一年間で、できることはいっぱい増えた――はずだ。
無線機で簡単に〈アスタ〉への報告を終えたマリアラは、無線機をしまって微笑んだ。
「じゃ、行こっか」
マリアラの箒はミフと言った。
ミフは自律行動できる回路を備えた、技術大国エスメラルダの技術の粋を極めて作り出された最高級の魔法道具だ。動力はマリアラから供給されるが、ある程度なら離れていても自由に動き回ることができた。飛行中に誤って落ちたとしても追いかけて来てくれる。箒の柄は真っすぐだがしなやかで、穂はとても大きく、二人乗りでも座り心地がよかった。
リンはマリアラの後ろに腰を落ち着けて、マリアラの腰に腕を回した。
ふわりと、体が浮いた。
木の梢に近づき、がさがさと枝をこすって、森の上に出る。
「……わあ!」
思わず叫んだ。
素晴らしい眺めだった。
木々の梢は緑のじゅうたんのように、正面の山肌を這い上っていた。頂上を少し越えた辺りに、エスメラルダと外界を隔てる【壁】が見えた。【壁】は無色透明で、光は通すが、空気は通さない。だから、【壁】自体は見えなくても、その存在は歴然と分かった。あちら側とこちら側では天気が違う。
「森の中を飛ぶより上を飛んだ方が危なくないから……大丈夫だよ、手を放さなければ落ちないから。リン、怖かったら言ってね」
リンは咳払いをした。
「……怖くない」
本当だ。ちっとも怖くなかった。感動し過ぎていて、怖さを感じる余裕などなかった。振り返るとエスメラルダの都市部の町並みが見えた。リンはまた呻いた。
「すごいよ、マリアラ……」
エスメラルダは大都会だ。狭い半島の中央部分に、びっしりと家やビルがひしめき合っている。中でも一際目を引くのは、巨大な二本の高いビルだ。【学校ビル】と【魔女ビル】は、それ一本の中にひとつの町がすっぽり入ると言われるほど大きい。高さも大きさも揃った二対のビルは、都市部ならどこからでも見ることができる、壮大で美しいエスメラルダの象徴だ。
――あの建物を、上から見下ろしてる。
「掴まって、リン。動くよ」
「……うん」
リンは前を向き、マリアラの腰にしっかりと掴まり直した。初飛行で落下だなんて、そんな伝説作りたくない。
「寒くない?」
普段どおりの口調でマリアラが聞く。箒での飛行に慣れているのだろう。リンは首を振る。
「大丈夫。……でもこれ、風があったり雨が降ってたりしたら、大変だねえ。荷運びって、海の上を飛んでいくんでしょう?」
ミフの穂は普通の箒より大きく、当然ながら材質も違う。初めて触ったが、柔らかくて弾力があり、姿勢保持をサポートするためのさまざまな工夫をこらしてあるのがよくわかる。これなら数時間乗っていても疲れないだろうと思うが、全身が剥き出しなのは構造上仕方がないことだろう。
マリアラはああ、と言った。
「その時には保護膜出すから」
「ほ、保護膜? って?」
「うん。ミフ、お願い」
マリアラが言った瞬間、ぶわっ、と柄の先端から大きな布のようなものが飛び出した。布は大きく膨らみながらマリアラとリンをすっぽりと包み込んだ。外気が遮断され、急に暖かくなった。リンは呆然と声をあげた。
「な……に、これえ……」
保護膜は半透明で、向こうの景色がうっすらと透けて見えた。なるほど、とリンは思う。布というより、膜だ。
「上空を飛んだりすると、風がすごいんだよね。寒いし、雨とか雪とかが降るとつらいし疲れるし……お客さんによっては怖がったり、するの。パニックになって暴れて落ちたりすると大変だから、最近開発されたんだって。これが実装されてから、飛ぶのが格段に快適になったんだって聞いたよ。これ張ると、寒くないでしょう」
「ほんとだ……」
「速度は出せないし、嵐だとこのままもみくちゃにされたりするけど、多少の衝撃なら防いでくれるから。このまま飛ぶ?」
「いやー」リンは笑った。「ありがと。でもしまってくれない? 景色が見えないから」
「そっか」
しゅるるるる、と可愛い音を立てて、保護膜は元どおりミフの柄に吸い込まれた。リンは感嘆した。なんて便利なんだろう。
でも、やっぱりこっちの方がいい。せっかく箒に乗せてもらっているのだ、風景を楽しまずにどうする。再び押し寄せた冷たい外気に身震いをして、うん、と言った。
「いい景色だねえ……」
「嵐が収まって、ラッキーだったよね」
「ほんとほんと」
深緑と白の入り交じった海の上を、ミフはゆっくりと飛んで行く。ジョギングくらいの速度だったので、頂上まではしばらくかかったが、それでも昼前になると、天空までそびえ立つ【壁】のすぐ側までたどり着いていた。
こちらは晴天だが、あちらは今日は曇っていた。あちら側はアナカルシスだ。こんなに近いのに、気候が全然違う国だ。アナカルシスは温暖で、雪などめったに降らない。もしこの【壁】に穴が空いたら、と、リンは考えた。きっと湯気が立つだろう。
「魔物を見るだけじゃ、課題にならないでしょ」
マリアラが少し後ろを振り返って言った。リンはぎくりとする。
「そ……かな、やっぱ、ならないかな……?」
「レポート書くんでしょう?」
「そりゃ書くよ……あの、あのね、もともとはね、アナカルシスの魔物飼育政策について書きたかったんだ。ほら、アナカルシスでは、魔物を捕らえて軍事的に利用する研究がなされているじゃない? すごいなあって。魔物って毒を持ってて、すごく大きいんだよね? どうやって捕まえるんだろう、餌はどうしてるんだろう、とか、いろいろ……」
マリアラは黙ったまま、少し考えていた。
一年前まで、マリアラは優等生だった。十五歳で孵化した時、担当教官が嘆いたという話は有名だ。よっぽど目をかけていた学生だったのだろう。
マリアラが孵化した時、友人たちが彼女を阻害したのは、きっとその辺りにも原因があったはずだ。孵化さえすれば生涯、生活に困ることはない。必死で勉強して単位を取り、国内に残れる仕事に就かなければならない学生たちからすれば、孵化したマヌエルは羨望の対象だ。
――マリアラなら孵化しなくても、教師とか学者とかの名誉職に、楽々と就くことができたはずなのに……
「……壮大なテーマだね」
ややしてマリアラは感想を述べた。ああ、とリンは嘆いた。
やはり、わかる人にはわかるのだ。リンもわかった。書き出してみてやっと、だったが。
「そうなんだよ……ちょっと大きすぎてね、詰まっちゃってね、それで、魔物が実際にいるところを見れば、何か閃くかなあって」
「そっかあ……巧く見られればいいね……」
頼めば手伝ってくれるだろうかと、リンは期待した。
マリアラは本当に、優等生だった。落第しそうなリンに、救いの手を差し伸べてくれるだろうか。
「……去年の専必単、落としちゃって……」
白状するとマリアラはギョッとした。……のだろう。今までずっと滑らかに飛んでいたミフが一瞬、落ちかけたからだ。
「専攻必須単位、落としたの……?」
エスメラルダの一般学生にとって、あるまじき失態だ。
一般学生は毎年、必須単位をひとつ獲得しなければならない。それを落としたらエスメラルダで、一般学生の身分を失うということになる。学問の国エスメラルダは、国全体がひとつの巨大な学校という体裁になっているので、国民はみんな学生、もしくは教師の身分だ。
つまり国籍剥奪の瀬戸際、ということだ。
「……やばいんだよ……」
「……そ、そっか……」
「で、でもっ、『遭難者』研修とって、レポート出せば、専攻必須単位に充ててもらえるって、だからっ」
「が、頑張って! 何かできることあったら言って、手伝うから!」
「ありがとううううぅ」
リンはほっとした。マリアラにアドバイスをもらえれば、レポートひとつ書くくらい、きっと何とかなるだろう。
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