第一章 仮魔女と友人

第一章(1)

 夜のうちに天気は回復し、今日は快晴だった。

 暖かい。

 というよりむしろ、着込みすぎて暑いくらいだ。リン=アリエノールはジャケットを脱ごうかどうしようか、しばし悩んだ。周囲を埋め尽くす雪もじわじわと溶け始めており、さながら春の様相を呈している。

『アリエノールさん、先に課題を始めてください。仮魔女の出発は一時間後です』

 〈アスタ〉の優しい声が貸与品の無線機から流れ出る。リンは頷いて、慌てて声に出した。

「了解です。……あのぅ」

『はい、何でしょう?』

「もしなんですけど……もし、万一、万が一、そのう。見つけてもらえなかったら、どうなるんでしょうか」

 ついに言ってしまった。リンは首をすくめた。

 言いたいことではなかった。でも、これを知らないまま闇雲に雪山にさ迷い出るわけにはどうしてもいかなかった。何しろ今日は雪崩が怖い。昨日一日で降った程度の雪でも、雪崩に巻き込まれたら充分危険なのだ。

 〈アスタ〉の声はとても優しかった。

『大丈夫。発信機は持っていますね』

「はい」

 リンは首元にぶら下げた発信機を確かめる。ちゃんと作動することもさっき確認済みだ。

『今日の仮魔女は責任感のある真面目な子です。不安に感じるのは当然ですが、一年間の彼女の頑張りを信じてあげてください。万一、仮魔女の保護を得られない状態で日暮れを迎えたら、その場で試験は終了し、ベテランのマヌエルがあなたの救出に向かいます』

「わかりました。よろしくお願いします!」

 リンは覚悟を決めた。大丈夫だ、そう自分に言い聞かせた。

 今日のリンの役割は、課題のため雪山調査に出掛けて道を外れてしまい、雪山で遭難した間抜けな学生――である。

 仮魔女の最終試験は、人の救出だ。人を助ける、というのがマヌエルの存在意義であるから、この試験は必須だ。つまり、仮魔女がちゃんとした魔女として働ける力量がある、と示すためには、リンのような、救出される人間が必須なのである。この役割には一定の需要があり、同時に、とても人気がない。当然だ。仮魔女というのはまだ魔女としての仕事を任される前の、半人前、ということだ。つい最近まで、リンと同じ、ただの人間だったのだ。誰だって助けてもらうのはベテランの方がいいに決まっている。

 でも、ちゃんと魔力は使えるはずだし。

 魔女の持っている、さまざまな快適な道具も、使えるはずだし。

 だから不安に感じることなどない、はずだ。先輩たちが散々脅すからいけない。他人事だと思って、さまざまな無責任な噂を吹き込まれてなければ、こんな不安など感じずに済んだはずだ。実際それほど危険でもないし怖くもないよ、と、ダリアが太鼓判を押してくれているのだから。

「さー、頑張るぞうー」

 リンは無線機をポケットにしまい、木立の中に足を踏み入れた。ぐずぐずに溶けた雪が、ぐしゃっと音を立てる。木立の中に積もった雪は、数センチといったところだろうか。今回の嵐は海から襲ってきてエスメラルダに大雪を降らせたが、雪山に来たころには勢いが衰えていて、また落葉が本格化する前だったということもあり、この程度の積雪で済んだのだろう。それなら雪崩にも、それほど恐怖する必要はないのかもしれない。リンは少し元気になって、じゃくじゃくと森の中を歩いて行った。

 しょうがない。仮魔女はこの試験に落ちたら魔女になれないけれど、この課題を乗り切れなかったら大変なのはリンも同じだ。

 足場の悪い森の中を、ふうふう言いながら歩いて行く。リンの持っている発信機の波長を頼りに、仮魔女がリンを助けに来るまで、あと一時間――と少し。

 目的地は雪山の頂上近く、エスメラルダと外界を隔てる【壁】付近だ。一時間の間にできるだけ目的地を目指して進んでおくのが、仮魔女に対する礼儀というものだろう。


 十数分も歩かないうちに、汗だくになった。ずっと上り坂だし、真っすぐ進めないし、雪にいちいち足が埋まるし。ジャケットを脱ぎ、手袋を外し、マフラーも外し、小さく縮めてポケットにしまい、タオルを取り出して汗を拭いた。時折、梢の上に積もった雪が溶けて落ちて来るので気が抜けない。

 上から落ちて来た雪の直撃を受けてリンが昏倒、もしくは大ケガをしたとしても、試験の監督者たちが助けに来てくれたりはしない。『遭難者』をやりたがる人間がほとんどいないのはそのためだ。一度試験が始まったら、何が起こっても仮魔女の救出を待たなければならない。悪天候で本当の遭難になったとしても、仮魔女が来てくれるまで、どこかで自分の命を守らなければならない。危険が多く、拘束時間は短いが一泊二日の間ひとりになれる時間がほとんどなく、気疲れするしレポートも書かなければならないし、特権階級になったばかりの仮魔女に嫌な態度を取られるかもしれない、普通の学生ならまず受けない課題。だからこそ『遭難者』には、数々の特典が約束されている。

「はあぁ……頑張ろ……」

 しばしの休息を経て、リンは再び歩きだした。じゃく、じゃく、じゃく。


 森の中はとても静かだった。

 話し相手もおらず、ひとりで黙って歩いていると、さまざまな思考が頭の中に去来する。追い払っても追い払っても、ダリアの声が追いかけて来て、執拗に囁き続ける。

 ダリアが悪いわけじゃない。悪気など絶対になかった。ダリアはただ、普段どおりにおしゃべりしていただけだ。あの明るいおしゃべりに責められているような気がしたのは、だからリンのせいなのだ。ダリアのおしゃべりが、リンの痛いところを突いていたから。

 昨日ダリアは、自分のベッドに寝そべっていた。猫のような可愛らしい顔には、うっとりしたような表情が浮かんでいた。

 ――リンを『救出』してくれる仮魔女って、どんな子だろうね。

 魔女が好きなダリアは、魔女の情報に詳しい。『月刊マヌエル通信』という雑誌を定期購読しており、本棚にはバックナンバーがずらりと並ぶ。どんなコネがあるのか、付き合う男の子はみんなマヌエルばかり。マヌエルと知り合いになれるからと、去年、受講できる年齢に達した直後に『遭難者』に志願した、変わり者だ。

 ――相性があるからねえ……あたしの仮魔女はちょっと……うん……ちょっと……うん。

 ダリアは少し言葉を濁し、困ったように笑う。

 ――そりゃ人間だもん、いろんな人がいるわよ。あたしは運が悪かっただけ。ああ、リンの仮魔女がいい子だといいなあ。異性の仮魔女は来ないのが残念だよねえ、でも、マヌエルの女の子と知り合う方がさ、よく考えたら貴重よね! お友達になりたーい♪ 絶対仲良くなって、紹介してね!

 そうしてダリアは、もうかなりよれよれになっている、『月刊マヌエル通信』今月号の、『仮魔女最終試験』コーナーを開いて鼻を突っ込んだ。

 ――誰かなあ……今月の受験者は、アルファ……ジェラルド……ノリス……パーシー……マリアラ。……マリアラってさ、あのマリアラ=ガーフィールドよね? 同い年のさ、隣の寮だった子だよね! あれからもう一年かあー、早いなあー。

 この子だったらいいよねえ、と、ダリアは言った。直接の知り合いじゃないけど悪い噂聞かなかったし、友達になれそうじゃん? と。

 あっけらかんとしたダリアの言葉。リンは、曖昧に笑ってごまかした。

 言えなかったのだ。

 ダリアに、マリアラ=ガーフィールドとは、孵化する前に既に友達だったのだということを言えなかった。悪い噂聞かない、どころの話ではない。リンはマリアラが好きだった。寮も違うし、専攻も違ったし、普段一緒に行動することは滅多になかったけれど――それでも友達だった。少なくとも、リンはそう思っていた。

 【学校ビル】の屋上で、パン屋さん近くの噴水で、図書室で、ロビーの喫茶コーナーで――行動パターンが似ていたのか、たまに一緒になった。示し合わせたわけじゃないのに。

 リンは、マリアラの持つ雰囲気が好きだった。落ち着いていて、穏やかな雰囲気だった。華やかな話題がない代わり、陰口や愚痴と言った話題もなかった。彼女の口から、ネガティブな話題が出ることはほとんどなかった。隣にいるとほっとした。

 なのに――

 なのに、あたしは――


 いつの間にか足が止まっていた。リンは我に返り、雪に埋もれたブーツを見、唇を噛み締めた。

 一年前、リンは、マリアラが孵化をしたのがショックだった。

 大好きだった友人が、いきなり遠くに行ってしまったような気がした。抜け駆けされたような気がしたのだ。孵化は自分の意思でどうにかなるものではないと、重々わかっていたのに。

 だからリンは、この課題を受けるはめになった時から、リンを救出に来る仮魔女がマリアラではありませんように、と、毎日毎日祈っていた。どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

 ――でも。


 『遭難』開始して一時間と十分後、飛んで来た灰色の制服を着た少女が、まがう事なきマリアラ=ラクエル・ダ・マヌエルだったとき、リンは、ああやっぱり、と思った。

 ああやっぱり神様は、リンの狡さを許してはくださらないのだ――と。

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