長い長い夏の終わりはまだ来ない

「シンリュウに、礼を言っといてください」

 清潔感がありながらきちんと生活感の溢れた岬の家のダイニングで、俺はテーブル越しに向き合ったおばさんに言った。

「私も、シンリュウには色々助けてもらったから」

 俺の隣の椅子に座った岬も、笑いながら言う。

「わかった。二人分、きちんと伝えておくね」

 おばさんが呼べばシンリュウは姿を現すだろうが、今の俺達に認識することは出来ない。そんな中直接礼を言うのはなんとも変な感じがするので、おばさんの心遣いには感謝だ。

 最後の戦いの後、清と岬――と恐らくはシンリュウ――はそのまま岬の家に帰ったが、俺は自分の家に戻ることにした。そこで丸一日寝ていなかった分の睡眠を取り、何とか気持ちを整理して、一夜明けた今日――夏休み最終日に、俺は岬の家を訪ねていた。

 おばさんは清に聞いたのか、それとも最初からわかっていたのか、事情は全て承知済みで、俺から話すことは殆どなかった。

 俺の隣に座る岬も特に何も言うことなく、結局話題はシンリュウへの礼という方へ向かった。

「直人君――」

 おばさんはじっと俺を見つめる。いくら岬の母親とは言え、少女のような可憐な顔で見つめられると中学二年生の俺にはきつい。

「カザクモって名前はね、私が付けたの」

 照れるように笑って、おばさんはやっと俺から視線を外してくれた。

「風に雲でカザクモ。自由で、何者にも縛られない。いないと思っても、ふとしたことで吹き抜けるし、空を流れていく」

「――大丈夫です」

 俺は物怖じすることなく、笑ってみせた。

「知ってます。あいつは、絶対に大丈夫だって」

「そっか――うん、そうだよね」

 話を終え、俺は玄関へと向かう。

「おや、直人君」

 俺が玄関を出て駐車場に停めさせてもらっておいた自転車の鍵を外そうと身を屈めていると、玄関から清が大きな荷物を持って出てきた。

 その姿に何か違和感を覚え、俺はあっと声に出す。

「半袖」

 どんなに暑い日でも長袖の上着を羽織っていた清が、今は半袖のTシャツ一枚なのだ。

「ああ」

 清は右腕を左手でなぞりながら笑う。

「涼しくていいものですね」

 あの時、神野が本人曰く気紛れで清の傷を治していたのだ。神野悪五郎という妖怪は、俺にはよくわからない。それでもきちんと後始末をつけてくれる辺り、極悪人ではないことは確かだ。

「そうか、よかったな」

 清は口を開きかけたが、はっと俺の背後を見て固まる。何かを聞き取るように小さく頷くと、暫くして全てを悟ったように笑った。

「ええ、よかったですね」

 返答にしてはどうも妙な言い回しだと思ったが、俺は特に気にしないことにした。

 清は今から自分の家に帰るのだという。そもそもが妖人に対抗するためにこの地区に来たそうだから、全てが終わった今、もうここに残る理由はないという訳だ。

「隣の市ですから、気が向いたらまた麻子さんに会いにきますよ」

 俺には用はないということか。こいつらしい。

 清は駅に向かう道を歩き始めた。その背中が消えそうになる頃、俺は思い切り声を張り上げた。

「清! お前は相当むかつく野郎だけど、俺はそこまで嫌いじゃなかったぞ!」

 清は振り向くことはなかったが、確かに右手を挙げてそれに応えた。

「あれ? 清さんもう行っちゃった?」

 玄関から、今度は岬が現れた。

「ああ、さっきそこの角曲がってった」

 岬は家の前の道路に飛び出したが、流石に追いかけることはしなかった。

「きちんと挨拶してないのに。もう……」

「あんな奴にわざわざ挨拶してやる必要はないだろ」

 自分はしっかり別れの言葉を放っておきながらこんなことを言う。我ながら素直じゃない。

 岬は太陽が傾いた夕空を仰ぎ、大きく伸びをした。

「終わったね、夏休み」

「ああ」

 長かった。今まで生きてきた中で、そして恐らくはこれから先もずっと、一番長い夏休みだ。

「で、直人はもう終わったの?」

 よく意味がわからずに俺は首を傾げる。

「終わったって――全部終わっただろ」

「へえ、珍しいじゃない。直人が夏休み中に宿題全部終わらせるなんて」

「え?」

 待て待て。いきなりそっちの話か。というかまずい。まだ丸々一教科分以上残っている。こうなればもうなりふり構っていられない。答えをまる写ししてでも、今日中に出来るところまで片付けなければ。

 冷や汗が伝うのを感じ、俺は岬に短く挨拶をしてから慌てて自転車を漕ぎ出した。

 今まで寝る間も惜しんで戦ってきた俺への最後の仕打ちがこれか。いや、計画的に課題を進めなかった俺にも責任があるのは認めよう。しかし、本当に、もう――。

「夏休みの馬鹿野郎ォ!」

 俺の叫びは、虚しく夏の終わりに散っていった。

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