二人の原風景
空が赤い。
ああ、夕方か。俺はベッドで横になりながら、そんなことを思った。
夕方というものは本当にいい時間帯だ。なんて、前にも同じようなことを考えて一人文字通り黄昏ていたことを思い出す。
ふと、冷房の利いた部屋の中に、何やら熱気が入り込んでいることに気付く。
赤い空の色を部屋の中に差し込ませる窓が、開いているのだ。
そして窓枠に、カザクモが乗っていた。
「どこ行くんだよ、カザクモ」
声をかけると、カザクモは俺の方を振り向きもせずに答える。
「全く、お前という奴は――」
カザクモは呆れたように嘆息し、開いた窓の外を眺める。
「おい、冷房入れてるんだから窓はきちんと――」
ベッドから起き上がって窓の方へ向かう。カザクモと同じように窓の外を眺めると、俺は言葉を失った。
普段の俺の部屋の窓から見える景色は、近所の家や、家の前を走るアスファルトの道路、そこに立つ電柱と、宙に延びる電線くらいのものだった。
だが、今見えるのは――赤く燃える山だった。
外の景色は一変していた。この窓からは本来見えず、外に出てもはるか遠くに見えるはずの山が、すぐ目の前にそびえ立っている。そしてその山は、赤々と燃えているのだ。空が赤いのはこれのせいだった。
「なんだ――これ」
「ここまで来てもまだそれか」
カザクモはもう一度溜め息を吐くが、依然視線は外に向けたままだ。
「あれはな、私の原風景だ」
原風景――その言葉を聞き、俺の意識が一気に覚醒する。
「そうだ、俺達――」
神野によって異形に変えられたことを思い出すが、記憶はあまり定かではなかった。
「私はあそこに帰らなければならない」
カザクモは淡々と呟く。
「あそこって――あんな火の海の中に戻ってどうなるっていうんだよ。ここにいろよ。お前妖怪だから父さん母さんにもばれないし、餌代だってかかんねえんだから、何も問題ねえよ。なあ、ずっとここにいろよ」
――なんでだ。
なんで、俺は泣いている。
カザクモは三度溜め息を吐く。
「わかっているはずだ。私達はいずれ別れなければならない。それが今だ」
「厭だ――このままここにいりゃあいいじゃねえか。お前と俺で、ずっと――」
「お前は馬鹿だ」
カザクモは小さく笑う。
「だが、愚かではない。それに相も変わらず自覚は出来ないようだが、お前は最初から本質を掴むことが出来る。だから今、そうして泣いているのではないか」
そうだ、わかっている。俺とカザクモには、いつか必ず別れる時が来る。妖人を全て倒したなら、仮面は破棄しなけらばならない。そうなれば仮面の力で妖怪を見ることが出来ていた俺は、元のただの人間に戻る。カザクモを認識することの出来ない、ただの人間に。
今はまた少し状況が違うが、それでも結果は同じだ。
俺とカザクモはいつか別れる。
それが今なのだろう。
今の俺達の身体は異形と成り果てている。それを元に戻すために、カザクモが犠牲になろうとしているのだ。
カザクモが俺の中の存在を完全に消す。そうすれば俺は、元の人間に戻ることが出来る。こんなことは妖人にも、妖人と同質の存在となった岬にも出来ないだろう。互いを確かに認め合い、こうして原風景の中で話すことが出来る俺達だからこそ可能な、一つの奇跡だ。
そんなことをして、カザクモがどうなるのか。俺には――カザクモにも、そんなことはわからない。
だから、泣いて――わかっていながらも、それを止めたいという思いは確かにあった。
「でも、わかってる――今なら全部わかっちまうんだ。お前だって、本当は――」
「言うな」
今の俺達は限りなく一つに近い存在だ。カザクモの心中も、俺の心中も、互いに筒抜けだった。
「お前は優しかった。妖怪である私や、他のもの達にでさえだ。私はな、嬉しかった。お前のような者がいてくれて、本当によかったと思っている。だからこそ、お前は生きねばならん。お前には友がいる。家族がいる。愛すべき人が――帰りを持ってくれる人がいる。生きろ直人。人として」
「なんだ」
俺は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、にやりと笑った。
「お前も、泣くんだな」
「うるさい」
カザクモは外を向いたまま、優しく突き放した。
「心配するな。私は死なない」
「ああ、そう信じてる」
いや――俺は言い直す。
「知ってるよ。俺にはわかる」
カザクモは小さく笑うと、俺の方へと振り向いた。
「さらばだ我が友よ! 私はお前に出会えて幸せだったぞ!」
やっぱり泣いてんじゃねえか――向き合った俺達は泣きながら笑い合った。
俺は自分の身体からこぼれ落ちていく白銀の光を、細大漏らさずじっと見つめていた。
腰から伸びた六本の尾も消えていく。顔を走る赤い装飾線も薄くなって消えていく。自分の顔のことなのに俺にははっきりわかった。
この光は、きっとカザクモの一部であり、全てだ。それが俺の身体から剥がれ落ち、輝きを失って消えていく。
光を手で拾おうとしてみたが、一度離れた俺の身体に再び触れると、その光は掻き消えてしまう。
「カザクモ――」
すっかり元の人間に戻った俺は、その場にくずおれた。
「素晴らしい。素晴らしいよ。最後の最後まで、私の想像を超えてくれた。まさか自らの意思で元の人間に戻ってみせるとは。君は本当に――」
俺の顔を上から覗き込んでいる神野を見て、反射的にその胸倉を掴んだ。
「おいおっさん、カザクモは――カザクモはどこだ!」
神野は微笑を湛えたままで、首を横に振った。
「岬――清――」
岬は仮面をぎゅっと握り、既に変身を解いている清は右腕を垂らしたまま、同じく首を横に振った。清の右腕に見えていた傷口は、今の俺には見えない。つまり俺はもう「見る」力を失っている。だが、この場にカザクモの姿が見えないのは、俺にだけ見えないという訳ではないようだ。
「楽しかったよ、直人」
神野は俺を無理矢理助け起こし、にっこりと笑う。立ち上がって気付いたが、今まで身体に重くのしかかっていた疲労がどこかへ消えている。
神野は清と岬に目を向け、指先をくいと動かした。すると清の懐からは覡符が、岬の手からは仮面が神野の手の中に収まる。
「もう充分に働いてくれた。そろそろお役御免でいいだろう」
神野が指をすっと切ると、全ての覡符が真っ二つに裂けた。そこから炎や閃光や様々なものが溢れ出し、最後に巨大なばさばさという羽音がして、覡符は灰となって消えた。
「さて、ではこちらも」
神野が仮面をとんと叩くと、仮面は粉々に砕け散った。
「よし、これで全ての懸念事項はなくなった」
俺の身体を駆け寄ってきた岬に預けると、神野は清に歩み寄り、完全に言うことを聞かない様子の右腕を優しく持ち上げた。
「山本のことだ。この傷を治す約束をしているんだろう?」
「お見通しですか。全く腹立たしい限りです」
神野は小さく笑い、傷口があるであろう場所を指でそっとなぞった。
「奴に恥をかかせてやるのも悪くないと思ってね」
清は顔に明らかな驚愕を浮かべ、それまでぴくりとも動かなかった右手を握ったり開いたりを繰り返す。神野が手を離すと小さくだが存分に味わうように右腕を振るった。
「一応、礼は言っておきます」
「構わないさ。ただの気紛れだよ」
神野は穏やかに笑いながら、俺と向き合った。
「さて直人。好きなだけ私を恨んでくれて構わないよ。それだけのことはしたつもりだ」
「もういい――あんたのことは気が済むまで殴った」
「ああ、あれは痛かったよ。嘘は言わない」
「直人――」
俺の身体を支える岬を優しく押し退け、一人でしっかりと立ち尽くす。
「カザクモ――」
叫び出しそうになったのを、ふと先程の会話が脳裏をよぎって止める。
もうさんざん泣いた。全てをわかり合った上で、別れも告げた。
だから――何も心配することはない。
俺は真っ暗闇の講堂の天井を見上げ、小さく微笑んだ。
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