行き着いたその先

 腕の痛みは限界を超えていた。今まで感じたこともないような激痛が傷口から全身を責め苛む。ただでさえ覡符を使いすぎというのに、直人のチャンスを作り出すためにそこにもう一枚覡符を使ったのだ。激痛は際限なく大きくなっていった。

 だが、今はその痛みも忘れていた。

 清は、揺らめくように立ち上がったを見る。

「ふふ――ふふふふふ」

 神野が楽しくて堪らないというような笑みをこぼす。

 それは――異形だった。

 全身を淡い銀色の光が覆い、腰からは六本の尾が伸びている。今までと違うのは、仮面をしていない顔に普段着けている仮面と同じ装飾線が直接走っており、その顔も直人本来のものでなく、獣の様相を帯びたおもてへと変わっている。だが、その顔は凶暴さよりもむしろ怜悧さを感じさせる。

「直人……?」

 岬はきょろきょろと周囲を見渡している。元の人間に戻ったことで、「見る」力も失ったのだ。今の直人はつまり――。

 神野がいつの間にか拾っていた仮面を岬に投げてよこした。

 仮面を手にした瞬間、はっと息を呑む。

「想像以上だよ。その姿は最早妖人ではない。阿瀬直人――やはり私の想像を超えてくれる」

 神野は笑いながら、異形と化した直人に問いかける。

「自我はあるかい?」

 神野の身体が、吹き飛ぶ。

 直人は、目にも止まらぬ速さで拳の一撃を神野の身体に見舞っていた。

 そこから、飛ぶ。

 神野の背後に現れた直人は、その背中を高々と蹴り上げた。神野の身体が浮かび上がると同時にその頭上へと現れ、踵落としで脳天をぶち抜く。

「質問の答えがそれかい?」

 床に叩き付けられた神野はゆっくりと立ち上がり、まるで軽く転んだだけのように埃を払う動作をしてみせた。

「我々は不二」

 直人のものでもカザクモのものでもない、透き通った声が答える。

「一でなく。二でなく。二であるようでその実は一である」

「なるほど興味深い。その自我は、どうも無から生まれた訳ではないようだ。それで、君はどうする?」

「我々は、お前を倒す」

 直人の姿が消える。

 神野の正面に現れたかと思えば、目視出来ない速度で拳の連打を叩き込む。

「ほう、それはまた何故?」

 なすがままに拳を浴びせ続けられる神野は、だがまるで意に介さずに直人との問答を続ける。

「お前は踏みにじってきた。人間を。妖怪を。我々を」

 怒りに任せたように、直人の拳が神野の顔面に入る。

「やはりそう思うか。うん、そう思われるように行動してきたから、狙い通りだよ」

「神野悪五郎――あなたは――」

 清は皮肉に笑う神野の顔を見て、思わず声に出していた。

 清の眼力を以てしても、神野の本質は見抜けない。それは妖人のような「無」ではない。あまりに深遠すぎて、とても推し量れないからだ。

 だが、今の神野の表情は――まるで偽悪的だ。

 神野のやってきたことは、絶対に許されてはならない。彼のせいでどれだけ多くの人間が理不尽に命を奪われたか。清はそれを考えるだけで例えようもない怒りに見舞われる。

 だが――神野の語ったことは、果たしてどこまでが本当なのか。

 神野は自分が妖人を生み出したと言った。恐らくそれは本当だ。神野の言葉を受け取った妖怪達が人間に取り憑き、妖人が生まれた。

 しかし、もしかすると――順番が逆なのではないか。

 自然発生的に生まれた妖人を、神野が認識する。そのシステムを把握し、妖怪達をそそのかす。

 結果は変わらない。妖人は生まれ、人間や妖怪を襲う。

 だが、この場合一つの選択肢を封殺出来る。妖人の自然発生――神野が妖怪達に広く人間に取り憑くということを教えたことで、その発生は防ぐことが出来た。

 神野が恐れたのは、自分の目の届かない範囲で妖人が自然発生することだったのではないか。妖人の発生がこの四門地区に異常に集中していることも、何かの思惑を感じざるを得ない。

 先程の様子を見るに、神野は妖人――〝雅号〟を従えていた。神野は妖人を自分の許で統制していたのではないか。

 妖人の危険性を、妖怪達に充分に認識させる。そして以降の妖人の発生を完全に食い止める。それが神野の目的だったとしたら――神野の先程の言葉、『妖人は今後一切生まれない』。それが神野の目指した結果なのではないか。

「あまり買い被られては困るよ、清」

 神野は直人の拳の嵐を真正面から受けながら、小さく笑う。

 そう――神野の悪意の有無を疑うには、あまりに矛盾点が多すぎる。

 実際に人間は死んでいる。どうしようもない程死んでいる。神野はそれを止めようとした訳ではない。さらに言うならば仲間の妖怪も数多くが妖人となり、妖人に襲われ、消えている。

 妖人の発生を食い止めたいのなら、その場その場で最良の行動を起こすべきだったはずだ。神野はそんな素振りを全く見せていない。

 そして、神野は妖人を元の人間に戻す力を持っている。にも拘わらず、神野は手元に置いた妖人を人間に戻すどころか、人間に妖人と戦う力を与えて処理を任せていた。そしてその人間が苦悩するように仕向け、それを嘲笑うような趣向を凝らしてみせた。

 そしてまるで蟻の巣に水を流し込んで喜ぶ子供のように、直人とカザクモを弄んで異形を生み出した。

 清にはやはり、神野の真意などわからない。

「さあ、気が済むまで殴ったかな?」

 長い間直人の殴打を受けていた神野だったが、まるでダメージを受けた様子はなかった。傷も痣も付いておらず、何事もなかったかのようにけろりとしている。

 対する直人は、確実に消耗していた。殴るという行為は確実に殴った側も疲弊させる。

「何故私が妖人を従えていられたと思う? それはね」

 神野はまるで通り抜けるように直人の首を掴み、高々と掲げた。

「私が強いからだよ」

 格が――違いすぎる。

 清は一枚の覡符を取り出し、限界を超えた痛みを放ち続ける傷口に向ける。これ以上覡符を使えば、どうなるかはわからない。それどころかこの痛みを無視して覡符を傷口に走らせるなど、苦行以外の何物でもない。

 だが――

「変――身」

 この言葉は、清が覡符を使う度に味わう激痛を乗り越えるためのもの。決意を固めるための、一つの儀式。

 だから、清は覡符を傷口に走らせた。

『波山』

 頭が弾け飛ぶのではないかと思われる程の激痛が一瞬意識を危うくさせる。だが、清は踏み止まった。

「なんのつもりだい? 清」

 直人を片手で掴みながら、神野は微笑を湛えて訊いてくる。

「その手を――放してください」

 清の右腕は、もはや何の役にも立たない状態だった。まるで自分の身体ではないように、力なくぶら下がっている。

「ほう、それはまたどうして?」

 清自身、何故と訊かれれば正確に答えることは出来ない。

「なんとなく――でしょうかね。あなたにいたぶられる直人君を見ているのは、どうにも気分が悪い」

「そうか」

 神野は直人を清の目の前に投げ飛ばした。

「直人君――」

 清が片腕で直人を助け起こそうとすると、腹部を何かが貫いた。

 直人の腰から生える尻尾が、まるで槍のように清の腹を貫いていた。

「清さん!」

 岬が絶叫する。

「ぐ――」

 神野はおやおやとでも言いたげに清を見ていたが、その顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。

「どうも清廉な心を持っているという訳でもないらしいね。私を傷付けられない苛立ちが外に向かってしまったようだ」

「ええ、想定通りです」

 覡符を使ったのは、神野に立ち向かおうと決意した訳ではない。直人の暴走を止めるためだ。

「もういいでしょう直人君。神野悪五郎を殴って、殴って、殴り倒したんですから。果たしてどれだけ意味があったかはさて置き、君が拳を振るったという結果は同じです。神野悪五郎が何故なすがままに君の拳を受けたのか。圧倒的優位を見せびらかすためか、君への心ばかりの贖罪だったのかは知りません。ですが、もうわかったでしょう。神野悪五郎は僕達が手出し出来るような相手ではないんです。それとも、僕まで傷付けておいてまだ不満ですか」

 興奮する獣のように気炎を上げながら、直人は立ち上がる。

「言ってもわかりませんか」

 清は直人の後頭部を蹴り上げる。

「君とは一度、きちんと決着をつけておきたかったんですよ。いい機会です」

 唸り声を上げ、直人が清を睨む。

「言葉も忘れましたか。まあ、その方がこちらとしても気が楽ですが」

「やめて!」

 岬が清と直人の間に割って入る。

「ぐあ――」

 直人が頭を押さえてうずくまる。

 直人は岬を助けるために、重すぎる罪を抱え込んだ。その岬を傷付けてしまえば、その覚悟も何もかもが水泡に帰す。そのくらいのことはまだ考えられるらしい。

 神野はゆっくりと岬の視線に釘付けになった直人の前に進み出る。

「君は実に素晴らしい結果を見せてくれた。仮面を用いずに妖人を超えた存在へと昇華し、確かな理性まで残っているとは、全く驚嘆したよ。君の力は充分にわかった。だから、もう終わりにしていいだろう」

「待ってください神野悪五郎」

 清は最早動かすことすら出来ない右腕を庇いながら、神野に訊ねる。

「あなたが妖人を人間に戻す時、妖怪の側はどうなります」

「妖怪は基本的に消滅するよ。意外だな、君が妖怪の心配をするのかい?」

 自嘲気味に笑い、清は頭を押さえて苦悶の声を上げる直人を見遣る。

 清の視線によって自我を取り戻したのか、直人は敢然と身体を起こす。

「我々は――我々は!」

 直人が咆哮する。

「お前の思い通りになど、ならぬ!」

 直人は再び飛び、神野を蹴り上げて吹き飛ばす。

「ほう、まだ戦う気があるのか」

 違う――清は直人の変化に気付いていた。

「直人君、神野悪五郎は及ばずながら僕が足止めしておきます」

 清は覡符を取り出し、いつでも傷口に読み取らせられように身構える。はっきり言ってこれ以上覡符を使うのは不可能だが、牽制の真似事にでもなれば充分だ。

「おいおい、何のつもりだい」

「言ったでしょう、あなたの足止めですよ。さあ直人君、好きなように。君の行く末を決めるのは、君自身です」

 直人が一際大きく吼えた。

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