ラストスパートは止まらない

 何も聞きたくなかったし、何も話したくなかった。

 完全に陽が落ちてからも嗚咽が止まらなかった俺を、おじさんは無理矢理立たせて家まで送り届けた。俺は成すがままにおじさんに歩かされ、家に戻るとすぐに自分の部屋に入り、鍵を閉めて布団を頭から被った。

 俺の部屋には当然岬とシンリュウもいたが、俺は二人には全く構わなかった。

 岬がしきりに俺に心配の声をかけてくるが、全て無視した。

 そして――何よりの苦痛が、俺の耳を襲うあの耳鳴りだった。

 妖人が現れたことを仮面の所有者である俺に知らせ、戦えと急かすあの音。どれだけ耳を塞ごうと、その音は俺の身体の中で響き続ける。

 やっと止まったと思ったが、そうなるとまた別の苦痛が俺を責める。

 清が、妖人を倒したのではないか。

 清は知らない。妖人を元の人間に戻せることに。

 俺は知ってしまった。だからもう戦えない。妖人をこれ以上倒すことは、ただ罪を重ねるだけでしかない。

 だが、俺が戦わずとも、清がその力で妖人を倒してしまう。

 犠牲者は減らない。

 今まで俺は何人の人間を見殺しにしてきたのだろうか。もう数え切れないくらい妖人を倒してきた。

 その罪は俺に重く――果てしなく重くのしかかってくる。

 それだけではない。清が倒すであろう妖人になってしまった人間の命。それを見殺しにしているのは俺の責任だ。

 ならば、今すぐにでも清の許に走り、このことを伝える――そんな気力は俺には全くなかった。

 罪を罪と認めておきながら、既にのしかかってしまった罪に押し潰され、これから先の罪のことなど最早考えることすら出来ない。

 なのに、犯してきた罪のことはしっかりと考えている。ただ後ろへ後ろへと考えが押し流され、溺れていく。そしてそこから抜け出せずに、一歩も前へ進めないのだ。

 耳鳴りが鳴らなくなって、どれくらい経っただろうか。涙はいつの間にか枯れている。一睡もしていないが、目は冴えていた。それは単に眠気などとても覚えられないだけで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

「直人はさ」

 岬の声がした。無視を押し通してきたので、随分前に声をかけてくるのをやめたはずだが、今度の声は心配しているというより、独り言のような調子だった。

「本当は最初から、全部わかってるんだよ」

 また――その話か。

 そんな訳があるか。ならば何故俺は今こうして罪を覚えている。

「どんなことがあったのかは知らない。それでも直人は何も聞かずにいても、答えを知っている。だって、直人は私を助けようとしてくれたんだから」

 駄目だ。何を言っているのかまるでわからない。俺の思考は濁流に溺れ、何も理解出来ない。わかっているのは、ただ、俺の罪だけ。

「じゃあ、もう行くね」

 岬の気配が消えるのと同時に、俺の耳をあの金属音が襲う。どうやら丸一日近く布団の下で固まっていたらしい。

「行く……?」

 岬は――どこに行くというのだ。

「私は逃げも隠れもしない。好きにしたらいいよ」

 外から、岬の声が聞こえる。

 岬が、妖人と相対している。

 布団をはね除け、俺は立ち上がった。

「岬――」

 岬は。

 岬だけは。

「俺がっ!」

 絶対に。

「守らなくちゃならないんだ!」

 思考も、罪も、何もかもかなぐり捨てて、俺は玄関を飛び出した。

「意外だな。戦う気があるのか」

 瓢水子と呼ばれていた妖人が、岬の首を絞め上げていた。

 俺の様子を見て、嘲るように笑う。

「仮面も持たずに飛び出してきたのか。やはり戦意はないと見ていいようだな」

 常に背中に縛り付けてあった仮面は、とうに部屋の隅に放り投げてあった。

 瓢水子は岬から手を放し、耳元で何事か呟く。

 岬はそれを聞くと驚愕の表情を浮かべ、暫くして頷いた。

 そして、俺と向き合う。

「直人、信じてるなんて言わない。私は、知ってるから」

 それだけ言うと、俺に背を向けて歩いていく。

「岬――」

「あの女はもう行った。では、お前を潰させてもらおう」

『五位の光』

 閃光が走った。俺の背中側から光ったらしく、俺は一瞬目が眩んだだけで済んだが、直撃を受けた瓢水子は暫く目を押さえていた。

「全く、何をしてるんです」

 清が赤い羽根を纏った姿で俺の隣に立つ。

「清――」

「シンリュウさんは愛想を尽かして麻子さんのところに戻ってきましたよ。何があったんです」

「そいつは知ってしまったのだ」

 視力が戻ったらしい瓢水子は容赦なく口を開く。

「妖人を、元の人間に戻す手立てがあることを」

「へえ。それがなんだと言うんです?」

 清は、全く動揺することなく笑みを浮かべている。

「清、お前、そんな奴だったのか――」

 俺が怒りに打ち震えそうになるのを、清は一蹴する。

「そんなこと、とうの昔に割り切っていますよ。君はそこまで愚かなんですか?」

 清はやれやれと首を振る。

「岬さんは、やはり君を買い被りすぎだったと言わざるを得ませんね。君は彼女の悲壮な決意にすら気付かなかったというんですか? 当人でありながら、ヒーローごっこに夢中で何も見えていなかったというんですか?」

「知らなかったんだ――妖人を人間に戻せるなんて――それを知っていたら――」

「君は岬さんに何と言いました」

「は――?」

「君は、岬さんを助けると言ったのでしょう。岬さんを助けるということがどういう意味なのか、考えたことがなかったとでも?」

 岬を助ける。岬を守る。俺は最初に芽生えた使命感以外にも、その個人的な想いを最優先事項にしていた。

 だが、今の岬の状態は、妖人と同じ。元の自我がある以外は、妖人と全く同種の存在でしかない。

 それを助ける――元の岬に戻す。それはつまり――妖人を人間に戻す方法を見つけ出すのと同義。

 俺の思考の奔流は、いつの間にかすっかり収まっていた。ばらばらに散らばった事実を拾い集めてみれば、とっくの昔に答えが出ていたことに気付く。

 考えようとしていなかった。岬を助けると決めたのなら、それだけに向かって進めばいいと思っていた。

 だが、その時にはもう、この事実に直面することは明らかだった。それが怖くて、俺は思考を停止していた。

 だから今、こうして苦痛の中にいる。

 だが――。

「お前は全てわかっていたはずだ」

 透明感のある声。

「お前は馬鹿だが、この道理に気付かない程までに愚かではない。本質を見ようとせず、向き合うべき問題と向き合うのを避け続けた。何故今まで避け続けてこられたのかは、お前が本当は最初から全てをわかっていたからだ。岬を助けると宣言した時点で、本来ならば誰であろうとその行為の本質に気付く。それを今の今まで気付かなかったのは、気付いていたことに気付かぬふりを徹してきたからだ。違うか」

 直人――カザクモは俺の名を呼び、口にくわえた仮面を投げてよこす。

 俺はその仮面を掴み、カザクモに向ける。

「随分知ったような口利くのな、お前」

「知っているさ。お前より、よっぽどな」

 目で頷き合うと、カザクモは仮面に吸い込まれる。

「話は終わったか?」

 瓢水子が臨戦態勢を取る。

「ああ。悪かったな、長いこと付き合わして」

 すっと仮面を持った右手を横に伸ばし、一気に仮面を眼前に翳す。

「変身!」

 仮面を顔にあてがうと、全身にエネルギーが迸る。

 狐の面。銀色の光の鎧。腰から伸びる六本の尾。

「さあ――哀れな妖人よ、すぐに終わらせてやろう」

 今の俺の中に流れ込むカザクモの力は、明らかに以前より強くなっている。カザクモの尻尾が六本に増えていたことも関係しているのだろう。

 だが、それ以上に、今の俺はもう、誰にも負ける気がしなかった。

 飛ぶ――消える。

 俺は一瞬で瓢水子の背後に回っていた。身体を動かした訳ではない。意識をそちらに向かわせただけで、俺の身体はその場へと移動していた。

 体重を乗せた横蹴り。瓢水子の身体が前へと吹き飛ぶ。

 もう一度、飛ぶ。

 吹っ飛んだ瓢水子の眼前に現れた俺は、その顎を高々と蹴り上げる。

 瓢水子が空中に上がったところで、両手を広げて構えを取る。六本の尾が花が咲くように広がり、全身を駆け巡るエネルギーが右足へと集中する。

 左足で地面を蹴り、再び飛ぶ。

 跳躍の勢いを残したまま瓢水子の前へと現れた俺は、右足で瓢水子の胸を撃ち抜いた。

「強いな」

 受け身も取れずに地面に落下した瓢水子は、低く笑いながら言う。

「今のお前ならば、どんな妖人にも勝てるだろう。妖人に――ならな」

 くつくつと笑いながら、瓢水子は霧散した。

 がくん、と全身に鉛を飲み込んだような重さがのしかかり、俺は膝を着く。

 仮面が顔から剥がれ落ち、カザクモが辛そうな顔をして俺の前に現れる。

「飛ばしすぎだ、阿呆」

 カザクモが力を付けたことを加味しても、先程の俺の戦い方は滅茶苦茶だった。カザクモの力を引き出す以上に、俺自身の吹っ切れた思いで限界以上の力を発揮していた。

 だが、当然限界を超えた力を出せば、俺とカザクモの身体には限界を超えた負担がのしかかる。

「いや、このまま突っ走る」

 岬を助け出すまでは、絶対に止まれない。

「直人君、恐らく岬さんは四門小学校にいます」

 変身を解いた清は円形と四角形の板が合わさった物を取り出した。

「これは特別製の式盤しきばんで、妖人の居場所を察知することが出来ます。これによると、この地区の中心――ある種の霊場に、複数の妖人の反応が見られます」

 四門小学校は、四つの町で構成される四門地区の、ちょうど中心に位置している。霊場などという感覚は俺にはないが、清の言葉からしてそこが敵の根城だと見ていいだろう。

「行くか」

 重い身体に鞭打ち、俺は立ち上がる。

「直人君、清君」

 後ろから声をかけられ、俺達は振り向く。

 おばさんとシンリュウが、並んで立っていた。

「麻子さん……」

 清が何か言いかけると、おばさんは首を横に振ってそれを制した。

「これが最後だと思う。何故かはわからないけど、わかるの。だから、岬を、お願い」

 おばさんがシンリュウに顔を向ける。

「あなたもお願いね。直人君達を助けてあげて」

「けっ」

 シンリュウは悪態を吐くと、その身体を巨大な龍へと変える。

「乗れ。さっさと行くぞ」

 俺達が背中に跨ると、シンリュウは重力など無視して浮かび上がる。

「それから」

 地上から、おばさんが最後の言葉を俺達にかける。

「みんな、生きて戻ってきて。待ってるから」

 それを聞き終えると、シンリュウは凄まじい速さで飛翔した。

「直人、すまなかった」

 とんでもない速さで飛んでいるはずなのに、シンリュウの上では重力も突風も感じなかった。ただ心地よい風が吹き抜けていくだけで、まるで空を飛んでいる感覚がない。だからカザクモの声も、流されることなく聞こえた。

「何謝ってんだよ」

「妖人を人間に戻す方法がないとお前に言ったのは私だ。お前はそれを信じて戦ってきた。だが――」

「ああ、もういいもういい」

 俺は努めてぶっきら棒に答える。

「お前や岬ならこう言うんだろ」

 最初から全部わかっている。

「自分じゃよくわかんねえよ。でも、今はもう迷いはない。だから、そういうことなんだろ」

 カザクモは小さく笑う。

「少しは自分がわかってきたか」

「うるせえ」

 シンリュウが速度を落とし、地上へと下りていく。眼下にはかつて通っていた小学校。小学校を上空から眺めるなんて経験は多分今後一切ないだろう。

 グラウンドの真ん中に降り立った俺達は、周囲を覆う気配にすぐに臨戦態勢を取る。

「よく来た」

 聞いた覚えのある声。

 スーツを着た、若い女。俺はその姿を知っている。

本間ほんま先生……?」

「それがこの身体の元の名のようだな」

 本間美代子みよこ。一昨年、つまり俺が小学六年生だった頃の担任だった人だ。若いこともあって生徒からは半分舐められ、半分よりもっと慕われていた。教師になって初めて受け持ったのが俺達のクラスだったこともあり、卒業式では人目も憚らず号泣していた。

 だが――今のこの人に、あの頃の面影はない。

「今の私は月窓げっそうと号する。お前達が〝雅号〟と呼ぶもの達の頭目と見做してもらって構わない。そして」

 無数の唸り声。いつの間にか俺達を包囲するように、妖人の群れが出来上がっていた。老若男女揃い踏み。その数は三十は超えている。

「この場にいるのが、残った全ての妖人」

 月窓は俺達に背を向け、妖人の群れの奥に引っ込んでいく。

「そのもの共を全て倒したなら、私が相手をしてやる」

 俺は仮面をカザクモに向け、清は覡符を取り出す。

 カザクモが仮面に吸い込まれ、仮面の形状と紋様が変わる。

 上着を捲くり、生々しい傷口を外気に晒す。

 仮面を翳し。

 覡符を翳し。

 叫ぶ。

「変身」

「変身!」

 白銀の異形と、赤い羽根の異形が並び立つ。

「行くぞ」

 俺は意識を傾け、一瞬で妖人の包囲網の外に移動する。

姥火うばがび

 清が覡符を傷口に読み取らせると、そこから炎がまるで洪水のように溢れ出した。炎の激流は妖人達を蹂躙し、包囲網の意味をなくさせる。

 俺は構えを取り、両足にエネルギーを集中させる。

『不知火』

 清の周りに漂い始めた炎に手を入れ、引き抜くと刀が現れる。

鎌鼬かまいたち

 刀の周りに、空気が渦を巻く。

 俺の腰で張り詰めた六本の尾が、一つずつピンと上を向く。

 清が刀を振るうと、無数の空気の刃が次々と妖人達を斬り伏せていく。

 俺は炎に灼かれた妖人の群れの真ん中に意識を向け、身体をそこに移動する。

 一つ。突き蹴りで目の前の一体を。尾が一本緊張を止めて風に靡く。

 二つ。背後から迫る妖人を、振り向くこともせずに後ろ蹴りで撃ち抜く。

 三つ。纏まった五体の妖人を、絡め取るように回し蹴りで。

 四つ。右から迫る妖人を飛び蹴り。その衝撃は他の妖人達まで巻き込みながら貫く。

 五つ。そして六つ。大きく飛び上がり、纏まった妖人目がけて両足で落下しながら蹴り抜く。

 六本の尾が全て緊張を解くのと同時に、攻撃を加えた妖人達が一斉に霧散する。だがまだ妖人は相当数残っている。

 今のは謂わばフィニッシュの小出し。この行為は想像以上に俺を消耗させていた。

「カザクモ、代われ!」

 シンリュウの声にはっとして、仮面を剥がす。カザクモが外に飛び出るのと同時に、飛びかかってくるシンリュウに仮面を向け、そのまま眼前に龍の面を翳す。

「変身!」

 仮面を顔にあてがうと、新しい強大な力が身体中を沸騰させる。

「っしゃオラァ!」

 青い鱗の装甲に覆われた異形へと姿を変えた俺は、それまでの消耗など意に介さず妖人の群れに突っ込んでいく。

 両手の鉤爪で迫る妖人を片っ端から薙ぎ倒す。

 清が刀を払い、手放す。再び炎となって清の周囲を旋回する。

 新たな覡符を取り出し、傷口に読み取らせる。

頽馬だいば

 清の右手に電光が走る。その手を引き、一気に突き出す。巨大な稲妻が妖人達を貫いた。

「そろそろ終いだ!」

「そのようですね」

 鱗が逆立ち、肩から一対の風切りが伸びる。

『波山』

 清の身体を覆う装甲が一対の翼となって広がる。

 同時に飛び上がった俺達は、残り少なくなった地上の妖人へと睨みを利かす。逃げ場がないことを悟った妖人達はその場に釘付けになる。

 清の身体は炎に包まれ、火の鳥となって、俺は高速で回転しながら、錐揉み状態で、地上の妖人達を吹き飛ばしていく。

 地上に降り立つと、既に月窓以外の妖人は全て消滅していた。

 流石に無茶をしすぎたのか、清も俺も一度変身を解く。

「ぐっ――」

 清が右腕の傷を押さえてうずくまる。

「流石に、覡符を使いすぎましたか――」

 苦悶の声を上げ、身を捩って必死に痛みを堪えているようだった。

 かく言う俺も、続けざまにカザクモとシンリュウの力を引き出したことで、想像以上の負担がかかっていた。

 だが、こうでもしなければあの大群の妖人達を殲滅するなど不可能だった。少しでも気を抜けば、すぐさま袋叩きを食らわされる。常に全力全開で突っ走り続けなければ、こっちがやられていた。

「さて」

 月窓は音もなく、俺達の前に歩み出る。

「では講堂へと来い。そこに、あの女もいる」

 四門小学校の講堂は今の校舎が建つ前から残っている、ゆうに築百年を超す歴史的建造物だ。

 俺はなんとも思わなかったが、あの講堂で集会が行われるのを嫌悪する生徒も結構な数いた。古い建物特有の臭いや、独特の雰囲気がなんとも言えない厭な感じを与えるのだという。

 清の言葉によればこの土地自体が霊場だそうだし、そこに古くから建つ大きな建物というのは、何か特殊な「場」を持っているのかもしれない。

 しかしまあ――最終決戦にはもってこいの場所だと、俺は妙に納得した。

 月窓は無音で滑るように講堂の中に消えていく。早く行かなければ岬が危ないかもしれない。俺はカザクモや清達と頷き合い、凄まじく重い身体を無理矢理立たせて中に向かった。

 講堂の中の空気は、夏の終わりとはいえ明らかに冷え切っていた。この建物には冷房なんて上等な物は付いていない。

 もうすぐ完全に陽が沈む時間帯だが電気は点いていないので、かなり薄暗い。

「見事だ。想像以上だよ」

 月窓のものでも岬のものでもない、男の声がステージの上から響いた。

 薄暗いが外で戦っていたこともありもう目は慣れている。男の姿を見た俺は、はっと息を呑む。

「あんたは――」

「何故お前がここに!」

 俺が驚愕の声を上げるのと同時に、カザクモもそれ以上の驚愕の声を上げた。

 ステージ上には、まるで年齢のわからない不思議な男が立っていた。

 あの時の――妖人を人間に戻してみせた男だ。

 男の後ろには、月窓が岬と並んで立っている。

「岬!」

「私は大丈夫!」

 外傷もなく、元気そうな声に一旦胸を撫で下ろす。

「あんた――何者だよ」

 ただの人間でないことは明白だ。

 男は穏やかに笑いながら、カザクモを見下ろす。

「お前から教えてやってはどうだい、カザクモ」

 カザクモは明らかに動揺していた。いつも冷静沈着なこいつがここまで狼狽していることからも、男が並大抵の相手でないことがわかる。

「奴の名は神野しんの悪五郎あくごろう。妖怪だ」

「正しくは『大妖怪』だ。悪かったね、黙っていて」

 どこか茶目っ気のある調子で笑う。

「神野悪五郎――二人目の魔王ですか――」

 清の呟きに、神野は愉快げに微笑んだ。

「何故だ、何故お前が今になって出てくる。姿を消して随分経つというのに――」

「ああ、まだ気付かないか。簡潔に言えば、妖人を生み出していたのは私だよ」

「なっ――」

 全く悪びれる様子もなく、それどころか柔和に笑って言ってのける。

「なんで――そんなことを!」

「なんで――か。そうだなあ、消え行くしかない妖怪共を哀れんでやったからかな――うーん、どうも違う、しっくりこないなあ。人間の奥底が面白いと思ったからかな――うーん、これもしっくりこないなあ。そうだな、少年、妖人は何故生まれると思う?」

 ふざけた質問だが、神野の言葉には有無を言わさぬ力だあった。

「妖怪が、人間に取り憑いて――」

「妖怪が人間に取り憑くなんてことは、昔からよくあることだよ。そのカザクモもそうだったんだから。私がそそのかしたのは、己の存在が刻一刻と消えようとしている癖に、自分達が消えることを許せない、なんとも馬鹿な妖怪だ。そんな妖怪達に、人間の身体を乗っ取ってみてはどうかとアドバイスをしてやる。すると連中は我先にと人間の身体を求めて飛んでいった。だがね、人間の身体なんて乗っ取れるものじゃない。それを知らずに連中は人間の奥底へと潜り込んでいく。人間の奥底は――何だと思う?」

 急にそんな質問をされ、俺はたじろぐ。神野はそれを見越していたらしく、俺の表情を見て口元を緩め、すぐに答えを明かす。

「闇だよ。いや、世間で言うところの心の闇だとかいう抽象的な意味じゃない。君は自分の中の、どこまで沈んでいける? 自分というものを果たしてどこまで理解出来る? 人間の深層など、本人は疎か誰にだってわかるものじゃないのは自明の理だ。そこはブラックボックス――どうしようもない闇なんだよ。そして、妖怪が、そこに踏み込んでしまった。消え去ろうという不確かなものが、果てのない不確かなものに触れ、それは際限なくその人間を侵していく。互いに己の存在を見失い、どこまでもどこまでも膨れ上がり、弾ける。そして、妖怪の意思も人間の意思も失った、哀れな怪物が生まれてしまうという訳だよ」

 神野は別段何の感慨もなく、淡々と言って聞かせるように話した。

「そんな訳で、私はこれでも責任を感じているんだ。だから、妖人に対抗する力を人間に与えておいた」

 神野はそこでにやりと笑う。

「その仮面も覡符も、私が作ったんだよ。仮面は山本の奴に、覡符は人間の間に流し、しかるべき者の許に行き着くことを願ったが、なかなかどうして素晴らしい者に辿り着いたようだね」

「あんた、妖人を人間に戻せるんじゃないのかよ」

 俺の言葉を聞くと神野はおっとそうだったとおどけてみせる。

「そうだな、私が君の前で妖人を人間に戻してみせたのは――その時私が自分の正体を明かさなかったのは、何故だと思う?」

「まさか――」

「まあ、早い話が少し意地悪がしたかったのさ。妖人を人間に戻す方法があると知って、今まで妖人を倒してきた君がどんな反応を見せるか。ああ、我ながら趣味が悪くて厭になるなあ」

 俺は何も言わない。

「厭になるついでに、もう一つ意地悪をしてみようか。知っての通り私には妖人を人間に戻す力がある。それはイレギュラーな状態である彼女にも同様だ」

 月窓が岬を神野の前に引っ張っていく。

「無論、それはこの月窓にも同じことが言える。この身体は、元は君の恩師だそうじゃないか」

 月窓は表情を変えず、神野の横に控える。

「だが、両方とも元に戻すのはあまりに人が好すぎる話だ。だからこうしよう。君が月窓を倒せたなら、彼女を元に戻す。または――」

「そうかよ」

 俺は仮面をカザクモに向ける。

「――話は最後まで聞いてもらいたいが」

「関係ねえな。俺は岬を助けたい。それが他の人達を助ける手立てを潰すことだろうと、俺はこの目的を曲げるつもりはない。絶対にない。わがままだってことはよーくわかってる。けど、ここまで来たなら、どんな罪を背負っても、どんな思いをしようと、俺はこのわがままを貫き徹すだけだ!」

 カザクモが仮面に吸い込まれ、狐の面へと変わる。

「そうか」

 神野は満足げに頷いた。

「いい答えだ。君が仮面の所有者に選ばれてよかったよ。月窓、相手をしてやりなさい」

「御意」

 月窓がステージから飛び降り、俺と対峙する。

 清が覡符を取り出すが、右腕の激痛に苦悶の声を上げる。

「休んでろ清。こいつは俺がやる」

 仮面を翳し、

「変身!」

 叫ぶ。

 身体中を駆け巡るエネルギーで、それまで身体を支配していた疲労感が吹き飛ぶ。

「さあ――哀れな妖人よ、すぐに終わらせてやろう」

 白銀の異形へと姿を変えた俺は、意識を月窓の背後へと向ける。

 そこへと瞬時に飛び、上段蹴りを背中に叩き込もうと足を振り上げる。

 だが、月窓はそれにタイミングを合わせ、右手を背中に回して俺の蹴りを受け止める。

 凄まじい力で足首を掴まれ、力任せに投げ飛ばされる。

 俺は空中で意識を月窓の一歩前へと向け、そこへ飛ぶ。一度着地してから軸足にぐっと力を込め、間髪入れずにまた意識を月窓の右側に向けて再び飛ぶ。

 今度は予備動作もなく、移動した瞬間に既に蹴りを放つ。

 月窓は右手でそれを受け止めるが、完全に動きを止めることは出来ず、弾くだけに止まった。

 その場で蹴った足を軸足にして第二撃を放つ構えを見せる。月窓は全身で身構えるが、それが俺の狙いだった。

 足を振り上げる途中で、意識を月窓の正面へ向ける。

 無防備となった腹を、勢いを乗せた蹴りで撃ち抜く。

 ――止まるな!

 少しでもこの流れを止めれば、その途端に凄まじい負担が俺にのしかかる。一瞬でも止まれば、その時点で全てが瓦解する。

 息を詰まらせた月窓をその足でもう一度蹴り上げ、連続で回し蹴りを叩き込んでいく。

 それと同時に、俺の腰の尾が徐々に広がる。

 どうやらとうに限界を超えていたらしい。いつもなら集中すればすぐに張り詰める六本の尾がなかなか応えてくれない。それだけ俺の中の力が燃え尽きかけているのだ。

 拳の連打を撃ち込みながら、必死に集中してエネルギーを一点に集める。

 ――まだか――。

 右手を大きく引いて拳を放つと、それを待っていたかのように月窓が掌でそれを受け止め、拳を砕かんばかりに握る。

「しまっ――」

 月窓の蹴りが俺の腹に決まった。

 吹き飛ぶことは掴まれた手が許さない。息を詰まらせた俺に、月窓はさっきまでのお返しとばかりに蹴りを連続で撃ち込む。

 光の鎧が剥がれ落ちていくのがわかった。月窓もそれに気付き、剥き出しとなった俺の身体にさらに蹴りを浴びせていく。

 身体が引き千切れそうな衝撃に加え、動きを止められたことで今までの負担が容赦なく俺の身体を圧し潰す。

 朦朧とし始めた意識の中、その意識を、無理矢理後ろに向ける。

 ――飛べ!

 俺の身体は月窓から距離を取った位置へと移動する。

 どうやら――これが本当に最後らしい。少しでも気を抜けば全身がバラバラになりそうな痛みと疲弊が駆け巡る。

 仮面が顔から剥がれ落ちそうになるのを、俺は手で押さえて止めた。

 もう少し――もう少し持ってくれ。

 身体の光の鎧はあちこちがぼろぼろと剥がれ落ち始め、手を放せば仮面も顔から落ちるだろう。

 だが――まだだ。

 月窓が音もなく俺の眼前に迫る。

 とどめを刺しにきた訳か――顔を上に向けるだけで悲鳴を上げる身体を、ぐっと強張らせる。

『天火』

 電子音が響くと、月窓の身体を火の弾が襲う。

「直人君!」

 月窓はわずかに怯むが、ダメージは受けていないように見える。

 だが――これで充分。

 俺の腰の尾は、既に完全に張り詰めていた。

 立ち上がりながら、エネルギーの集約された右足を振り抜く。

 月窓の顎を撃ち抜いたのと同時に、俺は糸が切れた人形のように倒れる。

 仮面が落ちるのと同時に、月窓は霧散した。

「助かった――清」

 床に身体を預けたまま、何とかそれだけを口にする。

 清のことだから、俺の尾が張り詰めていたことに気付いて、一瞬の隙を作るために攻撃を放ったのだろう。完璧なタイミングだった。

「いやあ、素晴らしい。月窓は今まで生まれた妖人の中で最も強い力を持っていたが、それを一人で倒してしまうとは。さて、約束だ」

 満足げに笑いながら、神野は岬の頭に手を当てる。すっと手を引くと、岬は力なく倒れていく。

「おっと」

 神野は優しくその身体を受け止めた。

「う……ん」

「岬?」

「もう彼女は元通りの人間だよ。立てるかい?」

 岬は用心深く頷いて、神野の手を離れてステージから降り、俺の許に駆け寄ってくる。

「直人――」

「平気か?」

 床にうつ伏せで倒れたまま、全身の力を振り絞って顔を上げる。

「うん――ありがとう。それと、ごめん――」

「気にすんな」

 俺は力なく笑って、顔を上げているだけの力も失った。

「もう動くだけの力もないようだね。カザクモもそのようだ。うん、実に好都合だ」

 神野がこちらに歩いてくる足音が聞こえる。

「妖人は今後一切生まれないと断言しよう。妖怪達もその危険性を充分に理解しただろうから、あんな馬鹿な行動を起こすものは二度と現れないはずだ。実を言うと最後の方は私が無理矢理妖怪を人間に取り憑かせて妖人を作っていたんだ。という訳で、その最終段階に移るとしよう」

「何を――!」

 カザクモの声。

 神野はうつ伏せの俺を優しく仰向けに寝かせ直した。見上げると、神野は片手でカザクモを抱きかかえていた。

 俺の身体に、カザクモの毛並みが触れる。

「カザクモ、お前も元は〝流出〟――溢れ出した畏怖や信仰の顕れだったな。今はその名を得て存在を確立しているが、お前の本来の性質は〝流出〟でしかない」

 神野は柔和に笑いながら、カザクモの身体を俺の身体に押し当ててくる。

「さあ、今まで共に戦ってきた。心を一つにしてきた。そんな君達が仮面を媒介せずに一つになるとどうなるのか、私に見せてくれ」

 抵抗するだけの力は俺達にはもう残っていない。

「やめろ――」

「心配すんな、カザクモ」

 俺はにっと笑ってみせる。

「俺とお前だ。きっと、どこまでも行ける」

 最後に、カザクモも笑ったような気がした。

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