そいつは突然やってくる

 俺は、夕方が好きだ。

 これはなんというか、どうしようもない性なのだと思う。

 残酷なまでの光で大地を焦がす太陽が、徐々に力を失って傾いていく。ふと気付くと、さっきまで直視出来ない大きな顔をしていた太陽が、真っ赤に染まって地平線に沈んでいく。空は赤く染まり、昼でも夜でもない酷く曖昧な世界が、全体で見ればほんの一瞬だけ姿を現す。

 その刹那の空気が、俺は堪らなく好きだった。

 だから、夏は嫌いじゃない。

 太陽がいつまでも居座るということは、それだけ夕方が長引く。暑いのは本当に困るが、それも夕方になれば落ち着いていく。夏休みもそろそろ終わろうかというこの頃になると、夕方に吹く風は熱気だけでなく、ほんのり秋の気配も感じさせてくれる。

 わかっている。今の俺にとって夕方以降は戦いの時間だ。妖人が現れるのは夕方から夜にかけて。そんな中で悠長に風流を味わっているのは馬鹿のすること。

 なら俺は馬鹿か。

 清なら真正面から馬鹿と言いそうだな――俺は力の抜けた笑みを小さくこぼす。

 俺は今、人気のなくなった近所の大きな公園のベンチに一人で腰かけていた。

 夕方の空気を味わうには、絶対に一人に限る。これは俺の譲れないこだわりだ。

 だからここには、岬もシンリュウもいない。ほんの少しだけ、この刹那的な空気を堪能しに、誰にも悟られずに一人でここまで来たのだった。

 夜気を微かに帯び始めた空気を、肺一杯に吸い込む。大きく吐き出すと、ぶるっと身震いをする。全身が夕方の空気に歓喜しているのだ。

 何故夕方ってやつは、ここまで心を震わせるのだろうか。今まではずっと妖人との戦いばかりで、夏の夕方の情緒を充分に味わうことが出来ずにいた。

 来てよかった。昼間は子供達で溢れていただろうに、今は俺しかいない公園。この舞台もまた憎い。

 しかし――いい加減に帰った方がいいだろう。本当は完全に陽が暮れるまでここでこうしていたかったが、一人で勝手な行動を取ったことを責められるのは困る。

 カザクモがいたら、きっとつんと澄ましながら俺を罵倒する。

 そんなことを思ってしまい、立ち上がりかけた腰を硬いベンチに据える。

 カザクモはまだ帰ってこない。〝雅号〟に対抗するための力を付けに姿を消したそうだが、ひょっとすると――厭な考えが頭に浮かぶ。

 シンリュウの力を借りた俺は、〝雅号〟を一体倒している。カザクモはそれを知って、自分の出る幕はないと決めて完全に姿を消してしまったのではないか。

 そう思うと、俺はどうしようもない寂寥感に襲われてしまう。

 俺は、自分が思っていたよりずっと、カザクモのことを大切な存在だと思っていた。

 カザクモはいつの間にか俺の非日常へと突入した日常の一部になっていた。そもそもカザクモとの出会いが、俺がこの戦いへと飛び込むきっかけになったのだ。

 岬やシンリュウの存在は勿論大きい。だからカザクモがいなくなったことにそこまで大きな衝撃を受けずに済んだ。だがそれはやはり一時的なもので、こうしてカザクモが帰ってこないことと、もしかするともう帰ってこないのではないかという不安を覚えると、俺はどうしようもなくなってしまう。

 だが――俺はそこで逃れられない結末へと辿り着く。もしも妖人を全て倒し、これ以上妖人が現れることがないとわかったのなら、俺はカザクモと別れなければならないのではないか。

 仮面はある意味では、恐ろしく危険な存在だ。妖人と同じ、「人間でも妖怪でもない存在」を自発的に生み出してしまう。

 カザクモがあそこまで清を敵視したのも、同じ理由だ。

 だから、必要がなくなった仮面は、破棄しなければならない。

 そうなれば、俺は「見る」力を失う。もう二度と、カザクモやシンリュウと話すことは出来なくなる。

「――ん?」

 何か、大事なことを忘れていないか。だが俺の思考はそこで止まってしまった。そこから先を考えることは、どうしても出来ないのだった。

 金属を擦り合わせた耳鳴りのような音。

 はっとして俺は立ち上がる。妖人が現れた。仮面はいつも通り背中に縛り付けてあるが、今はシンリュウがいない。

 場所は――近い。

「おおおおお――」

 地の底から響くような唸り声。

 ベンチのすぐ隣に、若い男の姿をしたそれはいた。腕を振り上げ、俺に迫る。

「クソっ――」

 逃げられない。

「危ない!」

 誰かの声がして、俺は大きく横へ転がった。

「大丈夫かい?」

 俺の顔を覗き込んでいたのは、まるで年齢のわからない不思議な男だった。どうやらこの男が俺を抱きかかえて横に跳んで妖人の攻撃をかわしてくれたらしい。

 ということは、つまり――。

「見えるんですか?」

 俺が訊くと、男は驚いたような表情を見せながら頷いた。

「ということは、君も見えるんだね」

 男の言葉に今度は俺が頷く。

 男はすっと立ち上がり、妖人と向き合う。

「そいつは――」

 俺が注意を促そうとするのを、男は手で制した。

「わかってる。私は対処法を心得ている。心配はいらないよ」

 この男も俺や清のような力を持っているというのか。

 だが男は特に変わった素振りを見せず、じりじりと妖人との距離を詰めていく。

 妖人が拳を振るうと、男はそれを無駄のない動きでかわし、妖人の頭に手を押し当てる。

 ぐっと力を込める動作をすると、一気にその手を振り払った。

 妖人は何故かガクガクと震えてその場にくずおれた。

 男は大きく息を吐いて、もう大丈夫だと笑った。

「あれ? ここは……?」

 妖人が言葉を発した。俺ははっとして身構える。

「何言ってんですか! そいつ――」

「大丈夫だよ。よく見てごらん」

「あの、ここ、どこっすか?」

 若い男は、まるで訳がわからないというような様子で首を傾げている。その顔に先程までの狂気は全くない。

 男は丁寧に現在地を説明し、若い男はきょとんとしたままだったが礼を言って去っていった。

「これは――どういう――」

「私は妖人となった人間を元に戻しているんだ」

「は――」

「妖人を倒すなんていう非人道的な行いをしている者がいると聞いてね。妖人は、人間に戻すことが出来るんだよ」

 思考が荒れ狂う奔流のように脳内を蹂躙していく。

 駄目だ――考えてはならないところを考えている。いや、事実が、厳然たる事実が目の前にあるではないか。

 ――妖人は、人間に戻せる?

 それは喜ばしいことなのか。いや――

「もしも妖人を倒すなんてことをしている者がいるなら、それは殺人と変わらない」

「あ――」

 まるで俺の思考が決して辿り着いてはならないところから俺を引っ張るかのように、男の言葉は俺を連れ去っていく。

 殺人。

 俺のやってきたことは、殺人。

「どうしたんだい? 顔色が――」

 男は俺のことなど知らない。だから優しく心配してくれている。

 何も知らない男の前にいるということが、俺にかろうじて正気を保たせてくれていた。

「大丈夫、です」

 声は震えに震えていた。

 男は怪訝な顔こそしたが、それ以上は何も聞かずにいてくれた。

「直人?」

 聞き覚えのある声。

「おじさん――」

 岬の父親、川島匠が、スーツ姿でこちらを見ていた。

「何してるんだ一人で」

 俺の様子が尋常ではないことに気付いたのか、おじさんは公園の外のアスファルトからグラウンドになっている地面の方へと足を運ぶ。

「おい――」

 四六時中仏頂面のおじさんのその顔を見ると、もう駄目だった。

 涙が止め処なく溢れる。声は出ない。胸が詰まり、声にならないのだ。

 地面に倒れ、握り拳の間に頭を埋め、嗚咽を漏らす。涙で濡れた土が顔に貼り付く。口の中にも小さい砂粒が入り込んでくるが、そんなことはもうどうでもよかった。

 おじさんは何も言わず、恐らくはずっと仏頂面で俺を見ていた。

 年齢不詳の男はいつの間にかいなくなっていた。

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