魔王と取り引き

 随分と――大物に目を付けられたものだ。

 清はすぐにでも上着の裏側に仕込んだ覡符を抜き出せるように意識を研ぎ澄ましながら、正面から悠然と向かってくる男に視線を送る。麻子の家を出て少し歩いている最中のことである。まだ陽は落ちておらず、夕暮れにも遠い。妖人が現れる時間ではないし、清の持つ呪具にも反応はない。

 恰幅のいい身体に裃を見事に着こなす気品。刀も差していないし髷も結っていないが、違和感なく感じられる。

「何者ですか」

 気配だけでわかる。この男はただ者ではない。

 男は厳めしい顔つきで懐手をして、じっと清の顔を見る。

 睨み合い――邪視か。清が負けずに見つめ返すと、暫くそのまま固まった後、男はふっと口元を緩めた。

 それで意気を削がれ、清は目を逸らす。

「私は山本さんもと五郎左衛門ごろうざえもん。妖怪だ」

「魔王――ですか」

 清が呟くと、山本はほうと嘆息を漏らす。

「知っていたか。私は妖人の発生について憂慮している。それで、あの仮面を阿瀬直人に託した」

「へえ、あなたが仮面を作ったという訳ですか」

「いや、作ったのは私ではない。随分前から雲隠れした同列の者がいてな。その者からいつの間にやら送られてきた。私もまた託された側なのだ」

 さて、と山本は再び厳めしい顔つきに戻る。

「君は自分の力が如何様なものか理解しているか」

 今度は清が口元を緩める番だった。

「ええ、十二分に理解していますよ。あなた達のようなものを、一方的にぶちのめすことが出来る力です」

 射竦めるような目。

 清はかなりの時間、心臓が止まったような切迫感に襲われた。実際、息をすることさえままならなかった。

 山本が視線を寄越した。それだけで清は戦意喪失――いや、恐慌状態に陥った。

 勝てない。

 変身して妖人と等しい存在になろうが、この男には勝てない。その確信がふつふつと湧き上がる。

「妖怪は――なんだってこんな……!」

 敗北感をひしひしと味わった清は、逆に頭に血が昇り始めていた。

「いつだってそうです。妖怪は人間のことなどお構いなしに、好き勝手に暴れ回る。それで人間を傷付けようが、知ったことじゃないんです。僕が、この傷を受けたのも……!」

 右腕の上着を捲くり上げる。癒えることもなく、疼き続ける呪傷。

「その傷、治してやろうか」

 一瞬呆気に取られて清はぽかんんと口を開いた。

「聞こえなかったか。治してやると言ったのだ」

「治せるん――ですか?」

「ああ。見たところ相当複雑な呪傷のようだが、私を誰だと思っている」

 安野にも麻子にも、二人が知る限りの同業者達にも、この呪傷を治すことは出来なかった。

「その傷がなければ君は妖人と同質にはなれない。そうだろう? ならばそれを塞いでしまうことが、我らにとって最も心安らかな手段なのだよ」

 清は思わず一歩前に出ようと足を浮かせる。だが、すぐにその足を地面に下ろした。

「それは――妖人を全て片付けてからで構いません」

「ほう、それがいつになるかはわからんのだぞ? それでも構わないと?」

「ええ。妖人を直人君一人に任せるのは些か心配でしてね」

「ならば取り引きといこうか。君はその力を妖人にだけ行使する。もしも妖怪に向かって行使したならば、私はただちに君の傷を治す」

「随分慈悲深いんですね」

 清を殺すという手段もあったはずだ。それを清の長い間の願いだった傷の治癒に置き換えるというのだから、慈悲深いどころの話ではない。

「これでも魔王を名乗っている。そのくらいの情けはかけてやろうというものだよ」

「なるほど。わかりました。取り引きといきましょう。それに加えて」

「妖人を全て滅ぼした時は、無論君の傷を治す」

 清は頷いて、捲くり上げた上着を元に戻す。

「それと、最後に一つ訊いてもいいですか?」

「なんだ」

「何故、直人君を選んだんです」

 山本は苦笑して、

「仮面の意思だよ」

 と言った。

「私は最初、麻子に仮面を託そうとした。彼女とは古い知り合いなのだ。その強い霊力は私も承知している。だが、彼女は適合しなかった。それで家を出てどうしたものかと悩んでいると、仮面が独りでに私の懐から落ちたのだ。それを拾ったのがあの少年だった。それだけだ」

「それだけ――ですか」

 だが、それはあまりに酷ではないか。少なくとも中学二年生の少年が背負うべきではない重荷が、今にも直人を圧し潰すかもしれない。

「不安か?」

 山本に訊かれ、清は押し黙る。

「あなたは、岬さんには手を出さないんですか?」

 暫しの沈黙の後、清はこう切り出した。

 岬もまた妖人と同質の存在。それを放置することはあまりに危険すぎる。清は本気で自分が岬を殺さなければならないのかと悩んだことさえある――いや、今も常に悩み続けている。

 だが、小さな頃から付き合いのある妹のような立場の岬を手にかけるという踏ん切りが清にはつかない。結局情に流されてしまう己を恥じ、同時に安堵している。

「そうだな、希望がないとは言えない」

 希望。それはある意味での絶望だ。

 山本もそれは当然わかっている。だから苦々しげに呟いた。

「直人君は、何もわかっていない。今の僕達の懸念がまるで頭にない。そんな人に、仮面を託したんですか」

「言っただろう、仮面の意思だ」

 山本は懐から手を出すと、話はこれまでだと言わんばかりに腰の辺りを手で払った。

「では、取り引きのことは承知だな。また会おう、安野清」

「ええ、再会出来る時を心待ちにしてますよ、山本五郎左衛門」

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