同居人は狐となんだかよくわからないもの

 岬が俺の部屋に居着くことになってから、前のように昼日中に妖人が現れるということは今のところなかった。

 とはいっても、岬が身を寄せてからまだ一日しか経っていないのだが。

 月曜日の朝、俺は目を覚まして思わず肝を潰した。俺が寝ているベッドの隣に、同じ目線の高さで岬が寝ていたのである。

 最初はベッドを岬に譲ろうとしたのだが、遠慮したのか、男子中学生の寝ているベッドなどではとても眠れないと拒否反応を起こしたのか、来客用の布団を床に敷いて寝ると言い張った。

 俺も自分のベッドを明け渡すのは少々やましいものがあったので、それを了承した。

 ベッドは当然床よりも高くなっており、床で寝ているはずの岬と目線の高さが同じということはありえない。

 もしや俺が寝ている間に岬がベッドに潜り込んだのではないかとぞっとするが、恐る恐る身体を岬の方へ蠢かすと、即座に床に落ちた。

「ぶへぇっ」

 背中から床に落ち、情けない声を上げると岬がくすくす笑う声が上からした。

「おはよ。直人」

 どうやら俺が目を覚ました時にはもう起きていて、目を瞑って寝たふりをしていたらしい。いや、それにしても、これは――

「お前――浮いてんのか?」

 岬は支えるものが何もない空中で仰向けに――今は俺の方へと身体を向けたからうつ伏せか――寝ていたのである。

「どうもそうみたい。ほら、すいーって」

 言葉通り『すいー』と表現するしかない優雅な動作で、岬は空中を飛行する。

「それに見て」

 岬は俺の目の前まで滑空すると、右手を思い切り俺の顔に突き出した。

 思わず目を閉じ衝撃に備えるが、何の感触もない。ゆっくり目を開けると、俺の額を岬の細い腕が貫通していた。

「うわわわ! なんだよこれ!」

 肘の辺りまでが俺の顔の中に沈んでいるから、手先は後頭部まで出ているだろう。だというのに何の感覚も伝わってこない。

 岬は素早く手を引き抜き、笑いながら謝った。

「ごめんごめん。いやー私もこんな身体になったからには楽しまなくちゃって思って、何が出来るか色々試してみたの。まず、地面からあんまり離れなかったら飛べる。そして、ほら」

 岬は頭をベッドに叩きつける。するとそのままベッドを通り抜けて、首から上がすっぽりベッドにめり込んでしまった。

 その勢いのまま身体を宙に浮かせて一回転し、床まで通り抜けて元の体勢に戻った。

「ベッドの下にエロ本はなし」

「おい」

 また笑いながら謝る。

「冗談だよ。ご覧の通り、大体何でもすり抜けられる。なんていうか、幽霊みたいでしょ」

「ああ――うん」

「ごめん」

 今度は声の調子を落としてだった。

「気持ち悪いよね。本当にもう、全然人間じゃないんだから」

「それは違う!」

 俺は思わず声を荒らげる。

「お前はお前だろ。何があろうとお前は俺が守るっつたろうが。心配すんな。絶対元に戻してやるから」

 俺が大真面目な顔で言うと、岬は暫く呆気に取られたようになっていたが、すぐに声を上げて笑い出した。

「もう、そんなに思いつめなくてもいいって。このままでも気楽でいいし、試験もなんにもない――ってやつで」

 直人がいるしね――と笑いながら付け足す。

「そういえば今日部活は?」

「うおっ! やべえ遅れる!」

 時計を見てぎりぎりの時間だと気付く。

「岬、ちょっと外出ててくれ。着替える」

 はいはいと心得た様子で岬はドアをすり抜けて外に出る。

 大慌てでジャージに着替え、ラケットバッグを持ってドアを開ける。

「岬」

 階下には聞こえない大きさで呼ぶと、岬はドアと天井の間からふわりと降りてきた。

「なに?」

「とりあえず、お前は俺から離れないのが絶対だ。ということで、退屈かもしれないが部活についてこい」

「まあどうせ直人にしか見えないし、退屈は我慢すればいいし、全然オッケーだよ」

「ならば私も行こう」

 部屋の隅で丸まっていたカザクモがいつの間にか俺の後ろに四足で立っていた。

「え、なんでお前まで」

「いざという時に私が近くにいなければお前はどうしようもない。それに、岬の話し相手くらいにはなってやれる」

「わあ、ありがとうカザクモー」

 目線をカザクモに合わせてにっこりと笑う岬。

 という訳で、俺が即行で朝食を平らげてから、俺と岬、カザクモは家を出た。岬は上機嫌で、スキップをしながらどれだけ高く飛べるか試したり、俺の周りをびゅんびゅんと飛び回ったりとお楽しみだった。

 対するカザクモは始終険しい顔つきで、遊び回る岬を不機嫌そうに眺めていた。

 俺も俺で岬がずっとこの調子では大変だ。周囲に人がいないことを再三確認してから、岬に少し落ち着けと声をかける。だが、それはカザクモによって遮られてしまった。

「好きなようにさせておいてやれ」

「なんだよ、お前だって鬱陶しそうな顔してたのに」

 カザクモは重々しく溜め息を吐く。

「そう受け取ることにしたのか。いつになったらお前のその癖は治るのだろうな。奥底ではすっかりわかっているだけに、気付かないのだから性質が悪い」

「なに言ってんだ?」

「岬はあれで不安なのだ。明るく楽しく振舞ってお前と自分を取繕っているだけだ」

 そういうものなのかと俺は口を噤む。やはり俺だけにしか認識されないのでは心許ないのだろう。

 学校に着いてからは、岬は俺の目の届く範囲でカザクモと戯れていた。戯れて、とは言ってもカザクモが岬の無邪気な遊びに付き合うはずもないので、岬は体勢を自在に変えながらカザクモと何か話しているだけだった。一人で延々はしゃぎまわる程岬は子供ではないのだ。

 昼前に部活が終わって、周囲に人がいなくなったのを見計らって岬に声をかける。

「帰るぞ」

 うんと頷いて、岬はふわりと浮かび上がる。

「で、何話してたんだ?」

 声が届かないであろう範囲に岬がいる隙にカザクモに訊いてみる。

「ただの世間話だ」

 狐が世間話をするのかと首を傾げたが、岬が近くに戻ってきたのでこれ以上訊くのはやめておいた。

 夕方になり、俺は密かに緊張する。妖人が活動を始める時間帯。また岬を狙う奴が出てくるのではないかと冷や汗が滲んでくる。

 そこに、金属を擦り合わせたような音が響いた。

「出やがったな!」

 意識を集中させ、妖人の気配を探る。場所は――ここからは遠い。

 とりあえず岬を狙ったものではないと安堵する。仮面を掴み、カザクモと目で合図をする。

「妖人が出た。お前もついてこい」

 カザクモが言うと、岬は生唾を飲み込んで神妙に頷いた。

 家を飛び出し、カザクモと並んで走り出す。遠いとは言っても、走ればそれ程の距離ではない。

 だが、走っている途中で俺は足を止めた。それはカザクモも同じで、耳をぴんと立てて神経を研ぎ澄ましている。

「消えた――」

 俺の後ろを走っていた岬だけは訳がわからないようで、立ち止まった俺達を不思議そうに眺めている。

「どうしたの直人?」

「妖人の気配が消えたんだ。どういうことだカザクモ?」

「私が何でも知っていると思うな。逃げたとは思えんが」

 さっきまで感じていた気配の出所まで行ってみたが、やはりそこに妖人の姿はなかった。

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