どうしようもないものをどうにかするために

 朝目覚めるのは、決まっていつも腕の痛みからだった。

 真夏だというのに長袖の上着を羽織って布団の中に入っているので、冷房を利かせても寝心地はあまりいいとは言えない。

 鈍く痛む右腕を押さえ、着替えようと起き上がる。先にズボンを替えて、上着を脱ぐのは出来る限り後に回す。手早く上も着替え、別の長袖の上着を羽織る。

 右腕は常に疼き続けるが、もう十年以上付き合ってきた痛みだ。日常生活に支障はない。ただ、痛むだけだ。

 朝七時過ぎ。大学は夏休みで特に予定もないのだが、いつも腕の痛みのせいで早く目が覚めてしまう。

 朝食は適当に冷凍食品でも食べようと冷蔵庫のある台所に向かうために黴の臭いのする廊下を歩いていくと、途中で思わぬ人物と顔を合わせた。

麻子まこさん?」

 川島麻子は眠そうに目を擦りながら口を開く。

「あ、おはよう、きよし君」

「おはようございます。それより、何故あなたがこの家にいるんですか?」

 清が訊くと、麻子は手で口を隠しながら欠伸をしてから、それがね――と話し始めた。

「昨日の夜突然安野あんのさんから電話が入って、すぐに来てくれって言われて。で昨日の夜遅く着いたらもう遅いから要件は明日話す、泊まってくれていいから、って。相変わらずだよね」

「それであんな胡散臭い男の家に泊まったんですか。麻子さんはもっと危機感を持った方がいいと思いますよ」

 そう言うと麻子は少女のように笑う。実際、中学生の娘がいるとは思えない程麻子は若く見える。

「大丈夫だよ。安野さんとは結構長い付き合いだし、そういう人じゃないっていうのはわかってるから」

 清は麻子に朝食はどうするのかと訊ねる。ついでに麻子の分も作ろうかと思って訊いたのだが、麻子はそれなら任せて――と胸を張る。

「一応主婦ですから。あるもので何か作らせて」

「いや、お客さんにそんなことはお願い出来ませんよ」

「いいから気にしないで。あ、じゃあ清君は安野さんを起こしてきてよ。その間に作っとくからさ」

 明るく言われ、清は仕方なく引き下がった。安野を起こすという役回りは面倒だが、麻子に逆らうのはどうにも気が引けた。

 清は黴臭く、無駄に長い廊下を奥に進んだ。この家は昭和の初め頃に建てられたという恐ろしく古い建物で、三十年程前に安野が安値が買い叩いたらしい。どうもその頃は化け物屋敷として名が通っていたようで、不動産屋も扱いあぐねていたという。それを安野がまるで稲生物怪録いのうもののけろくが如き怪異に立ち向かい、見事勝利してこの家を手中に収めたという話を聞いている。

 安野がどんな汚い手を使ったのかなどということに興味はないが、どうやら化け物屋敷というのは本当らしく、現に生活している中で清は無数の雑鬼や妖怪共を目にしている。

「安野さん、起きてください」

 襖を開け、広い部屋の真ん中に敷かれた布団の中で丸まっている白髪の男に声をかける。

「麻子さんが朝食を作ってくれるそうですよ。それより夜中にご婦人を呼び出すなんて何を考えてるんですかあなたは」

 安野は布団から抜け出すと大きく欠伸をして身体を起こし、

「食べる」

 とだけ言って立ち上がる。安野の場合寝間着も部屋着も同じなので、そのままダイニングに直行する。清は溜め息を吐いて、自分は顔を洗いに洗面所に向かう。

 清がダイニングに入るとパンの焼けるいい香りが漂っている。安野は既にテーブルに着き、焼けた食パンを頬張っている。

「はーい、出来ましたよ」

 麻子は手に持った皿を安野の前に出す。綺麗な形のプレーンのオムレツが皿に乗っていた。冷蔵庫の中には卵以外にろくなものが入っていなかったので卵料理になるだろうという清の予想は見事に的中した。

「清君も座って座って。すぐに次の焼くから」

「すみません、わざわざ作っていただいて」

「気にしないでって言ったでしょ? ほら、いいから座って」

 そう言われて清は安野の対角線側の席に腰かける。

「安野さん、パン焦げないように見ててくださいね」

「うん」

 食パンを半分程食べ終えてオムレツに手を伸ばした安野は横目でオーブントースターの中をチェックする。焦げ目がついていることに気付いた安野はタイマーを切り、中の食パンを皿に取り出して清の前に差し出した。

「ありがとうございます」

 続いてマーガリンもこちらに差し出すが、清は暫し逡巡する。

「温かい内に食べてね。私のことは気にしなくていいから」

 清は苦笑し、マーガリンを塗ってパンを齧る。

 清の分のオムレツが運ばれ、目礼すると麻子は楽しげに笑った。すぐに自分の分のオムレツも焼き、清の隣に座る。

「それで、用って何なんですか?」

 全員が食べ終え、手早く食器を洗った後で麻子は安野に訊く。安野は立ち上がってどこからかくたびれた鞄を持ってくると、中から数枚の紙片を取り出した。

「これ」

「何ですか、これ――」

 麻子は目を丸くして赤い鳥の絵が描かれた紙に見入る。

波山ばさんですね。こっちは五位の光――桃山人夜話とうさんじんやわとは微妙に絵が違いますが、いや、それよりこれは――」

「紙の中に、妖怪が封じ込まれているん――ですか?」

「うん」

 あっさりと認め、安野は他の紙も見えるようにテーブルの上に広げる。清にはこの紙の中の力が見るだけで伝わってくる。それは麻子も安野も同様だろう。

覡符げきふ

「一体どこからこんなものを?」

「色々」

 麻子に訊かれるも安野は不気味に微笑んではぐらかす。

「妖人は」

 急に話題が飛び、麻子は混乱したように首を傾げる。安野独特の言葉を大雑把に端折る喋り方は清の方が対応が上手いので、ここは清が引き継ぐ。

「この辺りでは少ないですが、確実に数を増やしていますね。特に麻子さんの住む四門地区――あそこに集中している」

 妖人という驚異については清も認識している。しかしその性質上手出しが出来ず常に歯がゆい思いを抱いている。

「腕」

 安野に言われ、清はすぐさま理解して右腕をテーブルの上に出して上着を捲くる。

 そこには肘から手首にかけて長く深く生々しい切り傷が走っている。清を常に苦しめ続ける、過去に付けられた呪傷。普通の人間には見ることが出来ない代物だが、この場にいる者達は皆これを見ることが出来る特殊な人間だ。

「妖人は」

「妖怪でも人間でもない。対抗出来るのは、同種の存在だけ」

 この疼き続ける呪傷。普通の人間に見ることが出来ない事実が示す通り、この傷を受けた腕は半ば妖怪側の領域に達している。

「まさか、清君に?」

 ここで漸く気付いたのか麻子が声を上げる。

「試す」

「価値はありますね」

 清は波山の覡符を取り、深く息をしてそれを傷口に走らせた。

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